スイッチ


 夏は暑い。
 雪男が聞けば何を当たり前のことを、と怒りそうなことを考えながら、燐はまだ多少冷たさを残している木の床にべったりと張り付いて身体を冷やしていた。あまりの暑さに呻き声を上げようものなら容赦なく弟の怒りの鉄拳が飛んでくるだろう。というより、燐の「暑い暑い」コールのうざさにキレた雪男により、既に一度痛い目にあわされている。
 しえみなどはどうにも雪男を神聖視している節があり、優しいだとか落ち着いているだとか思っているようで、祓魔塾の他の生徒や教師陣、果ては一般の学生や教師も含め、皆似たような印象を抱いているらしい。しかし、燐から言わせれば皆、奥村雪男という男を大きく誤解している。
 燐と同じ年の双子の弟は、確かに十五という年齢の割には思慮深く、落ち着いている面もあるだろう。しかし真夏の蒸す部屋の中、暑さにばてている双子の兄に向けてうるさい、うざいという理由だけで分厚い雑誌や辞書の雨を降らせてくる程度には傍若無人でもある。
 もちろん雪男から言わせれば、そうされるだけの原因が燐にあるらしいがそんなことは知ったことではない。
 暑いものは暑い。
 何をどうしたところでその暑さは変わらない。

「だったら起きて時間を有意義に使えば」

 自分はさぞ有意義に使っている、と言わんばかりの口調にむかっと来て寝転がったまま雪男の方へ視線を向ける。優秀な弟は、参考書になにやら書き込みながら大変にお行儀よく勉強をしているようだった。ごろごろとしているだけの燐よりは、遥かにマシな時間の使い方をしているような気も、しなくもないと認めるのに吝かではなかったりしなくも。

「……パソコン、つかわねぇの」

 祓魔塾関係の授業資料は、雪男の机に設置されたデスクトップパソコンを使って作っているらしい。しかし今はそのモニタは暗いままで、そういえば最近あまり起動しているところを見かけないな、と思う。なんとなく尋ねてみれば、「これ以上室温、上げたいの」と返された。確かに、僅かであろうが機械類を稼働させれば熱を発する。またこの気温で起動させるのもパソコンには負担なのかもしれない。暑い中動きたくないのは人も機械も、もちろん悪魔だって同じなのだ。
 ずっと一か所に転がったままでいれば、その下の床が体温で温もるのも当然で、燐は新たな冷たさを求めて寝返りを打つ。ぱたむ、と尾が床を叩き、熱気がふわ、と上がったような気がした。

「……あちぃ」

 一応雪男に本を投げつけられてから我慢はしていたのだが、それでも思わず言葉が零れてしまう。慌てて口を両手で塞ぎ机に向かう双子の弟を伺えば、こちらを見下ろす雪男がにっこりと笑みを浮かべていた。

「裸同然で床に寝転がって、よく言うね」

 いい加減にしろよ、と笑顔のまま近寄ってきた弟の足が、どす、と燐の腹へ降りてくる。

「ぐぇっ」

 結構、いやかなり、痛い、この男、本気だ。
 ぐりぐりと、そのままみぞおちを抉られそうになり、両手で足首を掴んで暴挙を止めた。下からでもこめかみに浮かぶ青筋がはっきりと見えそうなほど、雪男の苛立ちがマックスに達していることが分かる。要するにこの暑さで弟もまた苛々しているのだ。
 肌にまとわりつく布が邪魔くさくて、Tシャツは床に転がると同時に脱ぎ捨てている。辛うじてハーフパンツは履いているが、尻尾のせいでトランクスもろともずり下がっており、それらもまただらしないことが嫌いな雪男には腹立たしい光景なのだろう。ちっ、と舌うちした弟は足首に絡まる燐の手から逃れ、そのまますぐ側にしゃがみ込んだ。
 嫌な予感が、する。
 先ほどから雪男が醸し出す雰囲気は物騒だったが、更にそれがどす黒く変化したような、そんな気がした。見た目には何がどう変わったわけでもないと思うのだが、野生の勘が危険信号を発している。(似たようなものであることを否定はしないが一体いつ誰が野生動物になったというのだ、と雪男辺りが聞けばツッコミを入れただろう。)
 腹筋を駆使してがばり、と起き上がり、咄嗟に雪男から距離を取ったのは良かったのだが、残念ながら素晴らしかったのは運動神経だけで頭脳の方は相変わらずだった。逃げた先にはベッドしかなく、つまりは自分から袋小路に足を踏み入れただけのこと。怒りを覚えている双子の弟は当然のように燐を追いかけてベッドに乗り上げてくる。

 暑い。上半身は裸、ズボンもパンツも半分脱げ掛け、でも暑い、ベッドの上、真正面には目の座った雪男、そんでもってとりあえず暑い。

 悪い展開しか待っていないような気がし、両手を上げて「お、落ち着こーぜ」と口を開いた。

「僕は落ち着いてるよ」
「いやいやいや、落ち着いてない落ち着いてない、手っ、手ぇどけろっ!」
「なんで。だって触って欲しいから脱いでるんでしょ?」
「違ぇよっ! ちょっ、あっ、ひっぱんなっ、乳首、伸びるっ!」
「もっと大きくなればいいのに」
「やっ、くりくりすんなって!」
「ちょっと赤くなったかな?」
「ひゃあっ! なっ、舐め……っ」
「汗、かいてる。しょっぱいね」
「当たり前っ、暑い、つってんだろ、がっ!」

 ベッドの上で繰り広げられる下らないな攻防。じたばたと暴れる燐の腕を捕え、「知ってるよ、僕だって暑いんだし」と雪男は気温など感じていないような声で答える。

「っ、だ、ったら! どけっ、離れろっ!」

 暑い、と牙を剥いて唸る燐をじ、と見つめ、雪男は小さく顔を傾けた。伸ばした舌で頬を舐め、「これだけ暑いんだから」と囁くように口にする。

「もういっそ、もっとアツクなってもいいんじゃない?」

 喉の奥で笑った雪男は、まるで今から好物に齧り付こうとしているかのように、あー、と口を開いた。 
 食べられる。
 いつも太陽が落ちた後に耽る淫靡な行為の前触れのように、この大きな口でばくりと唇ごと食べられてしまう。
 そう思いぎゅう、と目を閉じたところで。

「……へ?」

 かぷ、と甘く噛まれたのは鼻の頭だった。
 思わぬ箇所に歯を立てられ、燐はきょとんと弟を見つめる。顔を上げた雪男はふ、と笑みを浮かべてたった今自分が噛んだ鼻をきゅ、と摘まんだ。

「ほんとにやると思った?」
 やるわけないでしょ、これ以上暑くなるのは嫌だよ。

 雪男は肩を竦めると、身体を起こして燐から離れる。あっさりと逃げたその体温と気配に、無駄に強張っていた全身からどっと力が抜けた。なんだよ、と唇を尖らせて俯く。

「……ちょっと期待した俺が馬鹿みてーじゃん」

 思わずそう零した燐の目に入り込んだのは、素肌を晒したままの己の胸。あーあ、赤くなって立ってら、と思ったことをそのまま呟いて、雪男の悪戯によりつんと上を向いてしまっている乳首へそっと触れた。途端に手元が暗く陰る。

「? ゆき、」

 お、と最後の一言は放たれることなく、先ほど逃れたはずの雪男の口へばくり、と食べられてしまった。

「……しねぇ、っつった、よな」
「気が変わった」

 散々舌を弄られたあと口にした燐の言葉をばっさりと切り捨て、押し倒した半裸の兄の上へ伸し掛かってくる。一体今のこの一瞬でどんな気の変わり方をしたというのか、雪男の「気」とやらはアクロバティックすぎると思う。
 「お前のスイッチがどこにあんのか、にーちゃんさっぱり分かんねーよ」と呟きながら柔らかな頭を抱き込めば、「しいて言えばこれかな」と赤くなった乳首を吸い上げられた。

 とりあえず、暑い。




ブラウザバックでお戻りください。
2011.05.30
















ほんとに全然やる気なかったのに煽られちゃった雪ちゃん、の図。