思い出の中の私と、外の君


 子供の頃の記憶というものは、自分で覚えているよりもむしろ親から聞いた、あるいはアルバムの写真で見て覚えている場合の方が多いのかもしれない。かくいう燐も、もともと記憶力がさほど良くないため、小さな頃のことはよほどの出来事でない限りあまり覚えていなかった。
 それなのに唐突に思い出したのは、おそらく久しぶりにその音を聞いたからだろう。祓魔屋の一人娘であり、引っ込み思案な少女が燐の双子の弟を「雪ちゃん」とそう呼んでいる。彼女らしい可愛い呼び方で、きっと呼ばれている方も満更ではないのだろう。
 そんな呼び方を使っていた時期が燐にもある。それをふと思い出した。



 養父が言うには、燐たち双子は言葉を覚えるのが一般的な子供より若干遅かったようだ。双子にはよくある傾向らしいが、それでも心配した養父が懸命になって言葉を教えたものだ、と語られたことがある。酒のつまみを作らされながら話半分に聞いていたが、「あん頃はなぁ、お前らもう、超可愛くてなぁ」とべろべろに酔っ払った親父が言うのだ。

「……いい歳こいて『超』とか使うなよ、ジジィ」
「んだぁ? そりゃ年寄差別だぞ、燐。ジジイにだって権利ってもんがだなっ!」
「あーあー、もううっせぇ! ほら、豆腐ステーキ! あとはシイタケのマヨ乗せと味噌きゅうり」
「おー、さすが我が息子。おら、てめぇもそこ座って付き合え」
「何で俺が」
「いーからほら、父ちゃんが注ぐ酒が飲めねぇってのか?」
「酒じゃねぇじゃんよ」

 グラスに注がれたものはただの麦茶で、とてもではないがこれで気持ちよく酔っ払えるとは思えない。しかし多少小腹が空いていたこともあり、何か食べておきたかったため素直に養父の前の席へ腰かけた。そうして散々に聞かされた幼い自分たちのこと。いつも一緒にいたせいか、養父の呼びかける「りん」と「ゆき」がどちらを指しているのか分からず、「りん」と呼んで二人が返事していたこともあったらしい。根気よく「りんちゃん」と「ゆきちゃん」と教えてようやくそれぞれの名を覚えたのだとか。

「お前はお前で『ゆきちゃん、行くよ』っつってゆきの手ぇ引いて、ゆきはゆきで『りんちゃん、待ってよ』っつってお前のあとついて歩いてなぁ」
「だああっ! もう、そんなこっぱずかしい話、余所でもしてんじゃねぇだろうな!?」
「は? するに決まってんじゃねぇか。何のために写真持ち歩いてると思ってんだ」

 ほら見ろうちの息子可愛いだろー、と懐から引っ張り出してきた写真は、ふたりが幼稚園の時のもの。だからその息子本人にその話をしてどうするのだ、と写真を奪い取ろうとしたが、ひょいと交わされてしまった。

「あ、てめ、それ寄越せっ!」
「やーだね! 悔しかったらとーちゃんから奪って見やがれ。ほーらほーら!」
「くそジジィッ!」

 そうやってばたばたと食堂で暴れていたところを雪男に見つかり、ふたりしてこっぴどく叱られた覚えがある。それでも酒に酔った(というより半ば酔った振りだったのではないか、と今では思う)養父は「こぉおおんなちっさかったお前らが、いつの間にかこぉおおんなでっかくなりやがってよぉ……」と泣き、雪男とふたりで「それじゃ俺らミジンコクラスじゃねぇか」「でかくなって悪かったね」と呆れたものだ。



 養父に言われずとも、雪男を『ゆきちゃん』と呼んでいた時期のことはうっすらと覚えがある。いつ『ゆきちゃん』から『雪男』に変わり、『りんちゃん』から『兄さん』に変わったのかは分からないが、それはごく自然な流れであっただろう。
 ひとはいつまでも子供ではない。成長とはつまりは変化だ。変わらぬ成長などあり得ない。
 「りんちゃん」と泣きながら燐のあとを追いかけていた『ゆきちゃん』はもういない。それはおそらく雪男の中にももう『りんちゃん』と呼ばれていた頼りになる兄がいないのと同じこと。
 当たり前のことだ、と分かっているが、やはり少し寂しくは、ある。

「昔は普通に『ゆきちゃん』って呼んでたよなぁ」

 何をするにつけてもとにかく雪男と一緒だった。だから必然的に弟を呼ぶ回数も多く、二言目には「ゆきちゃん」だったような覚えがある。
 そんな懐かしい過去を思い出しながら作業をしていたからかもしれない。
 勉学に関することにはさっぱりだが、料理を目の前にすれば燐は人並み以上に集中力を発揮する。どうしてそれが他のことにも活かせないの、と雪男は呆れているが、それはこちらの方が聞きたいくらいだ。
 そんな集中力を駆使している最中に「ただいま」と、いつの間にか帰宅していた弟が厨房へと顔を出した。今日は猫又クロも側に居なかったため、声を掛けられるまで厨房に雪男がいることさえ気づかなかった。
 弟が帰ってきているなら尚更急がねば、と燐はコンロの上のフライパンを持ち上げる。後は盛り付けるだけではあったが、その皿を出すのを忘れていた。きょろ、と見回し、ちょうどグラスを取ろうと食器棚を開けていた弟を目に留める。
 きっとおそらくたぶん。
 先ほどまでひとりで思い出していた事柄が悪かったのだ。

「あ、ゆきちゃん」

 するり、とそんな言葉が口から零れ、「え、何、りんちゃん」と当たり前のように振り向かれ。

「ッ!?」
「――――!」

 目が合うと同時に顔を真っ赤にした。
 それぞれ手にしていたフライパンとグラスを落とさなかっただけマシだと思う。
 雪男は口元を押えてその場に蹲り、燐はフライパンを作業台に置いて俯いた。しばらくそのままふたりして羞恥に耐え、先に口を開いたのは雪男の方。

「な、んだったの、今の……」

 よほど今自分が口にした言葉に衝撃を受けたのだろう、ふらり、と立ち上がった弟の顔はまだうっすらと赤い。燐の方もすぐには立ち直れそうもなく、「いや、悪ぃ」と素直に謝罪を口にする。

「考えごと、してたっつーか」

 昔のこと思い出してたらつい、と弟へ視線を向けることなくそう言えば、「だからって、なんで……」とため息をつかれた。そんなに呆れなくても、と燐は唇を尖らせる。

「お前だって普通に『りんちゃん』っつったじゃんよ」
「そ、れは条件反射、っていうか! ずっとそう呼んでたんだからしょうがないじゃない!」
「俺だってずっと『ゆきちゃん』って呼んでた!」
「子供の頃の話だろ!?」
「だから、それを思い出してたんだってば!」
「何で今さらそんなこと思い出してんの!」
「思い出したもんはしょうがねぇじゃん!」

 下らない口げんかこそまるで幼い頃に戻ったかのよう。互いに文句が尽きると「ゆきちゃんのばかっ!」「りんちゃんのばかぁ!」と言い合って、そうしてふたりで大泣きしていた。

「ああもう、なんでもいいけど! それ、外では絶対に言わないでね」

 あまりにも自然に呼びかけられたら、また今のように素で返してしまう。
 そう釘をさす雪男に「おう」と答えた後、しばらく間を置いて「……皿、取ってもらいたかったんですケド」と燐は口を開いた。
 「ゆきちゃん」と呼べば「なに、りんちゃん?」と答えがあり、「りんちゃん!」と呼ばれたら「ゆきちゃん、ここ!」と返す。ごく普通の会話はいつからか呼び方が変わり、もう口にすることもないだろう、と思っていた。きっとそんな呼び方はもう許されない、そう呼ばれるべき存在はいないのだ、と勝手に思い込んでいた。
 けれど。

「ゆきちゃん、皿、取って。でっかいの」

 意外にもまだ近くに『ゆきちゃん』と『りんちゃん』はいるのかもしれない。

「…………これでいいの、りんちゃん?」




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2011.09.21
















罰ゲーム(対メフィスト)で一日中、
「りんちゃん」「ゆきちゃん」呼びを強いられる双子、どこですか。
Pxiveより転載。