in his pocket


 奥村燐は悩んでいた。
 それは非常に個人的で、だからこそデリケートな問題で、誰かに相談したくともそう簡単に口にできることではない。
 ましてや。

「ここは日本やっちゅーねん、郷に入りては郷に従えって言葉、知らんのか」
「まあまあ、坊。向こうの人らはあれ、挨拶ですから。場所は考えてもらいたいもんですけど」
「ええなぁ、俺も相手が女の子やったら大歓迎やなぁ」
「わぁ……本当にしちゃうんだ……」
「羞恥心ってものがないのかしらね」

 海外から遠征に来たらしい祓魔師同士が、人前で堂々とハグをして頬へキスをする姿を目にした塾生たちの反応を見てしまえば、ますますもって口外できなくなってしまう。
 未だに挨拶として双子の弟とキスする習慣があります、だなんて。しかも唇へのキス。
 燐とて分かってはいるのだ、この習慣が一般的なものではない、ということくらい。しかもどうやら、挨拶としてキスをする習慣のある向こうの人たちでさえ、頬へのもの止まり。唇同士を触れ合わせるのはやはり特別なひととだけ、らしい。
 特別なひと、と言うならば確かにそうなのだけれど。


「お前、まだ寝ねぇの?」
「んー、もうちょっとで終わるから」
「あっそ。俺は先寝るぞ、眠ぃ」

 PCに向かって何やら作業をしている弟の側に歩み寄れば、手を止めた雪男が身体をよじって顔をこちらに向けた。ちゅ、と当たり前のように唇を重ね、「お休み」「おやすみー」とそれぞれ背を向ける。それが夜眠る前にほぼ毎日繰り広げられる光景だ。


「兄さん、朝だよ、起きて、遅刻する」
「あー……」
「お弁当作る時間、なくなるよ」
「うー……」
「……僕、今日お昼ご飯抜きになるの?」
「起きる……」

 着替えをしながらかけられる声に応え、むくりと上体を起こしてあくびを一つ。たとえ授業に遅刻したとしても、弟の食生活だけは守らねば、とベッドから降りた燐へ近寄ってきた雪男が「お早う、兄さん」とキスを一つ。「ん」とやはり当たり前のようにそれを受け止めて、まだ鈍い動きのまま着替えに入る。これが朝起きた後にほぼ毎日繰り広げられる光景。


 頬ならまだしも唇はどうだろう、と思ってはいる。けれど、小さな頃からずっとそうしてきており、喧嘩をしている間でさえ言葉を交わさなくてもキスだけはするという徹底ぶり。今更止めよう、と言うのも何か変に気にしているようで口にできないまま。本音を言えばさほど止めたいと思っていない、という部分もある。

(気持ち、いいんだよなぁ……)

 そっと触れ合わせるだけのものだったが、そうすることによって雪男がそこにいることが分かる。まだ燐の側にいてくれているのだ、という事実に安心するのだ。だから燐自身はあまり止めたい、と思っていない。いないけれど、これが少しおかしいということも分かっているわけで、それならばやはり兄である自分の方から止めよう、と言うべきなのだろうか、と。
 奥村燐は悩んでいた。



 そして、双子の弟奥村雪男もまた悩んでいた。
 悩み事の中心にある事象は兄と同じこと、つまり兄弟間で挨拶として交わされるキスについてなのだが、悩んでいる内容は全く異なる。正直、そろそろ限界なのだ。
 何がと問われたら理性、と答える。
 天才祓魔師だとかなんだとか周囲から称されているが、雪男とてまだ十五の健全な男子高校生。それなりに人間的な欲望だって持ち合わせており、そういうことに対する興味もまたないわけではない。
 ただ残念ながら、というべきか、奇妙なことにというべきか。雪男の場合、その欲望の矢印がどうしてだか真っ直ぐに双子の兄に向っているのだ。分かっている、自分の感覚はどこかおかしいのだろう、と。異常と告げられても仕方がないとさえ思う。
 しかし、誰に何をどう否定されたところで、己の唯一が兄であり、その姿しか目に入らないのだから、もう開き直るしかない。
 そんな兄とずっと交わしていた挨拶のキス。始めは確か養父も交え、頬にキスをしていたのだ。それがいつの間にか兄弟の間だけ唇にキスをするようになった。朝と夜はほぼ必ず、時には燐を残して任務に出かける際に行ってきますのキスをすることもある。
 互いに決して素直とは言えない性格だったが、どうしてだかこの挨拶だけはずっと続いていた。朝、言葉と共に唇を合わせてようやくすっきり目覚めた気分になれ、夜眠る前にキスをするとぐっすり眠れるような気がする。それがなければどうにも調子が出ない。食事を抜いたような、あるいは寝が足りていないような、そんな気になる。
 折角なんの遠慮もなくキスのできる機会があるのだから、もちろんそれを享受するにやぶさかではない。ただ問題は、キスだけでは飽き足らなくなってきている、ということ。


「うぁー……もーだめ、目がつぶれるー……」

 水場で歯を磨いて戻ってきた燐がそう言ってぽふり、とベッドへと倒れ込む。そのまま眠ってしまいそうな気配を察し、ため息をついた雪男が立ち上がって歩み寄った。下敷きになっている掛け布を引っ張り出し、ころりと仰向けに転がった兄の腹に掛ける。そのままベッドに膝をつき、「お休み」と唇を重ねた。

「ん、」
「…………」
「……ぅ、っ」
「…………」
「……はっ、ぁ……な、んか、長くね?」
「そう?」

 いつも通りだよ、と返せば、よほど眠たいのだろう、そっかと呟いて燐はあっさり目を閉じてしまった。舌を入れてないからまだセーフ、と思いはするがそれも時間の問題だろう。
 それもこれも、すべて燐が可愛すぎるのが悪い。キスをするたび、気持ちよさそうにぽうとした顔をする兄が悪い。その表情を見てしまえば、そのまま唇を噛んで舐めて吸って舌を引きずり出して、口内をめちゃくちゃに掻き回してやりたいと思わずにはいられない。
 そのとき、燐はどんな顔を見せてくれるだろうか。想像するだけで何かが爆発しそうな気がして、雪男は慌てて妄想を理性の奥に押し込めた。
 けれど、このような状態が続けばいずれ理性が決壊するのは目に見えており、そうなれば最悪の場合、ただ触れ合うだけのキスすらもできなくなってしまうかもしれない。、それだけはなんとしても避けたい事態だ。
 キスはしたい。したいけれど、続ければキスだけですまなくなる。さて、どうしたものか、と。
 奥村雪男は悩んでいた。



 頭で考えるよりも身体が先に動くタイプの燐にしては、一人でよく頑張った方だと思う。誰に打ち明ければ良いのか分からず、悶々としていたその態度が弟の目には不審に映ったらしい。どうかしたの、と尋ねられ、面倒くさいからもう直接本人と話をしてしまえ、と吹っ切れた。
 ぽつぽつと言葉にする抱いていた疑問と感情。
 止めなくていいもんなのか、と問えば、止めたいの? と問い返された。
 普通に考えればたぶん兄弟で唇を重ねる挨拶はおかしいのだ、と分かっている。

「でも、なんか、あんま止めたくねぇっつーか……」

 だから悩んでんじゃんよ、と唇を尖らせれば、椅子に腰かけ机に向かっていた雪男が燐の方を向いた。その顔には苦笑が浮かんでおり、大体こういうときは「しょうがないな、兄さんは」という言葉が続くのだ。そうして譲歩できる部分は譲歩してしまう、雪男はそんな性格をしている。
 だから燐は慌てて、「あ、でも!」と言葉を続けた。

「お前がヤなら止める」

 きっと実際に止めたら止めたでしばらくはもの淋しいかもしれないが、そのうち慣れるだろう。慣れるよう努力する。ただでさえ雪男には迷惑をかけ通しなのだという自覚がある。これ以上精神的負担をかけるべきではない。
 そう口にすれば、「誰が止めたい、って言った?」と眉を寄せられた。

「嫌だったらとうの昔にそう言ってるよ」

 もう何年キスしてると思ってるの、と言いながら立ち上がった雪男は、ベッドの縁に腰掛けていた燐の側まで歩み寄ってくる。長身の弟を見上げて、「ガキの頃からだもんなぁ」と笑った。
 幼い頃から繰り返してきた習慣は、正直そう簡単に捨てられるものではない。たとえば、燐がこうなる前、兄弟の行く道が分かれ別々の場所で生きることになれば、仕方なく捨てることもできただろう。しかし幸か不幸か、今二人はこうして同じ空間で寝起きしている。側にいるのにキスをしない、という選択肢が燐にはそもそも考えられなかった。

「でもやっぱさぁ、兄弟の挨拶で口にキスってさぁ……」

 おかしいのではないだろうか、と眉を寄せる燐を見下ろし、「兄さんは変なところをしつこく気にするタイプだよね」と雪男は呆れたように言う。弟の方は自分たちが納得していればそれで良しとするタイプであり、さほど周囲の状況や反応、一般的な常識にはこだわっていない。「うっせぇ。俺はお前と違ってセンサイなんだよ」と亡き養父が聞けば、「どこが繊細だ」と爆笑しそうなセリフを吐き出した燐へ、雪男はふぅ、とため息を零した。

「分かった、じゃあ一つ提案」

 兄弟で口にキスをする、という事柄が引っかかるのならば、兄弟でなければいいわけで。そう雪男が言えば縁を切ると言われるとでも思ったのか、燐は一瞬ひどく悲しそうな顔をした。そんな兄へ言葉を畳み掛ける。

「恋人になればいいんじゃないの」

 唇を合わせるキスは特別な関係の相手とするもの。それはつまり恋人だったり夫婦だったり、そういう関係で。

「……兄弟じゃなくて、恋人?」

 見上げてぽつりと呟いた燐へ違う、と首を横に振る。

「兄弟で、恋人」

 世界で唯一血の繋がった家族であるというポジションを捨てるつもりはさらさらない。新しい関係を始めるのではなく、ただ追加するだけだ。
 さらりとそう口にする弟へ、「それもなんかおかしくね?」と燐は首を傾げた。
 おかしいことなど重々承知。おかしいかもね、とにっこりと笑みを浮かべ、兄の頬へ手を伸ばして触れる。

「でもほら兄さん、恋人だったらあれだよ」
 いつでもキスし放題。

 おはようのキスやお休みのキスといった理由付けは必要ない。好きな時に、好きなようにキスができる。それが恋人同士というものだ。
 雪男の言葉に、「あー……」と燐が間の抜けた声を上げる。

「それは、ちょっと、いいかも」

 なんだかんだ言って、雪男とのキスは好きなのだ。朝晩だけでなく、(もちろん人目は考えるが)好きな時にキスができるという提案は燐にとっては非常に魅力的で。その上「恋人」ならば口にキスをしてもまったく全然おかしくもなんともない。雪男はそれでいいのか、と問えば、むしろその方が助かる、と言われ。

「……じゃあ、そうすっか!」

 男同士で、その上兄弟で恋人、というそもそもの根幹がおかしいことを、それについて自分が一瞬抱いた疑問を綺麗さっぱりと無視して、燐は笑みを浮かべ弟の提案を受け入れる。
 よろしくね、兄さん、と落とされた唇はやっぱり気持ちよくて、恋人になって良かったなー、などと。
 呑気に考えていられたのも、ベッドに押し倒され弟の体重を身体に感じたところまで、だった。




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2011.08.07
















始めは「奥村兄弟のセイカツ(挨拶)」というタイトルでした。
今後全部その系統のタイトルになりそうだったので却下しました。