捕える腕 どれほど切羽詰まった状況であっても、足というものはそう簡単に早くはならない。急いでファラモンへ戻らねばと頭では理解しているのだが、いくらなんでも夜通し歩き続けるのは無理な話で、もっと進めるだろう、と無茶を言うレッシンを宥めて日々の宿を決めること四日。 「ほんと、毎度毎度すみません」 レッシンの説得を手伝ってくれるクロデキルドへ頭をさげ、礼を言うのもこれで四度目。そんなリウへ彼女は「いや」と苦笑を浮かべた。 「正直なところ、レッシン殿のおかげでずいぶんと救われているところがある」 本来ならもっとも焦ってしかるべきなのは彼女自身である。一見それと分からないのは、彼女の努力の賜物であろう。百万世界の狭間にいた時もそうだった。うろたえるリウたちを落ち着かせてくれたのはクロデキルドだ。 その彼女がレッシンに救われている、とそう言う。 「私が焦る分を彼が態度で示してくれているようでな。大丈夫だ、とレッシン殿に言う度に自分でもそう思えてくるから不思議なものだ」 ファラモンには心強い仲間達がいてくれている。早く帰るに越したことはないが、戻るまでに何か大事が起こるということはないだろう。持ちこたえてくれている、そのはずだ。 「もしかしたらレッシン殿はそれを見越して、毎日そういう態度を取っているのかも知れぬな」 「や、それは絶対ねーっす」 顔の前で手を左右に振って見せたところで、「なー、腹減った! 飯、食いに行こうぜ」とレッシンが声を上げる。 「ね? あれが何か考えてる顔なわけないっしょ?」 苦笑を浮かべて言うリウに、クロデキルドは柔らかな微笑を返した。 突然狭間へ飛ばされそのまま集落へ呼び戻されたため、はっきりいって持ち合わせはほとんどない状態だ。魔物を倒しながらの旅であるため多少は稼ぐことができるが、それでも贅沢はあまりしない方がいいだろうということで、宿は部屋を二部屋取るに留めている。クロデキルドとレン・リインの女性陣の部屋と、レッシン達男三人が泊まる部屋だ。宿で三人用の部屋というのはあまりないため、大抵が二人用のツインを取ることになる。 「一応確認しておくが」 珍しく部屋に備え付けの浴室があったため、今はそこでレッシンが風呂に入っている。先に入浴を済ませていたリウは、窓枠に腰かけ、ぼうと空を見上げていた。 「今日も私がこちらの寝台を使わせてもらっても?」 「ああ、うん、いーよ。人前だとかでレッシンが気遣うはずないし。なんかもう、諦めたから」 ジェイルやマリカならまだしも、それ以外のものと同じ部屋で眠るにも関わらず、やはりレッシンはリウと同じベッドで寝たがった。嫌だ、と固辞しようとしても、結局は無理矢理引きずり込まれてしまうのだ。そもそもその事実を人に知られるのが嫌だ、というリウの気持ちをレッシンは全く理解してくれない。ルオ・タウの前だというのに、「こっちで寝ればいいじゃん」とはっきり言ってのけてくれたのだ。 それと知られてしまえばもうリウにだって拒む理由がない。ルオ・タウがこの程度のことで動揺するはずがなく、レッシンやリウに対する評価を変えるはずもないと分かっているから尚更で。 「寝辛くはないのか?」 「べっつにぃ。もう慣れたし」 ルオ・タウにそう返したあと、リウは「よっ」と声を上げて窓の外へと飛び降りた。 「オレ、ちょっと散歩行ってくる。先に寝てていいけど、窓の鍵は開けといてー」 レッシンにもそう伝えといてな、と言ってリウは夜の帳が下りた森へと足を向ける。 今泊まっている宿は街道を行く旅人のために設けられたものである。大きな町から少し離れた位置にあり、回りに他の建物はない。当然人の気配もなく、ざわ、と木々の葉が擦れる音が耳に届くだけだ。 静かな森はあの樹海を、あの集落を思い起こさせて苦手だった。それが平気になったのはほんの数日前からで。 くるりと視線を巡らすと白く輝く月が目に留まる。 集落でも、そこから逃げる道中にも、ふらふらと彷徨っている間にも、シトロ村でも、そしてニルバーナ城でも目にしていた白い月。 同じ軌道をくるくると回り、同じように光り輝いているはずなのに、どうしてこうも違ったものを見ている気分になるのだろうか。 宿の壁がほとんど見えなくなった位置まで来て足を止める。ちょうど近くにあった大木に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。 ぽっかりと浮かぶ月を見上げ、その光を遮るようにす、と右手を掲げる。 このイレズミが嫌で逃げ出したはずなのにどうして、と今でも思う。これを背負う覚悟を決めたつもりでも、元来の小心者はなかなか引っこんでくれないのだ。不安と恐怖。一度逃げ出してしまっていることを考えれば、また耐えられなくなった時に全てを捨てて逃げてしまうかもしれない、そう思ってしまう。 それは『逃げ』ではないのだ、と。 レッシンの言葉がふわり、と頭の中で蘇る。 逃げたのではなく進んだだけだと。 それを鵜呑みにできるほどリウは素直ではない。捻くれて、ねじ曲がった心は自分に関する事にはとことんまで疑ってかかってしまうのだ。 信じたい、と思う自分も確かに存在する。 そうであってほしい、そうであればいい、と思う心。 他の誰でもない、レッシンが言うのだから、と。 しかしリウの心はその思考にすら歯止めをかけようとする。 散歩に出てきたのは間違いだったかもしれない。 一人でいるから余計なことを考えてしまう。一度思考の渦に入り込んでしまうと、なかなかそこから出て来れないのだ。そうなったリウを無理やり引きずり上げてくれるのはいつもレッシンで。 「リウー?」 そう思っていたところに声が聞こえたものだから、リウはびくり、と肩を揺らした。 「おーい、リウ、どこだー?」 さくさくと草を踏む足音はこちらに近づいて来ている。戻ってこないリウを心配したのか、それとも単に自分も外を歩きたかっただけなのか。 「ここにいるー」 どきどきとうるさい心臓を無視して、座ったまま手を上げてひらひらと振ってみせると、左斜め前の幹の陰からレッシンが姿を現した。「見っけ」と嬉しそうに笑って彼はこちらへと駆け寄ってくる。その手には薄手の毛布が一枚握られていた。 「ルオ・タウが持ってけって。リウ、薄着だから」 でもあいつも薄着だよな、とレッシンは笑ってそう言ってリウの隣に座り込む。ばさり、と体の上に掛けられた毛布をレッシンの方まで広げてやりながら、「民族衣装みたいなもんだから」とリウは答えた。 「線刻がよく見えるような服を好むんだよ、スクライブは。オレも外出て気づいたことだけどさ。なんつーか、着ようと思う服が自然とこういうの選んじゃってんだよな」 肌を見せることを特に意図していたわけではないが、それでも完全に肌を覆う衣服を身に付けることに違和感を覚えるのも事実。 「育った環境ってのはどう足掻いても抜け切らねーよ」 どれだけ嫌っていたとしても。 どれだけ逃げてみても。 リウがあの村で育っているという事実はなくならない。 スクライブであるという事実はなくならない。 「やっぱオレ、人間じゃねーんだよなー」 はっきり言ってしまえば、人間という種族はさほど魅力的とは思えない。スクライブでいることも嫌だったが、だからといって人間になりたいかと言われたら素直には頷けない。 それでも、とリウは思う。 同じ場所にいたかった。 他の誰でもない彼らと。レッシンと同じ所に。 それはたとえ世界をひっくり返したところで決して叶わないことではあるが。 呟いたリウに、「それってどうでもよくね?」とレッシンは口を開く。 「人間だろうとスクライブだろうとリウはリウだろ」 肌を見せる服を好むのも。 体力がレッシンたちより劣るのも。 記憶力や洞察力が優れているのも。 スクライブだから、ではなく、リウだから。 それでいいではないか、と。 「うん、レッシンならそー言うと思った」 そう答えたリウに、レッシンは軽く目を見開いて驚きを表す。どうしてそんな顔をするのかが分からず首を傾げると、「や、だって」とレッシンはリウから目を反らせた。 「前にリウ、言ってただろ。オレと付き合えない理由が他にあるって。その辺のことにこだわって、またくだらないこと考えてんのかなって思ってた」 そう続けたレッシンに苦笑を浮かべて、「まぁ、関係なくはないけど」とリウは答える。くだらないことと言われれば確かにくだらない。だからこそ余計にレッシンには言いにくいことだった。 「じゃあ何だよ」と尋ねられて言葉を探す。口を開いては閉じを繰り返し、小さく唸っては毛布をきゅ、と握りしめた。今までため込んできていたものをそう簡単に吐き出せるはずがない。「オレは、ね」と小さな声でリウが言うまで、レッシンは根気よく待ち続けてくれた。 「スクライブだってことを知られることより、たぶん、それを隠してたってことを、知られるのが嫌だったんだ」 村から逃げ出した弱い自分。 スクライブであることを隠していた弱い自分。 書を前にして更に逃げ出してしまった弱い自分。 それを知られるのが嫌だった。 そんな弱さを、そんな醜さを彼らに知られたくなかったのだ。 こんな弱い自分が彼らの、彼の側に立つなどおこがましいにもほどがある。 そう思っていた。 「そんなの、」と口を開き掛けたレッシンを遮って、「でも」とリウは言葉を続ける。 「こないだレッシン、言ってくれたろ、オレは逃げてないって」 進んだのだ、と。 そう言ってくれた。 「それ聞いて、ちょっとだけ、思い、直せた」 近くにいてもいいのかもしれない。 彼らの側は本当に居心地が良くて。 弱い自分も頑張れるような、そんな気がするから。 大好きな人たちの力になれるような気がするから。 引きあげた毛布に顔を半分埋めた状態で、ぼそぼそと告げられるその言葉を聞き、がばりと体を起こしたレッシンは、「ほんとに馬鹿だな、リウは」と大きくため息をついた。 「そんな理由で振られてきたオレが可哀そうだ」 「…………そんな理由、って言われても、オレにとっちゃ、大問題、なんですけど」 唇を尖らせてそう文句を言うと、「分かってるよ、そんなことくらい!」と返された。 「そういうのって回りがあれこれ言ってもどうにもなんねぇじゃん。オレが努力しても、リウがなんとかしねぇ限り、どうしようもねぇじゃん。 ……ほら見ろ、やっぱりオレ、可哀そうじゃねぇか」 確かに、レッシンの気持ちを知っていながらもはっきりと答えを返せなかったのは、リウの方に問題があったせいだ。レッシンがいくら言葉を紡いだとしても、態度で示してくれたとしても、リウ自身が乗り越えなければどうにもできなかったこと。 迷惑をかけたと思うし、酷いことをしているという自覚もある。 「それは……悪いことしてる、と思ってるよ……」 それでも手放せなかった、のだ。 伸ばされた腕を。 側にある体温を。 毛布に顔を埋めて「ごめん」と謝ったリウに、「あー、だからさ、そうじゃなくて!」とレッシンは頭を掻いた。そして低く唸った後リウの方に腕を伸ばし、がしり、と肩を両手で掴む。 「なあ、もうねぇよな?」 相変わらずレッシンの言葉は突然で、意味がなかなか掴みとれない。「何が?」と尋ねると、「オレと付き合えない理由」と返ってきた。 「リウがスクライブだってことはもう知った。それを隠してたのも知った。他に何かあるか? もうねぇだろ」 確かに、心に引っかかっていたことは既に知られるところとなっている。 「ない、けど……」 「じゃあ、もういいじゃん。オレはリウが好きだし、リウもオレが好きだろ?」 尋ねられ、咄嗟に言葉が出ない。耳まで赤くしたまま小さく頷き、ふ、と一度息を吐き出した。 「っ、好き、だよ」 ずっと。 好きだった。 レッシンが言う『好き』と同じ意味で。 ずっと。 今でも。 リウの言葉を聞き、レッシンはふわり、と笑みを浮かべて言った。 「リウ、付き合おうぜ」 恋人になろう。 以前とまったく同じように。 告げられた言葉が真っ直ぐに心に刺さった。 つん、と鼻の奥が痛くなる。 眉をよせ、唇を噛んでレッシンを見つめるリウへ、「余計なこと、考えんなよ」とレッシンは口にする。 「『うん』って言え」 頼むから、と。 レッシンらしい強引な言葉に続けられた、切実な声。彼にはあまり似つかわしくない色を滲ませたそれは、だからこそ本心であるということが分かる。 そんなにも自分を求めてくれているのだということが分かるのだ。 この腕を振り払う、という選択肢がリウの中にあるはずがない。自分に対する疑心だとか、不安だとか、はいて捨てるほど湧いて出てくるそれらをすべて抱え込んででも。今以上にぐるぐると悩む未来が待っていたとしても。 それでも、これは失えない。 この腕は。 この体温は。 自分のものだ。 「――うん、っ」 しっかりと頷きを返したリウを見て、レッシンはほ、としたように息を吐き出した。そしてにっこりと、嬉しそうに笑みを浮かべる。 「これでようやく恋人になれたな」 どこまでも柔らかく、優しいその顔と言葉に、堪えていた涙が零れる。 「ッ、ごめ……ごめ、ん、レッシン……ッ」 「だから、何で謝んだよ。オレは別に謝られるようなことされてねぇよ」 たとえされていたとしても今ここにリウがいてくれればそれでいい、とそう言ったレッシンへ腕を伸ばしてぎゅうと抱きついた。抱きしめ返してくれるその腕の強さにまた涙が溢れる。 頬を伝うそれを指で拭い、軽く目じりにキスをしながら、レッシンは「今なら好きなだけ泣いていいぞ」と口を開いた。 「オレと月しか見てねぇし」 そう言った後、「ああでも」とレッシンは体を起こしてリウの前へと膝立ちになる。リウが背を預けている木の幹へ両手をつき、腕の中に閉じ込めるような体勢を取った後、未だに涙の止まらないリウへひっそりとキスを落として言った。 ほんとは月にだって見せたくねぇくらいだけどな。 ブラウザバックでお戻りください。 2009.04.04
ようやくくっつきました。 |