家庭内ルール


 自慢ではないが生まれてこの方、勉強など真面目に取り組んだことがない。教師が口にする言葉も黒板に並ぶ文字も教科書に印刷された文章も、燐にとってはすべて異国の言葉に聞こえ、何かの呪文のよう見えた。だからこの年になって突然勉強をしろ、といわれてもなにをどうすればいいのかが分からない。
 やらなければならない、やり遂げたいことはあるが、それについて自分の能力が追いつかないこと以上にもどかしいものはないだろう。ただ単に、今まで嫌なものからは目を反らせ、耳を塞いで生きてきただけだということが分かっているから尚更。

 本当はこんな面倒くさいことはすべて投げ出してしまいたかったが、見かねた仲間や家族が手を差し伸べてくれている。当然祓魔塾一年男子陣による完全なる厚意からの勉強会(in奥村兄弟部屋)をブッチする、という選択肢を選ぶことができるはずもない。その上いつも忙しそうにしている雪男も、もともと今日は遅れ気味な燐の勉強面をサポートするため予定を空けていたようで、奥村先生がいてはるならありがたい、と訪ねてきた三人も嬉しそうだった。
 そうして始まった勉強会。専門は薬学だが、雪男とて祓魔師の一人である。彼らが学んでいるレベルのものならほかの教科の質問であっても答えることはできた。雪男の丁寧な解説と、燐の唸り声、猫又クロの立てる小さな寝息、合間に混ざる雑談と、志摩が口にする猥談、それに怒る勝呂の声が飛び交う空間でしばらく集中したところで、一番はじめに根を上げたのは案の定燐だった。

「ああああっ! もうだめっ! これ以上入んねぇっ!」

 叫んだ彼は大きく伸びをしたあと、そのままばたん、と後ろへひっくり返った。燐の声に驚いて起きたらしいクロがにゃあ、と心配そうに頭をすり寄せている。
 クロぉ、俺はもう疲れたよぉ、ホクロメガネが容赦ねぇんだよぉと泣き言を零す燐に、ほか四人は顔を見合わせて苦笑を浮かべる。

「少し休憩、挟みましょか」

 そう提案したのはおそらくこの中では一番人当たりが良い男、三輪だった。

「せやな、奥村くんやないけど、俺もちょい疲れたわー」
「なんや、このくらいで。志摩も奥村もたるんどる」
「俺は常人なんですぅ。坊みたいな変態と一緒にせんといてくれます?」
「誰が変態や、誰がっ! 頭ピンクなんは自分やろ」
「あ、そっち系でも俺、至ってノーマルな趣味してるんで」
「志摩さんっ! 何の話をしてはるん!?」

 きりり、と真面目な顔をして言った志摩に三輪が慌てて声を上げ、こいつはほんまに、と勝呂がため息をつく。相変わらず仲の良い彼らの会話を聞きながら腰を上げていた雪男が用意していたものは、人数分のお茶と簡単な菓子類だった。

「あ、すんません。先生に準備させてもうて」
「いえいえ。講師といっても今は休日ですし、来ていただいてるんですから部屋主が持て成すのが自然でしょう」

 どうぞ、と机の上に広げられていたノートや教科書をよけて皿を置き、ついでに転がっていた兄を蹴っ飛ばしておく。痛ぇよ、くそメガネ! と怒鳴って体を起こした燐だったが、大皿に並んだクッキーやチョコレートを目にしてすぐにそちらへ意識を向けた。

「糖分は脳を回転させるためにも必要ですから」

 長時間教本を眺めてさえいれば自然と知識が入ってくる、というものでもない。適度な休憩を挟んで短時間でも集中したほうが効率が良いのだ。

「甘い菓子って子供のころあんまり食わへんかったなぁ」

 ぽりぽりとビスケット菓子を齧りながらしみじみと呟いた志摩へ「寺だから和菓子とか?」と燐が首を傾げる。

「畑になっとる野菜が菓子代わりやったな。うちの寺ぁ貧乏やったし」

 勝呂が答えれば、じゃあうちと同じようなものですね、と雪男が笑った。
 そこから子供の頃のことへと話題が移行し、先生らって子どものころどんな遊びしてはったんですか、という三輪の問いに、普通でしたよ、たぶん、と雪男が答えた。そんな弟の真向かいに座っている燐が後ろを向いて何やらごそごそと行っている。隣にいた志摩が、「何してん、奥村くん」と声を掛けたところで、「奥村燐、一発芸、行くぜ!」と突然声が上がった。
 何事だ、と皆の視線が集まったところでくるり、振り返り。

「雪男」

 そう言った燐の顔には溶けたチョコレートで描かれた黒い点。
 左目の下にちょんちょんと二つ、顎の右側にちょんと一つ。
 ぶはっ、と勝呂が口に含んでいたお茶を吹き出した。同時に志摩が「あははははははっ!」と腹を抱えて笑い出す。

「うわぁあっ、坊っ! 大丈夫ですかっ!?」
「あははっ! おっ、奥村くんっ、ナイス! ははははっ!」

 くだらねぇ、と机を叩いて笑っている志摩の前では、げほごほと苦しそうに咽ている勝呂の背を三輪が懸命に摩っている。思った以上の反応を引き出せた燐は、満足そうに笑みを浮かべていたが。

「いッ!?」

 ごっ、と頭頂に鋭い痛みを覚え俯いて頭を抱える。分厚い辞書を兄の空っぽの頭に振り下ろしたのはもちろん怒りを湛えた双子の弟。

「ってぇなっ、このホクロメガネッ! 何すんだよっ!」
「面白くもなんともねぇんだよ、馬鹿兄が」

 立ち上がって雪男の胸倉を掴んだ燐へ、目を座らせた雪男がそう言って睨みつける。講師であるということもあるが、それを除いたとしても基本的に雪男は温和な話し方をするため、崩れた言葉づかいに京都組三人は「お、素が出た」「先生も怒らはるとこうなるんやね」とこそこそと会話を交わしていた。

「でもウケたじゃねぇか」

 唇を尖らせた燐が「ほら」と座ったままの三人へ視線を向ける。同時に雪男もまた彼らの方を見てしまったものだから。
 同じ位置にホクロのある顔(片方は疑似、だが)が二つ並んだ光景を見てしまい、三人は再び吹き出してしまった。

「俺と雪男知ってるやつの前でこれやると大抵ウケんだよなぁ」

 にしし、と笑う燐の頭へ今度は拳を振り下ろす。

「――――ッ、いてぇっつってんだろうがっ! つか笑ってんのこいつら! 何で俺を殴るっ!?」

 相当痛かったのだろう、涙目で見上げてくる燐の頭を掌で抑え込んだまま、「顔、洗ってこい」と雪男は低い声で言った。

「あぁっ!? てめぇ、兄貴に命令、」
「いいから、今すぐ、顔、洗ってこい」

 もし雪男の背後に効果音をつけるとすればおそらく「ゴゴゴゴ」という文字が流れているだろう。どす黒い怒りのオーラに燐は文句を紡いでいた口をぴたり、と閉じ両手を上げた。雪男を本気で怒らせると怖い。あとねちねちと面倒くさい。それを理解しているため、ちっ、と舌うちして「心によゆーのねぇ野郎だな」と吐き捨てた。

「兄貴のちょっとしたお茶目を笑って流してやるっつー、心の広さはねぇのか、てめぇに」
「……僕の心を端から埋めて狭くしていってるの、兄さんだからね」

 ため息をついた雪男は普段の口調に戻してそう言葉を発する。どういう意味だそりゃあ、と眉を潜めつつ、燐は親指で自分の頬を擦った。

「……取れた?」
「取れてない。もう固まってるよ、それ」

 呆れたような言葉を返され肩を竦めた燐は、指を一舐めしてもう一度頬を擦ろうとする。正直、顔を洗いに部屋を出るのが面倒くさいのだ。
 そんな兄の心情に気が付いているのか、もう一度ため息をついて「それじゃあ広がるだけだろ」と雪男が手を伸ばして燐の顎を捕えた。
 もし立っている双子の兄弟と同じ位置に目線があれば、確実にキスをしたように見えただろう。しかし座ったまま下から彼らのやり取りを見上げていた三人には、幸いなことに、かあるいは、残念ながら、か。ぺろり、と雪男が燐の頬を舐めるところがはっきりと見えてしまった。

「ッ!?」
「え、」
「は……?」

 目を見張り、息を呑み、驚きの声を上げる三人には気づくことなく(あるいは気づいた上で敢えて無視をして)、雪男は二つ目、三つ目のチョコレートホクロを舐めとっていく。

(え? はっ!? ええええええっ!?)
(なっ、なななな、舐め、たっ!?)
(舐め、舐めるかっ!? フツー! 舐めるもんかっ!?)
(いいいい、いくら双子の兄弟やゆうても……!)
(なんでっ!? なんで奥村くんも先生も、普通そうにしてはんのっ!?)

 口を押えているため叫びこそしないものの、滲み出る動揺は隠せない。しかしそんな三人をよそに双子の兄弟は呑気な会話を交わしている。

「取れたか?」
「……甘い」
「そりゃチョコだしな。つか、お前こそもちっと糖分取れよ。したらそんなカリカリ怒んなくなんじゃね?」
「カリカリさせてるのはどこの誰だと……」

 眉を潜めた雪男の肩を笑いながら叩いたところで、ようやく燐が座ったままの三人へ視線を向けた。

「? どしたのお前ら。何変な顔してんだ?」

 きょとんと首を傾げた燐へ、「いや、えと……」とそれぞれ言葉を濁すが、好奇心を抑えきれなかったのだろう。「あの、さ、奥村くん、」と志摩が口を開く。

「その、いつも、そないなこと、してるん?」
「『そないなこと』?」

 志摩の言葉の意味が分からず、燐は今度は反対側へ首を傾けた。「や、だから、」と視線を逸らせ、「顔、舐めたり、とか……」と志摩は言葉を続ける。

「? 家族だし、するだろ、普通」

(((せぇへんわ、普通っ!)))

 三人の心の叫びが重なったが、賢明にも声として外に吐き出されることはなかった。
 どう見ても様子のおかしい友人たちを前に、「あれ? しねぇの?」と燐は雪男を見上げる。

「そんなことはないと思うよ?」

 にっこり笑ってそう言った雪男が「神父(とう)さんだってしてただろ?」と続け、(諸悪の根源、それかぁああっ!)というツッコミがまたも三人の心に同時に浮かんだがやはり賢明にも口は噤んだままでおく。
 いやこの場合はむしろ口を噤んだままでいざるを得なかった、と言った方が正しいだろう。何故なら彼らの前に立つ双子の弟の方が、冷たいレンズを光らせて無言の圧力をかけてきていたからだ。

 余計なことは何も口にするな、と。

(いっ、言いません、何も言いませんっ)
(こっわっ! 奥村せんせ、怖っ!)
(むしろ俺は何も見とらん、見とらんのや……っ)

 ふるふるふる、と首を振った三人を確認した後、彼は再び兄へ視線を向けて「家族はこんなもんじゃないかな」と口を開く。単純なところのある双子の兄は、「だよなぁ」と安心したように笑みを浮かべていた。

(ああ、奥村くん、騙されてはる、騙されてはるよ……)
(なんちゅー純粋培養……)
(ええなぁ、なんも知らんのやろうなぁ、むしろ俺色に染めてみたいわぁ)

 それぞれの思いをやはり口にはしないまま三人はそっと教本を広げ、再び勉強へと戻っていった。




ブラウザバックでお戻りください。
2011.05.24
















なんちゃって京都弁。
奥村兄弟はありえないほどべたべたしてたらいいと思う。
pixivより転載。