奥村兄弟のセイカツ(自転車)


「おーい、ゆきおー! ゆきー! ゆきちゃーん!」
「うるせぇ、黙れ、馬鹿兄」

 ひとの名前を三段活用するな、と窓の外へ向かって怒鳴り声を上げる。しかし基本的に我が道を行くタイプの兄は弟の怒りなどどこ吹く風、寮の玄関前から二人が住まう二階の部屋を見上げ「なぁ!」と声を上げた。

「お前、チャリンコ、直せねぇ?」

 外から届いてきた言葉に、モニタに向かって作業をする手を止めないまま、「いきなり何言ってんの」と言葉を返す。自転車などこの寮にはなく、兄弟も持っていない。修道院に住んでいた頃に乗らなくはなかったが、移動手段はもっぱら徒歩で、あまり馴染みのない乗り物だった。

「だって、拾った」

 接続詞がおかしい。その言葉は「だって」では繋がらない。はぁ、とため息をついて眉間を指で揉む。ここの皺が取れなくなったら、確実に双子の兄のせいだ。

「たとえ捨てられてたものでも勝手に持って帰ってきたら窃盗だよ」
「違ぇって。なんか変なにーちゃんが、道の脇にこいつ放置して逃げようとしてたからさ、要らねぇなら俺がどうしようといいよな、っつったら、好きにしろって!」
「……もとの場所に戻してきなさい」
「はぁっ!? お前、何言ってんだ!? せっかく拾ってきたのに!」
「それはこっちの台詞だよ、何でゴミを拾ってくるの」
「ゴミとかひでぇ言い方だな! このチャリンコには『スノーマン』って立派な名前がだな」

 さすがに我慢ができず、立ち上がって窓辺に寄る。「変な名前つけんのやめろっ!」と怒鳴って下を伺えば、確かに兄の側にはメタルブルーの自転車が一台。

「たぶんさ、チェーンが錆びてるだけなんだって。こういう場合って水洗い?」
「馬鹿、余計ひどくなる。……油でも差しとけば?」

 はぁ、ともう一度ため息をつき、雪男は窓から離れて席へと戻った。ひとしきり自転車と戯れたら燐も満足するだろう。もともと飽きっぽく集中力のない兄のことだ、一時間持つか持たないかくらいだと思う。その間外からの騒音に耐えればいいだけだ。扉の開閉する音が耳に届き、しばらくして再びがちゃん、という音を耳にしたところで、雪男ははたと気がつく。

「兄さんっ! 油って、サラダ油じゃないからね!?」
「……え?」

 慌てて窓から顔を出しそう声をかければ間一髪、僅かに頭の足りない双子の兄が、今まさに厨房から持ってきたばかりの食用油を自転車に振りかけようとしているところだった。いくら料理上手の兄でも、自転車の素揚げを食卓に並べることはできまい。

「……汚れても良いタオルと歯ブラシ、探してきて」
 僕も下りるから。

 このまま彼一人に任せておいては寮の玄関前が大惨事になる。とりあえず続きの仕事は諦めて、午後は兄の気まぐれにつきあうことにした。



 燐の見立てどおり、自転車はただチェーンが錆びて動きにくくなっていただけのようだ。機械油をさして錆を取り、サドルやフレーム部分を綺麗に磨く。ハンドルが水平な、学生がよく通学に使うタイプのものだ。素人見立てだがブレーキもタイヤも問題はなさそうだった。

「だいぶ綺麗になったなぁ!」

 良かったなスノーマン、と言う兄の表情はひどく嬉しそうで、見ているこちらも思わず笑みが零れるが、口にされた言葉がいただけない。何でその名前なのかと問えば、「だってなんかそんな感じだろ」と返ってきた。感性で生きている彼らしい答えだが、残念ながら雪男にはまったく理解できない。だからこそ燐の言葉への反論もできず、結局はもう好きにすれば、と放り投げることになる。
 寮の玄関になぜか備え付けてあった空気入れ(おそらく自転車を使う寮生のために置いてあったのだろう)でタイヤを膨らませ、パンクの心配もなさそうなことを確認する。そうして兄弟二人でひとしきり自転車を弄り終えたところで、タイミング良くもう一人の家族、猫又のクロが散歩から帰ってきた。

「にゃー!」
「お、お帰り、クロ! ほら、見ろ、自転車だぞ!」

 悪魔同士のテレパシーだとかなんだとか言っていたが、兄はクロと意志の疎通ができるらしい。飛びついてきたクロを抱き止め、たった今修理したばかりの自転車を自慢する顔は子供そのものだ。

「『スノーマン』って名前だ!」
「にゃっにゃあ!」
「だろ? かっけぇだろ?」

 さすがクロ、よく分かってる! それに比べ雪男は、とこちらに視線を向けられるが、分からないものは分からない。肩を竦めてやりすごし、「乗ってみれば」と自転車を指さした。自分で使うつもりもないのにわざわざ持って帰ってきて修理はしないだろう。
 雪男の言葉に「そうだな!」と笑って、燐はハンドルに手を掛けた。

「雪男、お前後ろな」
「は? 僕は乗らないよ」
「いいから! クロは雪男の肩な。落とされんなよ?」
「にゃっ!」
「うわ、ちょっ、クロ、待って。つか、自転車の二人乗りは……」
「固いこと言うなって、ほら早く乗れ!」

 こういう場合、兄はどうにも言い出したら聞かないところのある。それにつき合うのも弟の役目だと諦めるしかない。荷台などついているわけでもない自転車の後輪横の金具へ足を引っ掛け、燐の肩へ両手を置く。「いいよ」という言葉と同時に燐がたん、と地面を蹴った。

「うはっ! 久々に乗ると気持ちいいなぁ!」
「にゃぁあっ!」
「ちょっと、兄さん、こけないでよ!?」

 ふらふらと左右に揺れる自転車に若干の恐怖を覚え、肩を掴む手に力が籠る。任せとけ、と勢いのある声だが不安定なハンドルさばきが怖くて仕方がない。そもそも雪男はどちらかといえば長身の部類に入り、それなりに体重もある。こんな重たい荷物を乗せて走るという方が無茶な話なのだ。それなのに燐ときたら。

「なんかノってきた! スピードアップすんぜ!」
「うわっ、バカッ、やめろ!」

 ぐん、とペダルを踏む足に力が込められ、頬を撫でる風の勢いが増した。

「どこまで行くつもりなの?」
「にゃっにゃあっ!」
「へ? なんか言ったか?」
「そろそろ止まれ、つってんだよ、バカ!」
「お前、さっきからバカバカうっせぇぞ!」

 怒鳴りあげた声はさすがに聞こえたらしい、燐もまた眉を寄せてそう声を荒げる。む、とした燐の横顔が雪男に見えるということはつまり、彼の目が行く先を捕らえてないということで。

「ッ、だから、振り向くな、前を見ろぉっ!」

 そう叫んでみるが逆効果、だったのかもしれない。進行方向になんら障害物はなかったのだが、燐が慌てて顔を戻したため体のバランスが崩れてしまう。

「う、わ、わ、わっ」
「げ、ちょ、ま……ッ」
「うにゃぁっ!?」

 右左右、と大きく蛇行した自転車のコントロールは結局燐の手に返ってくることはなく、二人と一匹を乗せたそれはガッシャンと無惨な音を立てて道路に転がる羽目になった。

「いってぇ……ッ、――雪男っ!?」

 悪魔の身体を持つ燐は多少の怪我などものともしない。しかし、兄より体格がいいとはいえ双子の弟はただの人間だ。飛び起きた燐は慌てて雪男の元へ駆け寄った。

「大丈夫か?」

 尻餅をついている弟の前で膝を折り、そ、っと伸びてくる腕。いつもの大雑把で乱暴な様子を欠片も見せず、まるで砂の城を撫でているかのように優しく指先で辿り、心底ほっとしたようにため息をつく。

「良かった、無事みてぇだな」
 お前の眼鏡。

「……本体の心配をしろよ」

 低い声でそう呟くと同時に、兄の頭へ拳を振り下ろした。



 派手に転んだ割に自転車も無事で、もう絶対に兄さんの後ろには乗らない、と雪男が言い張ったため、「じゃ、俺後ろな」と必然的にエンジン役を交代することになる。

「雪男、どうせならこのまま夕飯の買い物、行こうぜ」
「はぁ? 僕、財布持ってきてないよ」
「おまっ、何やってんだよ、使えねぇなぁ!」
「うるせぇ、振り落すぞ」

 そう言いながらも雪男だって再びの転倒は避けたい。クロと自分に害が及ばないよう、兄だけを振り落とすにはどうすればいいだろうか、と無茶なことを考えながらハンドルを操作する。

「じゃあまず、財布を取りに戻るぞー」

 おー、というかけ声にクロまで「にゃー」とノっている。買い物に出かけるというのは既に決定事項らしい。こういうときの兄には逆らっても無駄、と思いはするが、本音のところ雪男自身に逆らう気がさほどないのかもしれなかった。
 予定していた午後の作業はほとんど終わっていなかったけれど、それはまた予定を組み直せば問題はなく、たまにならば兄に振り回されるのも悪くない。むしろ、こうして燐に予定を壊されること自体、予定の一部のようなものだ。
 何がそんなに楽しいのか、からからと笑いながら、燐は雪男の肩を叩く。

「よっしゃ、それ行け、スノーマン!」
「にゃにゃーにゃん!」
「ねぇ、それ、僕もまとめて呼んでない!?」

 後輪に掛かる体重のせいで久しぶりに踏むペダルはかなり重たかったが、燐の言うとおり風を切る感覚は確かに気持ち良かった。




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2011.08.06
















オチ? なにそれおいしいの?