人工呼吸


 けふん、と燐の喉が小さく咽た。広げた漫画雑誌(弟の所有物だ)に視線を落としたまま、僅かに唇を開き息を吸い込む。本来ならば空気が気管を通り肺が膨らむはずなのに、再びけふ、と咽てしまった。どうしたのだろう、と首を傾げ、うつ伏せになっていた身体を起こす。胡坐をかいて座り込めば、足の上にクロが我が物顔で横たわった。
 そんな猫又の揺れる尾を指先でそばえながら、胸元に手を当ててもう一度すぅ、と息を吸い込む。今度は上手く吸い込めたけれど、どうにも息苦しさが消えない。
 ふは、と肺の中の空気を吐き出し、吐いて吐いて吐いて、きっともう内臓はぺしゃんこに潰れているだろう、というところまで息を吐いて、くらり、と眩暈を覚えた。酸欠だ。
 やはり息を吸わなければだめなのだ。当たり前のことをしみじみと実感し、そうして吸い込んでみるものの。
 かふ、と喉が妙な音を立てる。

「……何やってるの?」

 喉を押え首を傾げていれば、呆れたような声が届いた。燐の課題が終わると同時に自分の作業に戻った弟は、パソコンに向かってキーボードを叩いていた。おそらくは祓魔塾の授業に関する仕事をしているはずで、けほけほと咳き込んでいてはきっと耳障りだっただろう。悪ぃ、と謝れば、そうじゃない、と首を振られる。

「喉の調子、悪い?」

 尋ねてくる雪男の視線は純粋に燐を心配しているもので、こういう表情は昔からちっとも変っていない。そう思いながら、「分かんね」と答えた。

「でもなんか、息苦しい」

 風邪でも引いたのだろうか。
 不調というほどのものではないが、若干の違和感は拭えず、燐は再びけふん、と咳を零した。
 小さな音を立てて腰を上げた雪男がこちらに歩み寄ってくる。頬に手を添えられ、口、と促された。素直にあ、と大きく口を開けてみせる。

「別に赤くなってもないし、腫れてるようにも見えないけど」

 喉、痛い? と尋ねられ、燐はふるふると首を横に振った。痛みはない、ただ違和感がある。何だか。

「息が、上手く、」
 吸えない。

 吸い込んだ空気を今までどうやって肺まで送っていただろう。そもそもどうやって空気を吸い込んでいたのだろう。
 くるくると、疑問が頭の中で踊り始める。考えるという行為はもとより苦手で、そういう仕事はすべて双子の弟に丸投げしてきた。そんな燐は、ときどき考え出したことから抜け出せない悪癖がある。くるんくるんと、同じ場所ばかりを回っていると自覚はあるが止めようがない。遊園地にあるメリーゴーランド、あるいはコーヒーカップのように、くるくるくるくると。
 は、と息を吐き出したかったけれど、もう肺の中には満足に吐き出せるほどの気体が残っていないようだった。

「兄さん」

 ぎし、とベッドが鳴る。足の上にはまだクロが乗ったままで、あまり動くと起こしてしまうなぁ、と酸素の足りない頭の片隅で呑気に思った。
 膝を進めベッドに乗り上げてきた雪男が両手を伸ばし、燐の頭を抱き込んだ。その大きな掌が後頭部を撫で、首筋を撫で、ぽんぽんと背中を叩かれる。兄さん、と鼓膜を揺さぶるその音は、何よりも燐を落ち着かせるもの。

「僕の心臓の音、聞こえる?」

 額を押し付けた先は雪男の胸元で、とくん、とくん、と体内で息づく臓器の動きを感じ取れる。こくり、と素直に頷けば、「じゃあ僕が息を吸ってるのも分かる?」と続けて問われた。
 ゆっくりとではあるが臍の上あたりが上下に動いているのが分かる。おそらくわざとだろう、雪男は俯いて燐の耳朶に掛かるよう息を吐き出した。

「合わせて」

 吸って、吐いて、吐いて、吸う。鼓動の音と上下する胸元、耳朶に掛かる吐息、それらすべてを感じ取りながら、雪男の呼吸に合わせて燐もまた息を吸いこんだ。すぅ、と肺を膨らませ、はぁ、と吐き出す。
 なんだか、ひどく久しぶりに自然な呼吸をしたような、そんな気がした。

「……大丈夫?」

 優しく背を叩く手を止めぬまま問われ、はふ、と息を吐き出してもう一度燐は小さく頷く。もうちょっとこのまま、と求めれば、良いけど姿勢を変えさせて、と言われてしまった。中腰のままは辛かったのだろう。
 ベッドに腰を下ろすため雪男が身体を離したのはほんの数秒ほど。それなのにまた、息の仕方が分からなくなって、おいでと広げられた腕の中に慌てて飛び込んだ。膝の上で眠っていたクロはさすがに目覚めており、様子のおかしい兄弟を見上げて首を傾げている。しかし伊達に長く生きていない猫又は、口をはさむことなく只静かに寝場所を雪男の脚の上に移しただけだった。

「死ぬかと、思った……」

 上手く呼吸ができず、息苦しくて、死んでしまうかと思った。俯いたままぽつり、そう呟いた後、「ああ、でも、俺、悪魔だし」と燐は言葉を続ける。

「息しなくても、生きてられるかな」

 もはや人間の域を超えた身体。もしかしたら、酸素を取り込むこともなく、食事をすることもなく、たとえ肉が腐り落ちたとしても醜く生き続けるのかもしれない。さすがにそれは少し嫌だなぁ、と思っていれば、「大丈夫」と雪男が優しく囁いた。

「僕が思い出させてあげるから」

 たとえ言葉を忘れてしまったとしても、歩き方を忘れてしまったとしても、食べるという行為を忘れてしまったとしても、笑い方を忘れてしまったとしても、呼吸の仕方を忘れてしまったとしても、鼓動の刻み方を忘れてしまったとしても。

「全部、全部、僕が教えてあげる」 

 同じ遺伝子を持ち、同じ羊水に浸かり、同じ時に産声を上げ、ずっと同じ場所で生きてきた。そんな半身と同じように息をし、同じように心臓を動かせばいい、それで間違いはないのだ。
 だから兄さんは、と言う雪男に後頭部を支えられ、顔を上げさせられた。覗き込んでくる双子の弟。二卵性だけあって似たところはほとんど見つけられない。燐のものより若干緑がかった青い瞳。ゆるり、細められた唇が柔らかく重ねられた。

 だから兄さんは、僕の心臓の音だけを聞いて、僕の息だけを感じて生きればいいんだよ。

 うっとりとそんな言葉を紡ぐ雪男を見上げ、我が弟ながらぶっ壊れてんなぁ、とキスを受け止めながら口にすれば、僕がいないと息もできない兄さんに言われたくないよ、と返され、その通りだ、と思った。




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2011.08.05
















壊れぎみ。