夢を夢見る


 黒い、黒く、暗い、暗く、
 蠢く。
 血、紅い、錆びた、
 開かれる扉、足が、腕が体が、喰らわれる。
 けらけら、嗤い声、悲鳴、にも聞こえる、
 突き落とされる、引きずり込まれる、呑み込まれる、手を、伸ばす。
 俺を返せ俺の平穏を返せ俺の日常を返せ俺の生活を返せ俺の未来を返せ俺の精神を返せ俺の身体を返せ俺の、






 繰り返される夢に飛び起きる、ということはもうなくなった。人間学習するものだ、と思ったが、そういえば自分はもう人間ではなかったな、と思い直す。
 もう人間では、ない。
 今まで何の疑いもなく信じていたものを唐突に奪われた。全身から骨を抜かれたらこんな感覚だろうか。
 はふ、と吐き出した息がどこか血腥いのは気のせいだろう。先ほどまで脳を侵していた夢の残像から抜けきれていないだけのこと。
 門を埋め尽くす無数の首の笑い声が耳の奥から離れない。身体中に喰らいついてきた感覚が皮膚から離れない。濃厚な血の匂いが鼻腔の奥から離れない。
 離れてくれない、嫌になる。

 シーツを頭の上まで引き上げ、身体を丸めて横になる。ぱたむ、と小さな音は無意識のうちに揺れた尾が立てたもの。そんな物音からさえも逃げるように、足を抱えられるほど身体を折った。息苦しいシーツの中、膝に額を埋め夢から現実から何もかもから逃げ出そうと試みる。
 突きつけられた事実は客観的に見てもかなり酷い代物で、そこから逃げない代わりに夢くらい楽しいものを見てもいいではないか、そう思う。
 むしろ現実から逃げてしまえば、楽しい夢を見ることができるのだろうか。

 きゅう、と更に体を丸め、暗く狭いその場所に、母親の胎内はこんな感じなのかもしれない、そう思った。そこにいた時から、燐の身体には魔神の炎が宿っていたというのだから。
 どうして燐たち兄弟を引き取って育ててくれたのか。
 どうして炎のことを隠し、普通の人間として育ててくれたのか。
 もともと回らない頭では何を考えたところで答えは得られない。出来が悪いのならば一層のこと全部忘れてしまえばいい、何も覚えていられないほど頭の中が空であってくれたら。
 自分が魔神の落胤であることも、悪魔の炎が体に宿っていることも、自分のせいで養父を亡くしたということも、体中にまとわりつく虚無界の門の気味の悪い感触も、鏡の中に映った人ならざる自分の姿も、養父の身体から流れ落ちる血の匂い、も。

「全部、忘れられたら、いいのに」

 ほろり、零れた、弱々しい本音。
 追いかけてきた悪夢を追い払ったのは、はぁ、と自分以外の誰かが零すため息。

「……それ以上馬鹿になってもらったら困るんだけど」

 淡々とした言葉に近づいてくる気配。とす、とベッドの縁に腰掛けられたため、僅かに軋んだ音が響いた。兄さん、とシーツの上に置かれた手の温かさを感じる。そこで気が付いた、この狭いベッドの上、薄いシーツの下。ここが母の胎内であるというならば、足りない、弟が足りない、血肉を分けた双子の弟が、雪男がこの場にいなければ、自分は自分ではない。
 
 シーツの裾から手を伸ばし腕を引く。無言の要請を察してくれた弟はするり、と双子の兄の隣に潜り込んできてくれた。
 身体ばかり大きくなった双子の兄弟。それでもまだこうして、生まれる前と同じように、同じ場所で身を寄せ合って。

 全部忘れてしまいたい。
 全部なかったことにしてしまいたい。
 そんなこと、起きている間は口が裂けても言えない。
 後ろを向いたその瞬間、虚無界の門は燐を、燐たち兄弟を喰らおうと口を開けて待っている。






 黒い、黒く、暗い、暗く、蠢いた。
 紅い血、錆びた血、開かれる扉、足が、腕が体が、喰らわれる。
 嘲笑い声、
 突き落とされて、引きずり込まれて、呑み込まれて、空を切る、手。
 俺を返せ俺の平穏を返せ俺の日常を返せ俺の生活を返せ俺の未来を返せ俺の精神を返せ俺の身体を返せ俺の、弟を返せ、俺の、
 俺の父さんを、返せ。

 ――頼むから、返してくれ。




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2011.05.24
















虚無界の門×燐。
pixivより転載。