柔らかく甘い


 養父から溢れんばかりの愛情を注がれていたとはいえ、奥村兄弟は教会育ちであり、その生活環境は決して裕福とは言えなかった。衣食住に困ることはなかったが、一般の中流家庭と同じほど嗜好品、贅沢品を手にする機会はない。漫画やゲーム機といった娯楽品から、牛肉や菓子類といった食品に至るまで、同年代の子供たちに比べたら些か質素な生活だっただろう。養父の教育の賜物か、二人ともそのことについて不満を抱くことはなく、教会を出て学園の寮で生活するようになった今でも質素倹約の精神はそれとなく二人の中に残ったままだった。
 単純で思考力は皆無、直感だけで生きてきているような燐でさえ、食費に関しては無駄遣いを避ける傾向にある。それは彼自身が料理をするからだろう。出来るだけ安い食材でより美味いものを食えたら嬉しいだろ、といつだったか言っていた気がする。もちろん雪男にしても食費が安く抑えられるに越したことはなく、決して燐本人には言わないがその点については兄を全面的に信頼してさえいた。

 惜しむべくは、雪男自身が忙しすぎてその料理を出来たてで味わう機会が少ない、ということ。双子の兄は雪男の分も毎食用意してくれている。できれば冷めないうちにそれらを口にしたいところだが、どうしても時間がかみ合わず、ここの所ラップにくるまれたものばかり目にしていた。
 しかし今日は久しぶりに時間にゆとりがあり、温かい夕食にありつけるかもしれない。そう思うとテンションが高くなるのも仕方がないだろう。
 燐に知られたら腹立たしいほどからかわれることが分かっているため、絶対にそうと気づかれぬよう、それでも普段より軽い足取りで厨房へと足を向ける。この寮には雪男と燐、そして猫又のクロしかいない。要するに家族しかおらず、祓魔師としての顔も教師としての顔も作る必要がないため気が楽だ。

「ただいま」
「おかえりー。今日は早いのな」

 前髪をピンで留め、エプロン姿の燐が尻尾を揺らして振り返る。左手にはフライパン。香ばしい匂いは醤油の香りだろう。

「今日は早く帰れるって朝言っただろ」
「そうだっけ?」

 雪男の言葉に燐は眉を寄せて首を傾ける。相変わらず人の話をろくに聞いていない兄にため息が零れそうになった。しかし彼が作っている料理はどう見てもひとり分には多い量で、雪男の帰宅が早かろうが遅かろうが夕食は作ってくれていたらしい。その事実に零れかけたものを飲み込んでおく。

「もうできるけど、どうする? 着替えてくるか?」

 部屋へは向かわず、真っ直ぐ厨房へ来たため雪男はまだ荷物を抱えており、祓魔師のコートも着たままだ。一度部屋に戻るくらいわずかな時間で済むと分かってはいたが。

「お腹空いた」

 食事を先に取りたいと口にすれば、「分かった、じゃさっさと準備してやんよ」と燐は小さく笑って言った。
 せめて食器の用意くらいは手伝うべきだろう、とコートを脱いで使わない椅子の背にかけ、荷物の詰まったカバンをよけたところではたと思い出す。

「にゃ、にゃぁ! にゃあ?」

 見上げてくるクロが何やら鳴いているが、雪男にはその言葉の意味は分からない。鞄の中から取り出したものは柔らかなピンク色の包み紙にくるまれた何か。おそらくクッキーか何かであろうそれは、今日登校したら机の中に押し込まれていたものだった。

「なんだそれ、菓子?」

 クロの鳴き声を耳にしたからか、振り返った燐までがその包みに興味を持ったらしい。首を傾げて尋ねてくる彼に、「じゃないかな、たぶん」と返しておく。それを手に入れた経緯と、ついでに付随していた手紙のことを軽く説明。言葉を進めれば進めるほど、燐の顔が険しくなっていくのが面白い、と言えば彼は確実に機嫌を損ねるだろう。

「んだよ、モテ自慢?」
「どこをどう聞いたらそうなるの。迷惑なだけだよ、実際」

 添えられた手紙には『手作りです。食べてください』以外何も書かれていなかったのだ。
 とりあえず開けるだけ開けておこう、と包みを広げれば、予想にたがわず可愛らしいクッキーが詰められていた。

「にゃ、にゃにゃあ?」
「ああうん、食いもんだけどさ、」

 こんがりときつね色に焼きあがっているそれを一枚指で摘み上げ、しげしげと眺めた燐は「どう見ても、店で売ってるやつだな」と呟いた。綺麗に形の整ったそれは手作りであるようには見えず、既製品をラッピングしただけだろうとすぐに分かる。

「にゃ?」
「あ、こら、クロ。これから夕飯だから食うなっつの。つかこれ雪男んだろ」

 クッキーがどうにも気になるようで、燐の腕に捕まるように両手を掛け、後ろ足だけで立ち上がったクロがふんふんと鼻を鳴らしている。なんとなく会話を察して「駄目だよ、クロ。猫に人間の食べ物は良くないし」と言えば、「にゃああっ!」と鋭い鳴き声が返ってきた。

「ただの猫扱いすんな、ってさ」

 燐の通訳により怒りの理由は知れたが、雪男からすればクロはどうみても猫そのものだ。それにもし仮に猫と猫又の生態が全く異なっていたとしても、このクッキーを食べさせるつもりは雪男には全くなかった。

「……一枚くらいやれよ」

 そのことを口にすれば、呆れたような視線を向けられる。燐の言葉に単純に独り占めしたいわけではない、と首を振った。

「どこの誰からかも分からないもの、口にできるわけないだろ」

 だからこれは捨てるよ、とテーブルの上に広がっていたクッキーを片付け、そのまま厨房にあるゴミ箱へと移動させる。

「うっわ、容赦ねぇ」

 燐が持っていた一枚も奪い取って放り込めば、若干呆れたような声が耳に届いた。確かに誰かからの(おそらくは好意による)プレゼントを廃棄することに心が痛まないと言えば嘘になる。持ち前の貧乏根性のため、食べ物を粗末にしているということも心苦しい。

「でも手作りだっていうなら尚更何が入ってるか分からないし、安心して食べられないよ」

 食べるという行為は簡単なようでいて、ひどく難しく重要なものだ。生命活動を維持するうえで決して無視できないものであり、だからこそ不用意に得体のしれないものを口にすることはできない。
 燐もまた雪男の言うことが分からないわけではないようで、「プレゼントならせめて名前くらいは書いとけってなぁ」と苦笑を浮かべて言った。



 テーブルの上にはごぼうのきんぴらとおからハンバーグの和風餡かけ。味噌汁と白ご飯を装ってお茶を用意すれば本日の夕食のできあがりだ。やっぱり湯気の立つうちに箸をつけられるのは良いな、と思いながら相変わらずの腕前を存分に堪能する。

「……兄さん、美味しいし節約できるから全然問題はないんだけど、ひき肉100%のハンバーグを作ってもいいんだよ?」

 ひき肉が入っていないわけではないが、メインがおからであるハンバーグは材料費的にもかなり安く仕上がっているはずだ。教会ではあまり肉を食べる機会がなく、燐が作るものも十五の少年の料理にしてはかなりヘルシーなものが多かった。

「いや、分かっちゃいるんだけど、なんつーか、癖で」

 肉のパックをレジに持っていくとき変にどきどきするんだよ、としみじみ口にする燐に、思わず笑ってしまった。分からなくもない、身体に染みついた幼い頃からの習慣はなかなか抜けてくれないものだ。

「やっぱりちゃんとした肉のハンバーグんが良かったか?」
「言っただろ、美味しいから別にいいよ」

 それにもともと雪男は魚介類の方が好きで、贅沢をさせてくれるというなら美味い刺身を食べたいと思う。素直にそう口にすれば、「刺身かぁ……半額シールが張ってないと手が出ねぇな」と返され、また笑ってしまった。本当にどうしてこういう部分だけしっかりしてしまっているのか、兄の頭の中は全く理解できないままだ。

「肉も刺身もだけどさ、そういや俺ら、クッキーとかケーキとかもあんまり食ったこと、ねぇよな」

 できるだけ節約して生活する日々だったため、口に出来る菓子類も限られていた。全然食べたことがないわけではないが、そういった若干高価な洋菓子は頻繁に食べるものでもなかったのだ。

「兄さん、お菓子は作らないしね」

 燐が作ることのできる料理は基本的に食卓に並べることのできるもの、だ。彼の手による甘いものといえば、フレンチトーストかホットケーキくらいだった記憶がある。つけて焼くだけ、混ぜて焼くだけのそれらが、燐が作ると異常に美味しく思えたものだ。

「うちじゃ誰も作ってなかったからなぁ」

 兄が料理の腕をいつ、どのようにして磨いたのか、実は雪男はあまり詳しく知らない。気が付けばいつのまにか上手くなっており、作れるレパートリーも徐々に増えていったように覚えている。それでも彼にとって台所に立つという行為は、食事の支度をするということと同義であり、嗜好品を作るために立っている姿は見たことがない。

「雪男、菓子、食いてえの?」

 きょとん、とした顔で首を傾げられ、「いや、別に」と答える。

「ていうか、兄さんには無理だと思う。お菓子って分量とか手順とか細かいところで面倒くさいみたいだし」
「んだとっ!? ……って怒りてぇけど、ぶっちゃけ計量カップとかまともに使ったことねぇな、俺」

 目分量でこの味を作れるのだから、それはそれですごい腕だと言えるだろう。何にせよ、そういった嗜好品が味わえなくて困ることはなく、どうしても食べたければ買えばいい。今のまま美味しい食事にありつけるだけで、雪男にとっては満足できることだった。



***     ***



 そんな会話を交わしたことさえすっかり忘れてしまっていたある休日。仕事の依頼も入っておらず、今のうちに買い出しにでも出かけておこう、と雪男は一人用品店まで出向いていた。祓魔師としての必要品だけでなく、文具や日用品といった高校生としての買い物もあったため、午後一杯を使って店を回り要り様なものを揃える。日々暇の少ない生活をしているため、できることはできるうちに済ませておくのが習慣となっていた。
 すべて必要なものであるため買い過ぎたとは思わないが、さすがに重たい。運動がてら歩いて寮まで戻ろうと思っていたが、ここは少しずるをさせてもらうことにしよう、と鍵を使って道を作る。

 木造の寂れた建物の中に足を踏み入れればふわり、と鼻孔をくすぐる甘く香ばしい匂い。燐の趣味が料理だけあり、食欲をそそる香りが寮の中に広がること自体は珍しくないが、それにしても甘い。
 とりあえず抱えていた荷物のせいで悲鳴を上げていた肩のため、一旦部屋に戻ったのち匂いに誘われるように厨房へと顔を出した。

「兄さん?」
「雪男! お前すげぇタイミングだな、ちょうど今焼けたとこ」

 どうよ、と言って兄がオーブンから取り出した鉄板には、こんがりと焼きあがったクッキーが並んでいた。若干形が不ぞろいで飾り気のないオーソドックスなクッキーではあったが、ふわりと漂う香りは既製品では決して味わうことのできないものだろう。
 食ってみろ、と視線に促され、焼き立てのそれを一枚手に取る。まだ暖かなクッキーをかり、と齧れば、バターと卵と砂糖の素朴な味がした。

「美味しい……」
「っしゃ! これでクッキーもマスターしたな、俺!」

 天才すぎんだろ、と満足そうに言い、自分でもクッキーを一枚口の中に放り込んで美味い、と笑った。

「にゃあ! にゃぁあっ!」
「お、ちょっと待て、クロ。お前にゃ熱いってまだ」
「にゃああああっ!」
「分かった分かった、冷ましてやっから、ほれ、ゆっくり食え」

 目の前で交わされる猫と兄との会話を聞き流しながら、止められないのをいいことに雪男は焼き立てのクッキーに舌鼓を打つ。このまま食べ続けたら夕食が入らなくなるなぁ、と分かってはいても、どうにも止まらない。未だ稼働している様子のオーブンの中では、おそらく第二陣が焼きあがるのを待っているのだろう。

「何で急にお菓子?」

 今までそんなそぶりを見せたこともなく、興味がある様子も見えなかった。燐には無理だろうと告げた雪男にさして反論もしなかったというのに。
 ぽりぽりぽり、とクッキーを齧る口を止めぬまま尋ねれば、「や、だって」と燐もまた自作のそれへ手を伸ばしながらあっさりと口にした。

「俺が作ったもんなら、お前も普通に食えるだろ?」

 味云々ではなく安全性の問題で、どこの誰からかも分からない、しかもその人物の手作りだというものを簡単に口に出来るわけがない。
 そう言って、プレゼントされたクッキーを廃棄したのは先日のこと。
 確かに燐の手に寄るものならば、何の不安を抱くこともなく、疑問を抱くこともなく、素直に口にすることができる。だがそのことをさも当たり前であるかのように、信じて疑っていない声音でさらり、と告げられ、雪男は一瞬だけ返す言葉を失った。
 その間を兄はどう受け取ったのか。「なんだよ」と眉を寄せ、燐が言葉を続ける。

「俺が作ったもんじゃ安心して食えねえっての?」

 それはおそらく、深い意味を持った言葉ではなかったのだろう。燐の腕を疑っているだとか、そういう意味合いで告げられたものだとは思う。
 そう分かっていながら、それでもどうしてだか、雪男にはどこか違う意味に聞こえてしまい。

「いや、それはない」

 考える前にきっぱりとした否定が零れた。
 たとえ燐がどのような存在であったとしても、双子の兄という事実だけは変わらない。変えるつもりもない。唯一なる家族が作ったもの以上に安心して口にできるものがあるはずがないのだ。
 自分でも驚くほどの強い声音の否定に、言われた燐も驚いて目を見張っている。何かフォローをしなければ訝しがられるかもしれない、慌てて口を開きかけたがそれより先に、「そっか」と燐が笑みを浮かべて頷いた。
 普段のにやりとした何か企んでいそうなものではなく、子供のような全開の笑顔というわけでもない。ふわり、と自然に浮かべられたその笑みを見たことがあるものは、雪男たち家族以外にはいないだろう。

「美味しいよ、ほんとに」

 静かにもう一度そう告げて、かり、とクッキーを齧れば柔らかい甘さが口内に広がった。

 青い炎をその体に飼う燐が、こんなにも優しい味を作ることができるなど、一体誰が想像し得ようか。
 この味は自分だけが知っていればいい。
 どこか儚ささえ見え隠れする笑みも、雪男だけが知っていればいいことだ。



ブラウザバックでお戻りください。
2011.05.24
















燐ちゃんは素朴なお母さんの味のするお菓子を作ってくれます。
よし、嫁に来い。
pixivより転載。