穏やかなる日々


 その日は朝からひどく穏やかだった。

 昨日まで降り続いていた雨も上がり、久しぶりに太陽の光を目にした気がする。寝坊をすることもなく余裕のあるうちに起床し、朝食をすませ身支度をすませ、昨夜用意しておいた弁当を持って学校へ。
 通常授業も問題なく進み、珍しく顔を合わせたため兄弟揃って昼食を取り(その際、出汁巻き卵の焦げた部分や、少し形が悪くなった唐揚げを燐の弁当に詰めていることがばれて揉めたが、いつもの兄弟喧嘩にも満たない程度だった)、祓魔塾の方も何の問題もなく全授業を終えることができた。今日は薬学の授業はなかったが、移動の際見かけた弟へ声をかければ、任務も入っておらず真っ直ぐ帰ろうと思っていたということで、それならばと二人揃って一度寮へ戻り、着替えて食材の買い出しへ向かうことにした。
 もう少しすれば夏本番という時期。日はだいぶ長くなっており、まだしばらく外は明るいだろう。クロを肩に乗せた燐は跳ねるような足取りで、そんな兄の後を雪男がゆっくりと追いかける。
 今日の晩飯何食いたい? という問いから始まって、この間のクッキーがまた食べたいから作ってだとか、他の菓子も作ってみたいだとか、学校の授業についてだとか、祓魔塾の授業についてだとか、もう少し部屋の掃除しなよだとか、明日も晴れなら洗濯しようだとか。ごく有り触れた他愛のない、けれど兄弟にとっては大切なことを話しながら買い物を終え(さすがにクロは店に連れ込めなかったため外で待機していてもらった)、オレンジ色に染まった空を見上げて帰路につく。
 しっとりと湿気の含んだ風の流れる道には、兄弟とクロの影だけがゆらゆらと揺れていた。

「お、あんなとこに公園がある! ちょっと遊んでくか!」

 街路樹の隙間から見えた遊具の群れを指さして燐が声を上げ、人の言葉を理解する猫又は「にゃぁ!」(『あそぶ!』)と鳴く。別に良いけど、と思いながらも一応「アイス、溶けるよ」と雪男が口にすれば燐は、はっと目を見開いた。自分で食べたいと強請ってきたくせに、完全に忘れていたらしい。

「クロ、遊ぶのなし。アイスの寿命はみじけーんだ」
『アイス?』(もちろん雪男には「にゃあ?」としか聞こえない。)
「おう、晩飯のあとで食おうな」
『おれのもあるのか!』
「当たり前だろ、家族分はちゃんと買ったぞ」
「……僕のお金だけどね」
「ははっ、ごち! ほら、クロも雪男に『ごち』っつっとけ」
『ゆきお! ごちっ!』

 繰り返すが、雪男にはクロの言葉は分からない。クロもまた意味も分からず口にしているのだろうが、苦笑を浮かべ「どういたしまして」と返しておいた。
 至極下らなく中身のない会話。こんな話をする時間が今の二人にはなかなか取れない。だからきっと、ときどきはゆっくりと言葉を交わしても罰は当たらないだろう。そう思う。
 黒々とした寮の若干不気味な影が見えてきたころ、不意に燐が「なぁ、雪男」と弟を呼んだ。雪男の行く数歩先、車道と歩道を分ける縁石の上をバランスを取りながら双子の兄は歩いている。そんな彼の後ろを、クロが真似をしてついて歩いていた。  微笑ましいと思うべきなのか、子供っぽいと呆れるべきなのか、悩みながら「何」と返せば燐はこちらを見ることなく口を開く。

「もし、の話だけどさぁ」

 それは、先ほどまでの些細な日常会話の続きであるかのような、軽い口調。

「もしさ、俺がさ、」

 頭の中がぶっ飛んで、
 完全に人じゃなくなって、
 俺が俺でなくなって、
 で、お前の顔も声も分からなくなったらさ。

「お前が俺を殺してくれな」

 頼んだわ、と告げられた。それはまるで、洗濯物取り込んどいて、とでも言うかのように。
 わずかな間を置いて、「別にいいけど」と雪男は返す。

「そのあと兄さん追いかけて僕も死ぬよ」

 対する雪男の言葉もまた、牛乳買ってきて、とお使いでも頼んでいるかのような、酷く柔らかなものだった。
 とんとんとん、と見事なバランス感覚で縁石の上を跳ねていた燐の足がぴたり、と止まる。雪男の言葉を頭の中で一回転させ、意味を理解しようとしているのだろう。きっかり五秒後、勢いよく振り返った兄は「何言ってんだ、お前っ!」と怒鳴り声を上げた。

「おまっ、お前、バカじゃねぇのっ!? 後追いとかっ! ふざけんなよ!」
 見てみろ、想像してちょっと泣いちまったじゃねぇかっ!

 スーパーの袋を持ったままそうにじり寄ってくる燐は、確かに少し涙ぐんでいた。縁石から飛び降り、今は雪男と同じ道路に足を下ろしているため見下ろす形になる。自分よりも若干背の低い兄を見やって、雪男は「泣きそうなのはこっちだよ」と目を細めた。
 僅かに震えている声音に、「え」と燐の顔が驚きに彩られる。

「僕に兄さんを殺せとか、なんでそういうこと言うの?」

 できるわけないって分かってるくせに、と言葉を口にするたび、どんどん雪男の表情が曇っていく。ぎゅう、と寄せられた眉、レンズの奥にある瞳には燐と同じようにじんわりと涙が浮かんでいるように見え、まずい、と燐は慌てた。
 もう互いに幼い子供ではないのだ、と分かってはいても、燐にとって弟が泣くという事態は一大事である。すべてを擲ってでも雪男の元に駆けつけ、「もう泣くな」と抱きしめて背を撫でてやらなければならない。なぜなら燐は雪男の兄だから。兄とは弟を守るものなのだ。
 その兄が弟を泣かせていては世話がない。
 雪男、と弟の名を呼んで手を伸ばそうとしたところで、きつく唇を噛んだ弟は燐から目を反らして歩きだしてしまった。す、と通り過ぎたその横顔が、ひどく辛そうで。

「雪男、ごめん。ごめんって! 俺が悪かった」

 自分に置き換えてみたらどれだけ酷いことを口にしたのか、ようやく分かった。そもそも燐は決して雪男とは戦わない。剣を向ける気もない。それなのに弟には自分勝手にも銃口を向けろ、と求めるのだから。

「ごめん、悪かったよ! なあ、雪男!」
 謝るから、こっち向けよ。

 すたすたと燐を(そして兄弟の不穏な空気を感じて燐の肩まで飛び乗って来ていたクロを)置いて先に進む雪男の後ろを小走りで追いかけて呼びかける。僅かに弟の歩みのスピードが遅くなったところで、「ゆき」と幼い頃の呼び名を口にし、手を伸ばした。

「晩飯のおかずのエビフライ、お前に一個多くやるからさ」

 色味が少し悪いだとかで二割引きシールが貼ってあった生エビ(六尾入り)をゲットしたため、今日はエビフライメインの揚げ物にしよう、と話をしていた。玉ねぎやカボチャ、ナスビやししとうのてんぷらを作って、かきあげも作って。
 六つのエビフライ。クロに一つ、兄弟は二つずつ、余った一つは明日の弁当のおかず用のつもりだったけれど。

「俺のも一個やるからさ!」

 だから機嫌直せ、と続けようとしたところで、ようやく「ほんと?」と雪男が足を止めて口を開いてくれた。

「ほんとにエビフライ、くれる?」
「お、おう、男にワゴンはねぇよ!」
「……たぶん、『二言』だと思うけど」

 ぼそりと呟いた後、雪男はくるり、と振り返る。

「エビフライに免じて許してあげる」

 そう言った雪男は、先ほどまでの沈んだ表情や涙目はどこへ行ったのだ、と思うほどにこやかな笑みを浮かべていた。ころりと態度を変えた弟についていけず、燐は「え? あれ?」と目をぱちくりさせている。
 もしかして俺騙された? と首を傾げている燐へ「ありがと、兄さん。だから好きだよ」と言った後、くすくすと笑いながら「でも」ときびすを返して雪男は言葉を続けた。

「不愉快だから今後二度とさっきみたいなこと、言わないで」

 旧男子寮には奥村兄弟とクロしか住んでいない。訪れるものもおらず、近づけば近づくほど人気はなくなる。「日が暮れるから早く帰ろう」と燐を急かし、雪男は住処へ向かって歩を進めた。
 太陽は徐々にその姿を隠し始め、あたりはオレンジよりも紺色が強い色合いに染まってきている。せっかく二人ともが早く帰宅できたのだ、長い夜はのんびりと部屋で過ごしたい。
 そんなことを思っていたところで、「だから置いてくなっつってんだろーがっ!」という怒鳴り声が雪男の耳に届いた。次いでどん、と臀部に鈍い衝撃。

「いっ、ったいなぁ! 蹴らないでよっ!」

 たたらを踏み怒気を含んだ声で文句を言いながら振り返れば、ひょい、と再び縁石の上に飛び上がった燐の腕が伸びてくる。

「ちょ、兄さん!?」

 素早い動きで彼が雪男から奪ったものは視界を構成する最重要要素、つまりは眼鏡。何するんだよ、といつもより数十倍悪くなっているだろう目つきで燐の方を睨めば、その顔が思った以上に近くにあった。十数センチあるだろう石の上に乗っているため、燐の視線は今雪男よりやや高い位置にある。
 相変わらず自由奔放な彼の考えることは分からない、と眉間に皺を寄せたところで。

「ッ!?」

 ちゅ、と可愛らしい口づけが一つ、雪男の左目尻に落ちてきた。
 驚いて目を見開いている弟には構わず、反対側の目尻にも同じように唇が押し付けられる。
 それは幼い頃の習慣で、どうにかして雪男の涙を止めたい燐がいつもしてくれていたこと。

 嘘泣きを装ったことが嘘。

 そんな虚勢は燐には見抜かれていたらしい。
 頭の回転は鈍く物覚えも悪く鈍感。それなのにこういうところばかり鋭いのだから嫌になる。俺はお前の兄ちゃんなんだから当たり前だろ、とばかりに涙を拭ってくれるのだ。
 間近にある兄の顔は、申し訳なく思っているのかそれとも照れているのか、あるいは何か他の感情を抱いているのか。とにかく淋しそうな表情だ、とそう思った。
 手渡された眼鏡を掛ける前に、お返しにと燐の目尻にも左右に一つずつキスを落とす。雪男だって、燐を泣かせたいわけではない。ごめんね、と先ほどの言葉を謝罪すれば、兄もまた「二度と言うなよ」とそう口にした。


 大きな事件が起きることもなく問題が発生するわけでもない。数多くある、何の変哲もない日々のうちの一日。きっと寮に戻った後もいつものように燐の手料理を味わい、いつものように小さな口げんかをしながらいつものように一日を終えるのだろう。
 ごく当たり前の風景しか並んでいない日。
 退屈だ、などとは思わない。
 何故なら燐も雪男も、こんな日々が決して続かないことを知っている。ほんの些細な切っ掛けで、すべてがぼろぼろと崩れてしまうことを知りすぎるほど知っている。
 だからこそ。
 いつもと変わらぬ穏やかな日がこんなにも愛おしい。
 愛おしくて、切なくて、何よりも大事で、守りたい。
 どちらからともなく繋いだ手をゆっくりと揺らしながら、目指す先は二人と一匹の城。
 そこにはきっと、いつものような穏やかな空間が待っている。



「なぁ、雪男くん、おにーさまにエビフライ一個、返す気は、」
「ない」
「……あっそ」
「『お願いします雪男様』って言ったら考えてあげなくもないよ」
「お前の分だけ焦がしてやろうか」
「できるものならどうぞ? 兄さんが失敗した料理を僕に食べさせるとは思えないけど」
「………………」




ブラウザバックでお戻りください。
2011.07.25
















殺伐としてない兄弟が書きたかった。
pixivより転載。