胡蝶の夢


 書を所持するということが実際どういうことなのか、深く考えてはいなかった。己がその立場に置かれて初めて気がついた。
 書とは世界の記憶。
 これはひとの身にはあまるものだ。
 たとえばレッシンが持つような本の形をしているとか、あるいはポーパスが持つような連珠であるだとかならまだ良かったのかもしれない。それならば常に肌身離さず、ということにはならずに済んだだろう。
 しかしリウが継承した秘枢たる線刻の書は、その性質上そういうわけにはいかないものだった。

「……ウ・シエン……リウ・シエン……?」
「…………え?」

 名を呼ばれたような気がして顔を上げると、机のすぐ側に信頼にたる補佐役、ルオ・タウがいた。四階作戦室の奥にあるリウの定位置、書を継承したばかりであるため、ここ最近は外出を控えここで資料やら報告書やらを読む日々を送っている。今も目の前にモアナから託されたクエスト依頼の一覧表と、ひそかにサイナスの様子を見に行って貰っていたランブル族からの報告書を広げていた。動けないリウの代わりに、とレッシンには今近場からの依頼をこなしてもらっている。

「あ、ごめん、呼んだ?」
「何度か。今時間はよろしいか」

 相変わらず乏しい表情のまま、書の探索の結果報告を淡々と口にする。

「未だ手がかりはなし、か」
「申し訳ない」
「や、ルオ・タウを責めてるわけじゃないから」

 手を振ってそう言い、書を得た協会がこれからどういう行動に移るだろうか、という議題で軽く意見交換。書についてある程度の知識を持っているスクライブが相手だと、他の人間を相手にしているときとは微妙に違う議論になるから面白い。
 スクライブという同族は未だ好きになれないが、それはあの森の中で閉じこもっている種族が嫌いなのであり、こうして積極的に外へ出てこようとする彼らには多少好感が持てる。特にルオ・タウなどは客観的な話し方をするため、思考の整理をするのにうってつけの相手だった。

「結局は目的が分からないことには予測も立てられないってことか」
「分かっている範囲でなら、書を集めている、というくらいだが」
「オレを囮にすりゃあ釣れるかもしんねーけど、レッシン怒りそうだしなぁ」
「……私もその意見には賛同しかねる」

 静かに、それでもどこか渋い顔をしながらそう言ったルオ・タウへ苦笑を浮かべ、「そりゃどーも」とだけ返しておいた。

「まあ焦っても仕方ねーし。ルオ・タウも無理はすんなよ?」
「私は大丈夫だ。それよりもリウ・シエンこそ、疲れているようだが」
「オレ?」
「顔色が良くない。食事も細いと聞く。どこか体調でも悪いのではないか?」

 愛想のない口調と表情だが、これが彼の素であることは理解している。彼に感情がないわけではないことも知っている。おそらくルオ・タウは本気でリウを心配してくれているのだろう。その気遣いを無下にすることもできず、小さく肩を竦めて、「寝れてねーだけだよ」とその理由を口にした。

「何か原因でも?」

 ほんの少しだけ眉を歪め、すぐにそう尋ねてくる。

「書の記憶を夢に見るから」

 端的な質問に、リウはやはり端的に答えた。もしこれがマリカやジェイル、レッシン相手ならばこうはいかないだろう。

「毎晩じゃねーけどな。この書がもともとあった世界の終りを夢に見る」

 それは悪夢と呼ぶほどのものではなかったが、ただひたすら悲しい夢だった。憤怒、悲哀、悔恨、絶望、恐怖。襲ってくるそれらの感情に耐えきれず飛び起きる、ということを数日に一度、繰り返す。

「レン・リインに聞いてみたけど、ばーさんがそういう夢を見てたわけじゃなさそーだし、たぶん星を宿すものであるオレが継承したせいだと思う。あるいは、ばーさんも昔は見てたけど、書の力を制御できるようになってたか、だな」

 書を継承していくつかの季節が回るほどの時間が経っており、さすがにこのままではまずい、と自分なりに調べてみた。既に結論の出ていることだからこそ、話す気になったのだろう。

「私も、ラオ・クアン様がそのような夢を見ていたという話は聞いていない」

 そう相槌を打ち少し考えた後、「おそらくその両方ではないか、と」とルオ・タウは言った。

「ん、オレもそー思う」

 彼が出した結論と自分が得たものが同じであることを確認し、「だからさ」とリウは笑みを浮かべる。

「あとはオレがなんとかするしかねーわけ。マナリルとムバルさんに今いろいろ聞いてるし、書を持つひとたちにも制御方法を聞いて精進してるところ」

 なんとかしている最中だから大丈夫だ、と言うリウへ、「そうか」と頷いた後、ルオ・タウは口を開いた。

「ただ、長が倒れられては元も子もない。無理をしてでも睡眠はとった方がいい」
「あー、それは分かってんだけどさ、オレ、根性ねーからさ」

 ぶっちゃけ眠んの、怖いんだよね。

 苦笑を浮かべてそう言ったと同時、「どういうことだ、それ」と二人以外の声が割りこんできた。聞きなれたものではあったが、いつも聞くものより幾分低く感じたのは気のせいだろうか。

「あれ? お帰り、レッシン」

 確か城を出発したのが五日前のこと、シトロ村周辺での依頼であったため戻ってきてもおかしくはない時期だが予想よりも若干早い。
 早かったな、とリウが口にする前に、「今の、どういうことだ?」ともう一度尋ねられた。

「今の、って……」

 抑えられたその口調に怒りを感じ取り、たじろぎながらリウは言葉を探す。

「ルオ・タウ、もうリウとの話、終わったんだろ?」

 答えないリウに痺れを切らしたのか、レッシンは側にいたルオ・タウへそう声を掛けた。「ああ、もう終わった」という返答を得た彼は、「行くぞ」とリウの腕を取る。

「え、ちょっ……レッシン?」

 手を引かれ、無理やり連れて行かれた先は同じ階にある団長部屋。ぽい、とまるで物のようにベッドへ放り投げられ、うまく受け身がとれずにそのまま倒れ込む。

「っ痛ぇ、なん、だよ、レッシン、いきなり」

 顔面を打ったため、鼻をさすりながら体の向きを変えると、両腕を取られてレッシンに抑えつけられた。

「…………レッシン?」

 眉を寄せて彼を見上げる。影になっていて表情はよく見えないが、怒っているらしいことだけはなんとなく分かった。

「リウ、お前、寝れてねぇってホントか?」

 尋ねられ、「あー」とリウは声を上げる。一体何処から話を聞いていたのだろうか。あれは相手がルオ・タウだからこそ言えたことであり、レッシン相手なら決して言わなかっただろう。まさか聞かれているとは思わなかった。
 自分の不注意さに舌打ちをしたいところを堪え、リウはしぶしぶと頷いて答える。

「どこから聞いてた?」

 そう問うと、「ルオ・タウがちゃんと寝ろっつってるとこから」と返ってきた。どうやら最後の部分だけを耳にしたらしい。今ならまだ適当にごまかせるかもしれない、と思ったが、事実を告げた方が早いと結論付けた。もっともらしい理由を思いつかなかった、とも言う。
 ふぅ、と息を吐き出して、ルオ・タウにした説明を繰り返す。書を制御できるように修行している最中だから大丈夫だ、ということを強調して。
 しかしレッシンの表情は硬いままで。
 彼の名を呼ぼうと口を開いたところで、「何でオレに言わなかった」と強い口調で尋ねられた。

「や、だってレッシン、クエストに出かけてていなかったじゃん」
「誤魔化すな。線刻を継承してからっつーことは、もう結構前からじゃねぇか。何で言わなかった」

 どうやらそれを怒っていたらしいことに、ここでようやくリウは気がついた。

「何でルオ・タウには言えんのに、オレには言えねぇんだ、お前は」

 リウの腕を握る手に力が込められる。痛みに呻きをあげて眉を寄せるが、束縛は緩めて貰えそうになかった。

「ッ、お前、だから言わなかった、んだよっ」
「だから何でっ!」

 こうして怒りをぶつけられているにもかかわらず、この真っ直ぐさが彼らしい、と思ってしまう。気に入らないことは気に入らない、とはっきりと口にするのだ。たとえそれが好きな相手でも、いや好きな相手だからこそレッシンは怒る。なかなか言葉にできないリウには、そんなレッシンの姿は直視できないほど眩しく思えた。
 目を細めてレッシンを見上げると、ふ、と口元を緩める。

「だって、オレ、レッシン好きだもん」

 別にルオ・タウが嫌いってわけじゃないけどさ、と言葉を続ける。

「ルオ・タウがどうかは知らないけど、レッシンにこういうこと言ったら、絶対オレ以上に悩むじゃん。心配するじゃん。だから、言わなかったの。自分で何とかしなきゃなんねーことだし、さ」

 書の力を上手く扱う方法は必ずあるはずだ。なければ自分で編み出せばいい。ただそれだけのことだ。

「大げさにしたくなかったんだ」

 今だってまったく眠れていないわけではないのだ。そう言うが、それでもまだ眉をひそめたままレッシンは「でも」とリウの頬を撫でた。

「お前が苦しんでる横で、オレは寝てたんだろ? リウが起きたことにも気づかねぇで」

 自分が情けねぇよ、と。
 俯いたレッシンは絞り出すような声でそう呟いた。
 顔の横で握りしめられた手が小さく震えている。そのことに気づくと同時に、腕を伸ばしてレッシンに抱きついていた。リウの手に促されるまま体重を支えていた手から力を抜き、上体を重ねるようにレッシンが覆いかぶさってくる。

「オレがお前に言わなかった、のはさ」

 レッシンの重みと、温かさを感じながらリウはぽつぽつと言葉を零した。

「別に、お前に何かしてもらいたかったわけじゃ、ねーからだよ」
「……オレには何もできねぇってことか?」
「ちげーよ。そうじゃなくて、そこにいてくれるだけで良かったんだ。側で寝ててくれるだけで」

 手を伸ばさずとも触れ合うことのできる距離。吐息すら聞きとれるほどぴったりと体を寄せて、その体温を感じているだけで悪夢への恐怖がなくなっていく。今しがたまで見ていたものがただの夢であり、今は無き世界の出来事であると実感できる。この温もりを感じているこちらが現実なのだと分かるからこそ、再び眠るために目を閉じることも怖くなくなるのだ。

「……だから、今そんなに顔色悪いのか」

 上体を起こしたレッシンに合わせ、リウも体を起こす。ベッドの上に座り込み、リウの頬を撫でながら「オレがいなかったから」とレッシンは言った。

「まあ、そんなとこ」

 リュウジュ団を纏める立場にいるレッシンに、この城から出るな、ということは不可能だ。今回のクエストに出かけるのも渋ってはいたが、そのことは彼自身も分かっている。だからたとえ事前に書の記憶のことを聞いていたとしても、リウのためだけにずっとここにいるということはできないのだ。
 それが分かるからこそ、リウはレッシンに言わなかった。

「…………分かる、けど、分かりたくねぇ」

 唇を尖らせたレッシンは、「言えよ、そういうことは」と続ける。その表情は拗ねた子供そのもので、苦笑を浮かべたリウはもう一度レッシンを抱きしめた。
 五日ぶりに感じるレッシンの存在に、ほ、と安堵のため息をつく。

「ごめん」

 心配させたくなかった。ただそれだけだ。
 悲しませたかったわけではない。
 余計な言葉を取り繕わずに、ただ謝罪を述べたリウを抱きしめた後、肩を掴んで体を離したレッシンはにたりと笑みを浮かべて言う。

「駄目、許さねぇ」

 レッシンがこの顔で笑うときはろくなことを考えていないとき。
 経験上、身を以てそのことを理解しているリウは、ひくり、と口の端を引きつらせた。




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2009.04.24
















ルオ・タウの口調が未だに掴めません。