あなたのために


 このひとのために死のう、そう思う相手がいる。
 自分自身すべてを犠牲にしてでも守り通したい、そう思う存在がある。
 そのために可能な限りの努力を重ね、力と知識を身につけてきた。これからもより一層強くなるために努力を惜しむつもりはない。けれど。
 そうやって走り続けることに、ときどき心身が悲鳴を上げる。

 床に敷いたクッションに腰を下ろし、ベッドの柵へ背を預けて漫画雑誌を広げていた雪男は、疲れてるなぁ、とぼんやりと上を見上げる。頭を布団に預けるような姿勢であるため、目に見えるものはくすんだベッドの天板だけ。
 予定を詰めることは好きだし、忙しいことも苦ではない。何より己がこれと決めた目標、目的があるため、それに向かって走らなければという焦る気持ちも大きい。しかしそれでも時々、どうしようもなく疲れていることを自覚し、苦笑が零れる。誰のせいでもない、日々の任務や雑事を上手くこなせない自分の予定の組み方が悪いのだ。あるいは、こうしてぼんやりと頭も身体も休める時間さえ、定期的に予定に組み込んだ方が良いのかもしれない。
 そこまでしてしまうともはや病気だな、と思っていたところで、かちゃり、と部屋の扉が開く音がする。どうせ兄だろう、と思い、顔を上げることもせずに目を閉じていれば、「雪男、寝てんの?」と声がかけられた。

「しえみからもらった梨、剥いてきたけど、食う?」

 片手に皿を乗せたままひょい、と覗き込んでくる彼は、雪男が眠っていないと気づいているのだろう。んー、と小さく唸って悩めば、美味いぞこれ、とカットされた梨が差し出された。目を細めてそれを見上げ、膝の上に置いたままだった雑誌から手を離す。

「食べる」

 そして伸ばした手で梨をもらい受けるのではなく、燐の腕を掴んでそのままかり、と歯を立てた。

「……自分で持って食えよ」

 呟かれる言葉を聞き流し、そのまましゃくしゃくと梨を齧る。水分の多いその果物は噛み切るたびに果汁が溢れ、燐の指や掌を濡らした。「もう一個」と求めれば、「しょうがねぇなぁ」と兄が苦笑を浮かべる。雪男の隣にぺたりと座り込み、「ほら」ともう一切れ梨が差し出された。同じように燐の指から梨を食べ、最後の一欠けらを咀嚼した後、果汁で濡れた燐の指をぺろりと舐めた。
 梨を持っていた人差し指と中指、親指を清めるようにねっとりと舐め、汁が伝い落ちたのだろう、濡れた掌へも唇を押し当てる。
 そのまま甘噛みをしたり、ちゅうちゅうと吸い上げてみたりしていれば、燐が呆れたように口を開いた。

「にーちゃんの手は食えないと思うぞ」

 そう言いながらも雪男の好きなようにさせてくれている。このひとも大概僕に甘いよな、と思いながら指先にかり、と歯を立てた。
 できることなら食べてしまいたい、と思わなくもない。逆でもいい、燐に食べられてしまいたい。肉も血も骨もぐちゃぐちゃに噛み砕いて唾液と混ぜ合わされて、ごくりと嚥下されて、胃酸の海で溶けてしまいたい。燐を構成する要素になって、あるいは雪男を構成する要素になってもらって、ただひとりとして生きていけたらいいのに、と。
 ふたりでいるから辛いのだ。燐は燐であり雪男ではない。だから燐の辛さも苦しみも、雪男には全然分からない。想像することしかできず、強くて優しい兄はその欠片も弟へ見せようとはしてくれない。ひとりで抱えこんで平気だ、と笑ってみせる。
 もしふたりが混ざり合ってひとりでいられるなら、燐だけ辛い目にあうこともないだろうに。

「梨、食い足りねぇの?」

 未だ燐の指から口を離さない弟を見やり、剥いてきたものが少なかったのだろうか、と燐が首を傾げる。そういう意味で指を吸っていたわけではなく、幼い思考回路に思わず笑みが零れた。まだあるから剥いてこようか、と立ち上がり掛けた燐を引き留め、「梨はもういいよ」とその腰を抱く。

「梨より兄さんが食べたい」

 雪男が飢えているとすれば、それは常に燐に、だ。どれだけ触れ合っても満足を覚えることがない。どれだけ交わっても、もっと深くと更なる欲望ばかり募る。
 鈍いと怒られることの多い燐でも、さすがに雪男が何を求めているのか察し頬を赤らめた。この反応は嫌がっているわけではないな、と判断し、「だめ?」ともう一押し。
 むにゅむにゅと唇を動かした後、引き寄せられるまま雪男の腕の中に倒れた燐は、「食いたきゃ自分で剥け」とそう言った。もちろん、と答えて細身の兄を抱きしめる。
 互いの体温を感じながらキスを交わし、すぐ後ろにあったベッドへと移動して燐に覆いかぶさる。ねぇ兄さん、とその首筋に顔を埋めながら、雪男は小さく問いかけた。

 何で僕らはふたりなんだろうね。

 どうしてひとつとして生まれてこなかったのだろう。
 そう呟かれた言葉に、ゆるく雪男の後頭部を撫でていた手を止め「そりゃぁ、あれだろ」と燐は口を開く。
 首筋に回った腕がきゅう、と雪男を抱き寄せ、そして僅かに肩を押し上げられて重ねられた唇。

「こうやってちゅーするために決まってんじゃん」

 どうだ俺、頭いい、と自慢げな笑みを浮かべる兄を見下ろし、そうだね、と笑みを浮かべて今度は雪男からキスを落とす。

 もし死ぬことがあるのならばこのひとのために死のう、そう思っていた。
 けれど、できることなら、許されるのならば。
 このひとのために、生きたい、と。
 そう思う。




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2011.09.20
















剥くって何を? と思ったら負け。