哀願


 もともと真の紋章の恩恵などどうでも良かった。魔力がどうのとか、世界を制する力がどうのとか。全く関係がなかったし、そもそもこの紋章の所為で見なくてもいいこと、知らなくてもいいことばかりを突きつけられて生きてきた。出来ることなら誰か他の人間に押し付けてやりたいもので、それが出来ないこともよく知ってはいるのだが。
 師の命を受け星の流れに参加するようになって、更に深くそう思うようになった。

 今日は、軍主に引っ張られることも無く、かといって隣国大統領の息子が遊びにくるわけでもなく、久しぶりにゆっくりと自分の職務が果たせそうで、朝から気分が良かった。回りの人間にはきっとその辺はわからないだろうが、間違いなく自分は上機嫌であった。
 それがどん底に落とされたのはつい先程。不意に増えた紋章の気配に、彼、トランの英雄が転移してきたことを知る。(余談だが、たった三年行方を晦ましている間に転移をマスターしているあたり、彼だと思う。)

 彼が空間を渡ってこの城に来る場合、十中八九実家で嫌なことがあったときだ。ある程度のダメージならばその場で押さえ込んでしまうのだろうが、たまに、あの家に、あの国にいることすら辛くなることがあるらしい。そういうとき、彼は何故かこの城に来る。しかも、軍主すら知らないような屋上の片隅に。

 真の紋章を持っているもの同士だからか、それとも、別の理由があるのか。
 彼が強い感情を、特に、負の感情を抱けば、それは紋章を通して自分に伝わる。始めはどうしてこんなに気分が悪いのか気付いてなかったが、気付いてみれば何のことはない。彼の感情が流れてきているだけなのだ。そして、自分にも感じ取れているということは、よほどひどく彼が落ち込んでいるときで。
 ここまでダイレクトに負の感情が伝わってくるのには、当然受け取る自分のほうにだって問題があるのだろうけれど。それでも毒づきたくなるというものだ。

 怒りを風に乗せて送ってみても反応無し。時たまそれだけで伝わってくる感情が弱まるときがあるのだが、今日は弱まりそうに無く。それどころか、風を送ったことにすら気付いていないのかもしれない。それは彼が相当深くまで暗い思考に落ちている証でもあって。
 体中を駆け巡る感情。きっと、彼はひどい顔をしているのだろう。思って、同じように眉をひそめている自分に気づく。以前なら馬鹿馬鹿しいと、例え表面上でも、ポーカーフェイスを保とうとしていたかもしれない。でも、最近は、そんな余裕すら無くしてしまった。

 ああ、もう。頼むから…………

 哀願だろうが、何だろうが、何でもしてやるさ。

 きっと今の自分なら、恥も外聞も無く、本当にどんなことでもやってのけるだろう。
 強く握り締めていたロッドから手を離し、背を後ろに立つ石版に預ける。軽く息をついて、目を閉じた。そして、幼い子供が十字架の前でするように、両手をきつく胸の前で組み合わせる。
 ここはホールの石版前で、目の前を通る人間などたくさんいるのだけれど。もう、そんなことはどうでもよかった。ただ、ひたすらに。神などではなく、もっと別の不確かで、信じられるものへ。
 祈り願い続ける。


 お願いだから。


 泣かないでよ。




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2007.10.02
















散文。恥ずかしい。
ルク→坊。基本坊ルクは両思いです。