決意 「――――ッ!」 声にならない叫びをあげてサイハは飛び起きた。 額に浮かぶ汗、背中に張り付くシャツ、掛布を握る拳が微かに震えている。 目の前に広がるものは、既に見慣れたといってもいいほどには慣れたニルバーナ船の自室。ベッドと、テーブルと、本棚と。必要なものしか置かれていない。置かせていない部屋。 はあ、と息を吐いてベッドから降りた。テーブルの上にあった水差しから水を口に含み、喉を通す。生ぬるいそれが何もかもを押し込めてくれたら良いのだが、そう簡単にいくはずもなく。 「きっつ……」 誰もいないのをいいことに少しの弱音。 大抵のことなら乗り越えてみせる。友達に裏切られようが恩人殺しの容疑を掛けられようが、死へ導く紋章を押し付けられようが。そこは大きな問題ではない。少なくともサイハにとってはどうでもいいことの部類に入ることだ。 ただ、その紋章がたまに放つ、内部に閉じ込められた人々の叫びだけは、どうしても耐えられなかった。 自分の痛みじゃないから、かもしれない。 自分のものなら自分が耐えれば良いだけであり、自分でその活路を切り開けば良いだけであり、どうとでもなる。 ただ、突きつけられるそれは人の痛み。人の苦しみ。 「さすがに、団長のは、キツイなぁ」 汗ばむ自分の手のひらを見る。 今まさにこの手で。 あの行為が、紋章に生を奪われた人々をその苦しみから解放するものだと、そう信じたい。今までは無理やりそう思い込んできた。 けれど、さすがに。 何処の誰とも知れない人間を認めてくれた彼。 感謝など、いくらしてもし足りない。 どうでもいいと、どうでもいい人間だと自分ですらそう思っていたのに。ただ一人だけそれは違うと言い続けてくれた人。 今でも、自分がどうでもよくない人間であるとは決して思えないけれど、彼の言葉に救われたことは確かで。 「……何にしろ殺したのはおれ、か」 そもそも彼がこの紋章を宿すはめになったのはサイハの所為。 そして今、紋章の内部に縛られていた魂を解き放った。 セツやアカギが紋章を恐れ、忌み嫌い、近づこうとしない気持ちがよく分かる。 「……サイハ?」 突然、室内に響く自分以外の声。ポウ、と室内に現れる光の塊。 「テッド……」 姿が現れずとも、それが誰かなどすぐに分かる。空間を越え転移できるなど、テレポート魔法を使うビッキー以外は彼くらいしかいない。 つい最近幽霊船で出会い、仲間になってくれた少年。詳しくは知らないが、きっと自分以上に濃い人生を送ってきているのだろう。構うな、と。誰も近づくなと。常にそう漏らす彼ではあるが、その根底が酷く優しく、また無邪気であることを知っているのはサイハくらいかもしれない。 「ごめん、伝わった?」 同じ真の紋章を持っているからか、その紋章の性質がそもそも似通っている所為か。 たまにこういうことがあった。 あまりにも暗い思考へ入り込んだとき。紋章を通じて互いの心情を感じ取ってしまう。おそらく今もその所為でここに転移して来たのだろう。 「いいよ、別に。ちょうど俺も寝付けなかったんだ」 そういって手に持っていた瓶を机の上に置いた。どうやら酒瓶らしい。 「エレノアさんのとこから?」 「あれだけあれば一本くらいなくなっても気づかねぇよ」 くすり、と笑みを浮かべて。 アルド辺りが見たら驚きそうな柔らかな笑み。 「付き合ってくれるだろ?」 その問いにサイハは勿論、とグラスを取り出した。今の今まで彼が寝ていたベッドに腰を下ろしたテッドにグラスを手渡し、酒をそそぐ。香りがいい。カレッカの酒だろう。 「っと、お前、飲める人間だっけ?」 サイハがグラスを傾けようとしたところで、そうテッドが口にする。今になって問うことではないだろう。思わず笑みを零し、「騎士団でよく先輩の相手してたよ」と答える。正確には相手をしていたわけではなく、させられていたのだが。 「ならいいや。人間やめて久しいから、どうも感覚が狂っててさ」 サイハの回答に満足したように頷いてから、ぐっとグラスの酒を煽る。あっさり吐かれた台詞にしてはずいぶんと重い。テッドらしいな、とサイハは苦笑を浮かべた。 「テッドが人間じゃないならおれももう人間じゃないってことか」 そう判断されてもサイハは特に何も思わない。そう言われるのだったらそうなのだろうと、ただそれだけのことである。 サイハの言葉にテッドは小さく首を傾げた。 「いや、どうだろうな。真の紋章は宿主に永遠の生命を与えるけど、罰の紋章は宿主の生を喰らう。唯一かもしれないな、真の紋章の中で不老が約束されないなんて」 「永遠の命」 言葉を繰り返す。そんな話ははじめて聞いた。 もともと、サイハは真の紋章について詳しかったわけではない。罰の紋章を宿す前は噂で聞いたことがある程度で、ほとんどが神話のようなものだと思っていた。 「不死ではない。殺そうと思えば殺せるし、死のうと思えば死ねる。けど、老けない。時は止まる。月の紋章を宿してる吸血種族の始祖なんかはもう五百年以上生きてるはずだ」 「スケールが違うな」 「それを指して人とはいえないだろ。この間現れたバランスの執行者、レックナートだってもう二百五十は越してるな。俺より百くらい上だったから」 ここまで来るともう数えるのがあほらしくなってくるよ、とそう言った時の彼の顔には酷く暗い笑みが張り付いていた。 「ってことは、テッドは百五十歳くらい?」 単純に今の話を聞けばそういうことになる。 「多分ね。まあ、ここんとこずっと紋章を船長に預かってもらってたんだけど。こいつを宿した時、俺はもっと小さかったから」 グラスを左手に持ち替え、こいつ、とテッドは右手をかざす。そこに宿るは他人の命を喰らう生と死の紋章。紋章の力を使えば使うほど自分の命が削られていくのと、使えば使うほど回りの人間の命が削られていくのとどちらがより辛いか、など比べることもできない。だからなのかもしれない、真の紋章を宿した人間は宿した人間同士にしか分からない痛みがある。傷を舐めあう、と言えば言葉は悪いが、その傷は舐めたところで到底治るものではないのだ。 だからこそ、とテッドは思う。サイハに何かを言えるのは今のところ自分だけだろう、と。 ほかの誰でも駄目だ。紋章の加護(といっていいかどうかは分からないが)を受けているものは何人かいるようだが、真の紋章を宿している人間はおそらくいないのだろう。自分とサイハ以外には。 酒のつまみに、と部屋に常備してある一口サイズのまんじゅうを嬉々として頬張っているサイハへ、テッドは「一つ言わせてくれ」と少しだけ真面目な顔を向けた。 「お前には道がある。霧の船の導者に紋章を手渡せばサイハは紋章の呪いから解放される。導者は紋章を集めてこの世界を壊そうとしてるけど、それは俺やレックナートが紋章を渡さなければ済むこと。ほかの紋章持ちだっておいそれと渡したりはしないさ。だからサイハがそれを気に病むことはない。 この戦いが終わるまではそれを手放すことはできないだろうけど、それが終わったら。全部終わったらそういう手もある、ってことは覚えておいて」 真なる紋章がすべてこの世界になければバランスが崩れてしまう。レックナートなどはそう言ってテッドの言葉を許容できないだろう。しかし、テッドは彼女のようなバランスの執行者ではない。この世界がどうなろうが関係はないし、興味もない。ただ、友達が苦しまなければいい、とそう思うだけだ。 そう語るテッドをどう思ったのか、サイハは口の中のまんじゅうを飲み込んだあと「ありがとう」とふわりと笑みを浮かべた。 右手の紋章のせいで人と関わることを避け、無口無表情を装っているテッドとは違い、サイハは基本的には無口で無表情な人間だ。自分の感情を表に出すことを苦手としているのかもしれない。だから今のような満面の笑顔はなかなか見れるものではなかった。 サイハの珍しい表情に軽くうろたえながら、「礼を言われるようなこと言ったか?」とテッドは首を傾げる。 「だってそれ、おれを心配してくれてるんだろ?」 その言葉にテッドは頬をかいて「まあ、そういうこと、かな」ととぼけた。直球で要約されると恥ずかしいものがあるのだ。 「でもね、テッドだってそうやって戦っている。おれだけ逃げるってわけにはいかないよ」 「俺とお前とじゃ紋章が違う」 「呪いは同じ」 どちらにしろ酷く痛い。 無表情のまま、サイハは己の胸のあたりをぎゅうと握り締める。その「痛い」が肉体的苦痛ではなく精神的苦痛を指しているのは明白で、それについてテッドに異論はない。 そう、痛い、のだ。 万物の礎となる真の紋章。その力はあまりにも強大で、人の身には余る。触れてはならぬもののはずなのにどうして人の間を巡っているのか。巡ってこその真の紋章なのかもしれない。 「痛いのは嫌いだ」 サイハはぽつり、と零す。罰の紋章が見せる幻はどこまでも痛い。痛くて苦しい。その痛みや苦しみはサイハの前に宿した人間のものだろう。もし仮にサイハがこれを手放せばまた誰かが苦しむことになるのだ。 「おれの痛みならいくらでも我慢してみせる。耐えられる。けど、人が痛いのは嫌だ」 昔これを宿していた人間は次に誰も宿さぬように、とひっそりと遺跡の奥で石になったという。その墓を見たときに、サイハは漠然と己の最期はこうなるだろうな、と思っていた。それまでにこことは違う人気のない場所を探しておこう、とそう思っていたのだが。 「今考えを変えた。おれは生きる。何が何でも生き残る。死ぬ場所を考えるのはやめた」 そんなこと考えてたのか、と目を見張るテッドに、「テッドも考えたことくらいあるだろ?」と返された。 確かに、と思う。考えぬ人間はいないだろう。いつどのようにしてどの場所で死ねばいいのだろうか、と。 「おれはこの紋章のせいで誰かが痛い思いをするのはもうやだ。だから何が何でも生き残るし、導者にも渡さない。渡すと今度はテッドが苦しむ気がするから」 テッドが痛いのも嫌だ、とサイハはまっすぐにテッドを見て言う。 深い海のような緑がかった青の目。そこに湛えられた光はどこまでも真っ直ぐで強かった。己の弱さから逃げ、薄暗いところばかり見ていたテッドにはまぶしいほどで、思わず目を逸らしたくなる。 しかし、逸らせない。捕らえられたのだ、この瞳に。 こういう彼だからこそ、もう一度手を取ってみようと思ったのではないか。この光に憧れてここにいるのではないか。 その力強い視線を受け止め、ふとテッドは思う。 前にも一度こういう目をする人間に会ったことがある、と。それはとても一瞬のこと。そう、村が襲われたその前後。 「? テッド?」 突然黙り込んでしまった彼を覗き込むようにサイハが声をかける。 「……どうして、忘れてたんだろう」 呟かれた言葉はサイハには意味が取れず、とりあえずテッドが言葉を続けるのを待った。 「俺、昔お前によく似た奴に会ったことがある。サイハより性格がきつそうだったけど」 目はそっくりだ。 何があろうとも己の意思を貫く、そんな決意を秘めた目。 「あれは俺がいた村が襲われたときだったな。黒い髪で黒い目で。今の俺たちと同じくらいの年の男。何か、言ってたな、確か……。えっと……」 かれこれ百五十年も前の話だ。正確に覚えているはずがない。今思い出せたことも奇跡のようなものだ。 「『絶対に助ける』とか、『待ってろ』とかだったかな。あれ? そういえばあいつ、俺の名前知ってなかったか? しかも未来がどうの、って言ってた気が……」 隠されたあの村が襲われた直後のことだ。一人だけ逃がされどうしていいのか分からなかった幼い自分。心細さに泣きそうになっていたところ力強く励ましてくれた人間。 『テッド、俺たちは必ず会える。絶対に助けるから……。待ってろ』 気がつけばあの男たちは消えていた。無事に生き延びていれば良いが。 そんなことを思っていると、隣でサイハが「もしかしたら」と口を開く。 「未来から来たのかもね、その人」 あまりにも突拍子もない言葉に話題を振ったテッドの方があんぐり、と口をあけてサイハを見つめてしまう。隙あり、とでも言うかのように、サイハは、開いたテッドの口へ小さなまんじゅうを押し込んだ。 「未来のテッドを知ってたから名前も知ってたんだよ。急にいなくなったのは未来に帰ったから」 ね? と首を傾げられても、はいそうですね、と頷けない。とりあえず口の中のまんじゅうを片付けてから「妄想が過ぎるだろ」と呆れたように言った。 しかしサイハは楽しそうに笑いながら「だって」と続ける。 「もしその人が本当に未来から来たのならいつか会えるじゃん。それを楽しみにこれからを生きるのもありだろ。もちろんおれも付き合うよ」 何せおれたちには時間だけはあるんだから。 紋章などに喰われてたまるか、とそう笑って言うサイハを、強いな、と純粋に思った。 強くて優しい。 こんな友人を、得ることが出来て良かった。 心の底からそう思う。 そしてこれからどれだけのときを生きるのかは分からないが遠い将来、あるいは近い未来に、またサイハのような友人が出来るかもしれないことを、その時を共に待つことができることを楽しみに思った。 紋章を継承して初めて、テッドは生きるということを楽しく思ったのだ。 ブラウザバックでお戻りください。 2007.10.02
おかしいな、サイハの話だったのにテッドで終わった。 男前坊さま。 |