美しい世界


 雪男の双子の兄、燐は昔から、何気ない風景の中に紛れている美しさを発見する天才だった。

 それはたとえば、ふと見上げた頭上に広がる空の色だとか。
 日差しが入り込む窓ガラスの煌めきだとか。
 赤鉛筆と青鉛筆の線がたまたま重なっていたその部分だとか。
 透き通った琥珀色をしたリンゴジュースだとか。
 眠っている犬の左耳の端にちょこんと乗ったテントウムシだとか。

 本当に何気ないその瞬間を目ざとく見つけてはすごい、と声を上げる。綺麗、と笑みを浮かべる。
 そうして振り返った彼の視線の先には大抵雪男がいて、見てみろ、とその美しさを分け与えてもらえるのだ。

 それはたとえば、弱々しい冬の黄色い日差しの中、力強く重なる白い雲だとか。
 近所の家の塀の上に座っている猫の目の色だとか。
 乱雑に積み上げていただけの本の背表紙の色がグラデーションになっているだとか。
 小腹を満たすために買い求めた大判焼きの焦げ目の色だとか。
 冷えた空気に吐き出された息が白く染まる様子だとか。

 ただ純粋に広がる世界の美しさにに感嘆している、そんな兄の様子こそ雪男には何よりも美しく、眩しく見えた。


 そういえば、ここ最近はあまりそういう言葉を聞かなくなったな、とふと思う。
 共に過ごす時間が減ったからだろうか、と考えながら、珍しくも勉強机に向かっている兄の様子をちらりと伺った。隣に腰掛ける彼は大人しいと思えば、その視線が広げられた教科書から外れ、窓の外を見やっている。やはり集中力は長くは持たないらしい。少しでも課題が進んでいればいいのだけれど、と思いながら、雪男もつられるようにして顔を上げ、窓の外を見やった。
 冬の夕方、若干天気が悪かったせいでその日差しも力弱く申し訳なさそうに空を照らしている。もうしばらくすれば日は完全に落ちるだろう。夏のような鮮やかな青さはなく、どこかぼんやりとした空ではあったがそれでも綺麗だな、と素直に感じた。
 綺麗な青い空、きっと燐の目にも同じものが映りこんでいるはずで、だからか、と思う。
 兄さん、と静かに隣の兄を呼ぶ。ん、とどこか生返事なのは、未だ意識が窓の外へ向いているからかもしれない。

「……兄さんの目にはもう、綺麗な景色には見えないのかな」

 くすんだ青空を漂う、魍魎たち。ちらちらと見え隠れする黒い影は、魔障を受けたもの、あるいはそれらと同じ種に属するものにしか見えない。虚無界からの招かれざる客。空気中を漂う黴にさえ寄生できてしまうため、結界外では正直悪魔のいない場所という方が珍しいくらいなのだ。
 その血が流れていようと、力を受け継いでいようと、ほんの数ヶ月前まで燐はまだ人間として生きていた。彼が綺麗だと笑った世界に、悪魔の姿は欠片も入り込んでいなかったはずだ。
 雪男の言葉に、弟が何を見てそう言ったのか気が付いたのだろう。眉を寄せた燐は一度こちらへ視線を向けた後、再び窓の外へ目を向けていや、と小さく首を振る。

「綺麗だなとは、思う」

 悪魔の存在は仕方がないもの、すべてを祓うなど無理な話で、たとえ視界の端に彼らが入り込んでいたとしても以前と同じように、青空は綺麗だと思うし、重なった雲も綺麗だとは思うのだ。

「ただ、さ、」

 燐の目にそれらの姿が映っていなかった頃、綺麗だから見てみろ、と促した弟の目にはもしかしたら悪魔の漂う光景が広がり全く美しくもなんともなかったのではないか、と。燐が綺麗だと喜んだものを、雪男もまたそうだね、と喜んでくれていたのだけれど。何も見えていなかった、悪魔も、自分のことさえ見えていなかった燐の言葉が雪男にどのように聞こえていたのか。
 それを考えれば昔のように弟を呼べなくなってしまった。
 ぽつぽつと紡がれる言葉に、このひとは本当に、と雪男は大きくため息をつく。雪男の気遣いは見当違いだったようだけれど、燐のそれもまた雪男の心情からは大きくずれたものだ。
 確かに、彼が指さしたその先に悪魔が漂っていたことなど数えきれない。それでもそこに広がった景色を兄と同じように雪男だって綺麗だ、とそう思っていたのだ。

 それはたとえば、夜空に浮かんだ猫の爪のような月だとか。
 どこで拾ってきたのか、制服の肩に乗ったタンポポの綿毛だとか。
 半熟のオムライスの上に広がるケチャップの様子だとか。
 水たまりに映った空の色だとか。
 亡き養父の、傷とタコだらけのごつごつとした両手だとか。

 綺麗、すごい、と喜ぶ燐の隣で、確かに雪男も同じ気持ちを抱いていた。


 小さな頃から双子の兄は、何気ない風景の中に紛れている美しさを発見する天才だった。そのとても柔らかく、真っ直ぐな歓喜を誰よりも近くで誰よりも先に共有できる、そんな楽しみを奪われたくはない。
 それがたとえ雪男を想ったが故の燐自身の選択であったとしても。
 どこにでも転がっているような、当たり前の風景の中から燐が探し出してくる綺麗なもの。彼の視界には今は雪男と同じように黒い影が漂ってはいるのだろうけれど、それでも。

「綺麗な空だね、兄さん」

 窓の外を見やりながら紡がれた言葉に少しだけ間を空け、「ん、そうだな」と燐はふうわりと笑みを浮かべた。




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2011.12.09
















燐ちゃんを神聖視しすぎてる、と思ったけど、
燐ちゃんマジ天使、むしろツインズまじ天使、という結論に落ち着いた。