ある日石版の前で


 ニルバーナ城ホール。石版前。
 その日も風の魔術師は相も変わらず無表情でそこに立っていた。一体何が楽しいのか、彼に直接その目的を問うことに成功した者はいない。もしかしたら彼自身、自分が何をやっているのか、何をやるべきなのか分かっていないのかもしれない。それ故の無表情なのかもしれない。
 その日がいつもと変わらない日であったのなら、いつもと同じように無表情のまま夕方近くまで石版の前にいるはずだったのだが、生憎と天の配剤は彼に「いつもと同じ」ものを与えるつもりはないらしい。
 次第に近づくその気配、いやに浮かれきった気配に軽く溜め息をついて、このまま逃げてしまおうかと思う。ただ、彼の気配が分かるということは向こうにも分かるということで。今ここで逃げたりしたらあとでどれだけ陰湿な嫌がらせを受けるか分かったものではない。(余談だが、それはそれで面白かったりする。ただ今は、それにどんな仕返しをするのか考えるのが面倒くさいのである。)
 もう一度盛大に吐き出した溜め息に重なって、彼の機嫌を急降下させている原因の声が響いた。

「ルーッくん、あーそーぼっ!」
「ヤダ」

 取り立てて大きな声というわけではない。それでも彼、トランの英雄の声がホールに響いて聞こえるのは何故だろうか。声は嫌いじゃないんだよな、とルックはどうでもいいことを思った。
 スキップでこちらに近づいてきていた元天魁星は即答された言葉に、ぴたりと足を止めてその場に崩れ落ちる。

「ひ、ひどいよ、ルック……将来一緒になろうって、約束した仲じゃないかっ!!」
「した覚え、ないんだけど」
「ルックに遊ばれたーーーーッ!!」

 飽くまでも冷静に、常識的に。向こうのノリに乗ったら負けだ。しかし、ルックのその気持ちが分かっているのか、元天魁星セツナは何処までも突っ走る様子を見せる。しかし、さすがニルバーナ城。現天魁星が作り上げた城だけある。ホールを行き交う人々は過去の英雄の奇行など目にもくれず、己の仕事に没頭していた。

「人の話、聞いてるのかな」

 走り去った英雄の背中を見ながらぼそりと呟く。そのルックの思いを代弁するかのように、突然背後から声が降って沸いた。

「聞いてないと思うよ」
「都合のいい耳、持ってるからな、あいつ」

 お気楽のほほん軍主とナンパ放蕩息子だ。

「……毎回、神出鬼没だよね、君ら」

 気配すら感じなかったことに軽く驚いて、ルックが言うと、何を当たり前とでもいいそうな顔をされた。

「だって、僕の城だもの」
「逃げられたらナンパできないじゃん」

 理由になっていない理由を胸をはって言う二人に、ルックは盛大に溜息をついた。力なく肩を落としているところに、先ほど泣きながら走り去っていった英雄が、今度は笑いながら走り寄ってくる。はっきり言って怖い。

「ってことでルック。結婚しよう!」
「は?」
「やだなぁ、だから、結婚だよ、結婚。あ、法律のことなら気にしなくていいよ。あんなの、いつでも変えられるから」

 ヒラヒラと手を振りながら軽くそう言ってのけるセツナ。確かに彼に求められてはレパント辺りは二つ返事で受け入れそうだ。その様子がありありと想像できて軽く頭痛を覚えたルックの側でシーナがにやにやと笑みを浮かべていた。

「おれ今から帰って親父のあと継ご。俺の目が黒いうちはぜってそんな法律通さねぇ」

 よく考えれば大統領息子。こういうときに使わず、いつ権力を使うというのか。
 そんなシーナにセツナはにっこりと笑みを向けた。

「じゃ死ね」

 黒い影が英雄の右手から伸びてきて、シーナは抵抗する間もなく床とオトモダチになる。反応がないのがつまらないらしく、セツナしばらくそれを足で転がしていた。
 現天魁星コクウとルックは彼らから遠ざかって、ひそひそと会話を交わす。

「……セツナさんて、人間として最低だよね」
「僕はあいつを人間に分類したくないんだけど」
「じゃあモンスターか何か?」
「それも、モンスターに失礼な気がする。むしろ、全く別物の新種ってことで」
「『腹黒類性悪科セツナ』って感じ?」

 しかし、あからさまな内緒話は悪口を言ってますと背中に書いてあるようなものだ。シーナに飽きたセツナがこの短い空間を転移して、二人の背後に現れた。

「お前ら、なんか、ものすっげぇ失礼なことぬかしてないか」

 普段より多少低めの声に、ゾクリと背中を駆け抜けるものがある。コクウが、「そ、そんなことないですよ」と言い訳しようとした瞬間。

「聞き間違いだよ」

 とルックがあっさりと否定した。
 しかも、普段は決して浮かべることのない爽やかな笑みと共に。
 ……これは怖い。セツナの低い声も怖いけれど、ルックの笑顔の方がもっと怖い。とりあえず、この二人ともを敵に回すことは避けよう。何が何でも避けよう。二人に比べたら何処ぞの狂皇子など取るに足らない。コクウは固く心に誓った。
 さすがのセツナもルックの笑みにいくぶん口元を引きつらせて、「ならいいけど」とあっさり引き下がる。
 しかし、この程度で今までの会話の流れを変える男ではない。セツナはどこかから一枚の紙を取り出して、ルックに突きつけた。

「じゃ、ルック。この婚姻届にハンコ、押して? あ、保護者の許しは要らないからね」

 既に双方の名と、マクドール家の印(文字がいびつなのでもしかしたら芋でも彫って自分で作ったのかもしれない)が押してあり、あとはルック側の印を押せばすぐにでも提出できるようだ。

「……用意周到だね」
「俺に抜かりはないよ」

 にやりと笑うセツナに、ルックは溜め息を吐く。復活したシーナとコクウは既に傍観者を決め込んでいた。ポテトチップスとお茶を片手に、昼ドラを見る主婦を気取っている模様。
 目の前には笑っているセツナ。後ろには座り込んでこちらを見ているシーナとコクウ。
 ルックはもう一度溜め息をついた。

「……分かったよ」
「えっ!!」
「ル、ルック!!?」

 その返答に、傍観者二人が驚いたように声をあげた。さすがに「是」と返事をするとは思っていなかったのだろう。心なしかコクウの声が嬉しそうなのはこの際置いておくことにする。
 しかし驚いたのは彼らだけではなかった。何故か言い出した本人が一番驚いた顔をしている。そしてすぐに満面の笑みを浮かべると、「ルック!」と抱きついてきた。
 そんな彼の顔面にロッドを振り下ろして、ルックは人差し指を立てる。

「たーだーし!」

 非力な彼とはいえさすがに顔面直撃は痛い。涙目を浮かべて蹲っているセツナに向かって、ルックはきっぱりと言い放った。

「君が奥さんだからね」

 瞬間止まる時間。彼らだけではなく、ホール全体の空気が固まったような気がした。

「はい?」

 ひっくり返ったセツナの声に、ルックの言葉が重なった。

「だから、君が妻なの。僕はお婿さん。君がお嫁さん。おっけ?」

 オッケーも何もそのあの……返答に窮しているセツナを尻目に、ついに堪えきれなくなったらしいコクウが盛大に吹き出した。

「あはははははっっ!」

 腹を抱えて大笑いをする現天魁星。その隣にいるシーナはウエディングドレス姿のセツナを想像したのか、吐き気をこらえているようだった。

「セ、セツナさんがお嫁さんっ!! よりにもよって!! あははははは!」

 まだ笑う。楽しそうに笑う。
 ちなみに忘れているとは思うが、ここは城のホール。つまり一般の人も通る。床を殴って馬鹿笑いしている軍主にさすが皆引き気味である。
 セツナはようやくショックから立ち直ったのか、ふうと溜息を吐いて首を振った。

「……しょうがないね。本当はそんなガラじゃないけど。ルックと一緒になれるなら、お嫁さんだろうが奥さんだろうが、新妻だろうが、なんにでもなってやろうじゃないか!!」

 右手を拳にしてきっぱりと言い切った。そのため、彼はルックの目が怪しく光ったのを見逃している。

「言ったね? いま、お嫁さんでもいいって言ったよね? 今更取り消したりはしないよね?」
「ああ、男に、っていうかこの俺様に二言はないっ!!」
「よぉし、よく言った! じゃあ、これを着てもらおうじゃないか。今すぐに、ここで!」

 セツナに向かってそう言ったルックは、どこからか真っ白いエプロンを取り出した。フリルがふんだんに使われたそれは、ところどころに小さなリボンがいくつもあしらわれている。ずいぶんと可愛らしいエプロンだ。それを好んで着る人間がいるのだろうか、と考えて、自分の母親ならまだ似合いそうだなとシーナは思った。しかし、突きつけられたそれにぴしりと石化するセツナ。
 この場合、どこからそれを取り出したのかをツッコむべきなのかな。
 白いひらひらのエプロンを持ったルックを見ながらコクウはそんなことを考えていたが、そもそも問題点はそこではないと彼にツッコんでくれる親切な人間は残念ながらいなかった。

「ルック、それは……?」

 恐る恐る近づいて、シーナが問い掛ける。

「エプロンだよ。見て分からないの?」
「それくらいは分かるよ。そうじゃなくって……」

 どうしてそんなものを取り出したのか、理由を聞こうと思ったのだが彼が言い終わる前に言葉を遮ってルックは言った。

「新妻って言ったら、真っ白いエプロン!」

 しかも力説である。

「ルック、ちょっと古いよ、それ……」
「あー、でも分からなくもないかも」

 苦笑して言ったコクウに対し、シーナは顎に手を当てて考える。確かに、彼の妄想の中の新妻のエプロンも白い。ここまでひらひらしてはいないが、白ではある。フリルやリボンはルックの趣味だろうか。

「だろ? オプションはお玉ね」

 シーナの言葉に頷いたルックは、やはり当然といったようにそう言葉を続ける。それに笑いながらコクウは、お決まりの台詞を言った。

「そんで、あれでしょ。『あなた、お帰りなさい! ご飯にする? お風呂にする?』」

「『それともわ・た・し?』」

 突然振ってきた声。三人が驚いて振り返れば、かわいらしいエプロンをつけて、お玉を持ったセツナがウインクをよこした。

「さあ、ルック。新妻でもなんでもやるから、愛の巣へ旅立とうじゃないか!!」

 エプロンをつけたまま、ルックの腕をつかんでずるずると引きずっていく。
 シーナとコクウはセツナのウインクに精神的ダメージ800。既に瀕死。さらわれるルックを連れ戻すこともできず、微妙にずれたテンションのセツナの笑い声がだんだんと遠くなっていく。
 その笑い声に、ルックの叫び声が重なった。


「しまった! こいつは新妻スタイルくらいで怖気づくような奴じゃなかったぁっ!」




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2007.10.02
















これもいつ書いたのか不明。
当家の坊ルクの基本。
このころからぶっとんだキャラが好きだったんだなぁ。