進む先


 他意はないのだが、と前置きをして、クロデキルドが口を開く。

「本当に構わないのか?」

 集落を出て樹海を進むこと十数分ほど。振り返っても入口すら見えなくなってしまった位置。ここならば新しい長を認めない、と息まく村人たちの視線は届かない。

「何度も言うが、リュウジュ団にはリウ殿の知恵が必要だ。いなくなられては非常に困るが、一族には纏める者が必要だろう」

 リウの肌を這う線刻は書であると同時に、スクライブの長たる証。どれほど年若くとも、前長がそれと認めて受け渡したものだ。一族の他のものに今は認められずとも、やはり集落にいた方がいいのではないだろうか。他のものもそう望んでいるのではないだろうか。
 クロデキルドは後ろをついて歩いていたスクライブ二人へ目を向けた。彼女の視線を受けたルオ・タウは、相変わらずぴくりとも表情を変えぬまま「問題はない」と答える。その言葉にレン・リインも頷いて口を開いた。

「ラオ・クアン様が村のためにしていたことというのはほとんどありません。長は書を継承し、守るのが第一の仕事ですから」

 協会に悟られぬために書の力は使わず、ただひっそりと暮らしていたのだ、と。
 本来なら長がするべき事柄は、他の者たちがそれぞれ役についてこなしているという。
 「それで問題がないのは凄いな」と感心したように言った後、「リウ殿も同じお考えか?」とクロデキルドは続けた。
 静かで訥々とした口調。芯のあるその声はやはり、一国を率いるにたる人物だと思わせるもので、こういう人物が人を纏めることができるのだろう、と思う。
 ふ、と息を吐き出して、リウは振り返った。クロデキルドへ向ってに、と笑みを浮かべると、「一つ」と指を立ててみせる。

「この集落の場所は既に協会に知られてしまってる。森の結界はあの女司書には意味がねーし。オレが長になることを辞退して、これを別の誰かに渡したら次に狙われるのはソイツっしょ」
「確かに」

 頷いたクロデキルドに、「だったらオレが持ってた方がいい」とリウは言い、「二つ」と指をもう一本立てた。

「クロデキルドさんも知ってるとおり、オレ、戦うの苦手なんだよね。腕っぷしも強くないしさ、オレ一人じゃ協会からこれを守り切る自信はないわけ。その点、城に帰ればさ」
「リウの側には必ずオレがいるしな」

 守るぞ、とあっさりと言われた言葉に面食らい、思わずきょとんとレッシンを見つめてしまった。言葉を放った本人はしごく当然のことだと思っているようで、いつものように真っ直ぐな目をリウに向けている。

「……だそーです」

 赤面しつつクロデキルドへそう言うと、彼女も「なるほど」と苦笑を浮かべた。

「確かにまあ、オレは村にはいたくないし、長は絶対に村から出るなとか言われたら、いくら書でも放り投げて逃げてたかもしんね。でも、どうやらそうじゃないみたいだし、これだけ書から逃げてたオレがこんなんになってんだから、ちょっとは覚悟きめて背負っとこっかな、ってね」

 指先まで伸びる線刻。同族たちとは異なり、肌に彫りこまれたものではないそれは、その気になればいつでも手放せるものだ。だからこそ逆に手放さないでいたい、とそう思う。
 それくらいの縛りがあった方が、心の弱い自分にはちょうどいいだろう、そう思う。
 腕を伸ばして線刻を目で辿る。
 この森を抜けたのはもう何年も前の話。

「……まさかまた、この森をこーやって歩くことになるとはねー」

 昔ここを逃げた時には想像もしてなかったよ、とリウは苦笑を浮かべる。
 何がどう転ぶのか分からない世の中。
 たぶんこれが生きる、ということなのだろう。変化の連続、それこそすなわち生というもの。
 あの集落にいたままでは決して味わえぬこと。

 木々の葉に遮られ、この森ではほとんど太陽の日差しが届かない。薄暗いのにどこか眩しい、奇妙な森。魔物を警戒しながら歩を進めていたところで、「あーの、さぁ」と隣を歩くレッシンが声を上げた。彼へ視線を向けると、眉を寄せて唇を尖らせ、何か納得いっていないような顔。何、と視線だけで問えば、「や、ずっと思ってたんだけどさ、」とレッシンは言う。

「その『逃げる』っての、違うくね?」

 言われた言葉の意味が掴み切れずリウは首を傾げる。そもそも『その』がどのことなのかが分からないし、どう違うのかも分からない。

「だってさ」

 一歩大きく足を踏み出したレッシンは、立ち止まってくるりと振り返る。同じく足を止めたリウを正面から見つめて言葉を続けた。

「リウは別に逃げたわけじゃねぇじゃん」

 昔も今も、とレッシンは言う。
 
「……や、今はともかく、昔のはただの家出だし」

 村にいた一族のものも言っていた、「逃げだしたものに長の資格はない」と。

 嫌だったのだ。
 この村が、この一族が、自身を取り巻くすべてのものが。
 だからこそ全てを捨てて、逃げだした。

「でもさ、そんときリウは11とか12とかそれくらいだろ?」
「まあ、線刻受ける前だかんね。それくらいだったと思うけど」
「オレ、それくらいの時って、とにかく遊んでたぞ。ディルクに稽古は受けてたけどほとんど遊びみたいなもんだったし、畑の手伝いサボって山行ったり、隣村のガキとケンカしたり、ジェイルとケンカしたり、マリカとケンカしたり」
「ケンカばっかじゃねーか」

 呆れたように言ったリウに、「ケンカしてても楽しかったんだよ」とレッシンは笑う。

「オレはここで暮らしたことがねぇから分かんねぇけど、少なくとも寝る場所とか飯の心配はしなくても良かったんだろ? そんなとこを出てく決心なんて、並大抵のもんじゃねえ」
「12の子供が一人で生きていく決意をするなど、確かに普通ではあまり考えられぬな」

 クロデキルドがそう静かに相槌を打つ。

「イレズミが嫌だとか、閉じこもってるのが嫌だとかってのもあったとは思うけどさ、『逃げる』ってのは自分よりも強いもの相手に対して使う言葉じゃん。自分を守ってくれてるはずのとこから出て行くのを『逃げる』とは言わねぇ。そういうのはさ、」


 『進む』って言うんじゃねぇの?


 森の中に閉じこもっているのが嫌だった。
 それを当り前だと思っている同族たちが嫌だった。
 苦しくて、苦しくて、息がつまりそうで。
 このままこの村で死んでいくのか、と。
 そう思ったら矢も盾もたまらなかった。
 その境遇に耐えられない己の弱い心を無視して。
 集落で何かを変えてやろうなどという強い心は自分にはなかったから。
 だから、全てから逃げだした。
 逃げて逃げて逃げて、逃げきれずに捕まった結果が現状で。
 こんな弱い自分がこの場所にいてもいいのだろうか、と。
 いつも真っ直ぐなレッシンや、誰にも負けぬ強い心を持つマリカや、しっかりと芯を持つジェイルの側にいてもいいのだろうか、と。
 ずっと思っていた。


 言われた言葉がすぅ、と心の中へ入り込む。
 同時にほろり、と。
 涙が、溢れた。

「――――ッ」

 思いもよらず零れたそれに自分でも驚いているうちに、がばり、とレッシンに抱きつかれた。

「っ、レッ、シン!?」
「だから、そんなに逃げた逃げた言うな!」

 な、といつもの調子で続けられる。
 クロデキルドやルオ・タウ、レン・リインは、リウが泣いてしまったところを見てはいない。顔を拭う前にレッシンが抱きついてきたため、おそらく気づかれてもいないはず。ああそのために、とリウは気づく。レッシンは突然抱きついてきたのだ。
 その機転に感謝しつつも、「分かったから離れろ」とレッシンを押し返していたところで不意に耳元で囁かれた。


「泣き顔、オレ以外に見せんじゃねぇよ」


 少し低いその声音はわざと作っているのだろう。
 夜の匂いを纏わせたそれに、さっとリウの顔が朱に染まる。

「――っ、レッシンッ!」

 ひっそりと囁かれたそれは他のメンバには聞こえておらず、リウが突然怒り出したようにしか見えないだろう。しかしそんな彼らの驚いた視線を気にしている余裕はなかった。赤くなった顔と泣いてしまったことを誤魔化すのに精いっぱいで。

「リウ殿、そんなに騒いでは魔物が」
「来た」
「三体、既にこちらに気づいてます」
「ほらみろ! リウがうるせえから!」
「オレのせいっ!?」





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2009.04.03
















スクライブ二人が動かしにくい。