最後じゃない晩餐


 お電話一本でお伺いいたします。
 なんて、宅配ピザサービスじゃあるまいに。
 そう思うが、冷蔵庫の中いっぱいに詰められた食材を前にしてしまえば行かざるを得ない。それが今、奥村燐が置かれている状況だった。
 家賃や水道光熱費は必要ないようだが、食費だけは自己負担。といっても、さすがに一ヶ月二千円でどうにかなる問題ではなく、雪男からのカンパがあるとはいえ弟だって自分で買いたいものや必要なものがあるだろう。百歩譲って燐自身の一ヶ月の小遣いが二千円であるのならばまだ堪えよう。むしろ一銭も貰えなくとも仕方ない存在だと分かっている。しかし、さすがに食費だけはどうにかならないだろうか。
 そんな訴えを兄弟の後継人であるらしい男へ切々と怒鳴りあげてみれば、「ならばこういうのはどうです?」とウインクとともに寄越された提案。

「奥村くんのお小遣いは二千円。これは毎月差し上げましょう。それとは別に食材の提供。寮の厨房の冷蔵庫に適当に詰めておきますので、ご自由に使っていただいて構いませんよ。必要なものがあればまあ、それなりにリクエストもお伺いいたしましょう。
 その代わり、」

 やっぱりその言葉が続くと思っていた。一体どんな交換条件を出されるのか身構えた燐を前に、けらけらと笑ったメフィストは「そんなに難しいことじゃありませんよ」と人差し指を立てた。

「私にも食べさせてください、奥村くんの手料理を」

 毎日は必要ない、とメフィストはにやにやと笑みを浮かべたま言う。食べたくなれば声を掛ける、そのときに都合が良ければ夕食を差し入れに来てもらいたい。簡単にいえばそんな要望だった。

「……そりゃ、別に、いいけど、」
 いいのか、そんなんで。

 燐にとっては料理など趣味でしかなく、提示された条件はさほど苦痛ではない。無茶振り(たとえばフランス料理のフルコースが食べたいだとか、本格的な中華料理を用意しろだとか)さえされなければ、問題はないだろう。

「いいんですよ、それで」
 ではよろしくお願いします。

 そんなやりとりを経た後の現状。

『奥村先生……弟さんは任務で夜遅いのでしょう? 私、今日は和食な気分ですのでよろしく』

 こちらの返事も聞かずにぷちり、と切れてしまった携帯電話を片手に大きくため息をつく。騎士團の名誉騎士でもあるこの男が雪男の任務について知らないわけがなく、留守を狙って連絡してきたのは確実。断る口実もなく、また約束をして以来本当に食材だけはきっちりと用意してくれていたものだから、さすがに何らかの礼はしておきたいとは思っていた。
 和食といっても燐が作れるものなどただの家庭料理でしかない。しかしきっと向こうもそれは理解しているだろう。冷蔵庫に用意されているものをざっと見渡し、献立を考えて調理に取り掛かる。帰宅がいつになるかは分からないが雪男の分も含め、いつもの二人分より少し多めの夕飯づくり。どうにも修道院の台所に立っているような気分になり、少しだけ懐かしく思った。



「ああ、これは本当に美味しいですね」

 御見それしました、と優雅に箸を使いながらそう言うメフィストから視線を反らせ、「それほどでもねぇよ」と唇を尖らせる。褒められるということ自体あまり経験がないため、どう返せばいいのかがよく分からないのだ。

「つかほんと、こんなもんでいいのか?」

 献立は白米に味噌汁、ほうれん草のおひたしとぶりの照り焼きに里芋の煮っ転がし。あとは卵の賞味期限が切れそうだったため、出し巻き卵を作って持ってきたくらいで、ごくありふれた一般家庭の食卓そのものだ。どうにも多量の食材をただでもらっているため、この程度では割に合っていない気がして仕方がない。
 自分でも脂ののった魚の身をつつきながらそう口にすれば、「いいんですよ、これで」と軽く目を伏せてメフィストが答えた。

「一度、ちゃんと奥村くんの料理を食べてみたいと思っていたんです」

 何せ藤本は一口も分けてくれませんでしたからね、と顔を上げて言った男の顔は、どこか懐かしいものを見るかのような、穏やかな表情をしていた。

「……親父、が?」
「ええ。貴方、修道院にいた頃、お弁当を作ったりしてたでしょう?」

 指摘され、思い出す。確かに養父が仕事で遠出をするだとか、そんな折に「暇なら弁当でも作れ!」と強制的に作らされた記憶がある。それも結構頻繁に。今思えば、あれはきっと神父としての仕事ではなく祓魔師としての仕事だったのだろう。
 悪魔との戦闘があるかもしれないというのに息子の弁当をねだるなど、呑気すぎるにも程がある。その上どうやらあの親父はメフィストの前でさえ、臆することなく弁当を広げていたらしい。

「見た目も華やかで、栄養も考えてあって、何よりとても美味しそうでした。一口くらい構わないだろうと何度頼んでみても、『誰がやるか』の一点張り」
 『愛息子弁当は全部俺が食うんだっつーの』だそうですよ。

 くつくつと笑いながら燐の知らない養父の一面を知らされ、驚けばいいのか、呆れたらいいのか、あるいは照れたらいいのかが分からない。口元を押えて、「あのくそジジィ……」と悪態を付けば、「まったくもって、本当にくそジジィ、ですね」とメフィストが大きく頷いた。

「存命中は嘘偽りなく一口も食べることが叶わなかったので、これからは思う存分堪能させてもらうことにしようかと思いまして」
 そうすればきっと藤本は悔しがるでしょうから、指をさして『ざまあみろ』と言ってやるんです。

 燐を救うために命を落とした養父。血の繋がりなどなくとも、父は彼一人だと胸を張って言える。照れくさくて口にはできないが、養父の息子であれたことを、これからもあり続けることを誇りにさえ思っている。
 そんな養父が友人だ、と言い残したこの男。掴みどころがなく本音が見えない、きっと物質界も虚無界もどうでもよくて、人間の命や悪魔の命さえもどうでもよくて、ただただ自分が楽しければそれだけで良いような、そんな雰囲気があるとそう思っていたが、もしかしたら案外に、養父のことだけはその視界に収めてくれていたのかもしれない。亡くなった養父を偲び、喪に服す程度には、親しく思ってくれていたのかもしれない。
 いつものひとを小馬鹿にしたような笑みではなく、少し淋しげな顔をして笑う。
 養父を亡くして悲しい、と。
 そう思ってくれているのが分かるような笑みだった。
 きっとそんな感情を悟られることを嫌がるだろう、そう思いす、と目を逸らしたところで、「というわけで」と調子の戻った声が耳に届く。

「これからもよろしくお願いしますね、奥村くん」

 食材、調理器具その他もろもろ、必要なものはすべて提供させていただきます、とどうにも破格な待遇をされているような気がするが、燐にとっては願ったり叶ったりなこと。代わりに、食べたいものがあれば可能なら沿えるように努力する、と言っておいた。

「おや、それは嬉しいですね。奥村くん、お菓子などは作れませんか?」
「菓子? あー、前にクッキーなら焼いたことあっけど、あんま作り方知らねぇし」
「ではレシピ本を用意しましょう。私、甘いものは大抵大丈夫ですので、秀作を期待してますよ」

 「次」を誰かに待ってもらえるということがこんなにも嬉しいことなのだ、と教えてくれたのは養父。それを今思い出せたのは、燐の料理を本当に美味しそうに食べてくれる胡散臭い理事長のおかげだろう。素直に礼を述べるのも恥ずかしく、また癪に障るため、「他の菓子が食えなくなるくらい美味いもん、作ってやるよ」と嘯いておく。
 修道院にいた頃は、養父に雪男に、生活を共にしていた他の神父たちにと大人数で食事を取っていた。二人だとやはりどうにも空間が淋しい、と思ってしまうが、一人で食べるよりは遥かにマシだ。もしかしたらメフィストは、燐のそんな感情さえも読み取っていたのかもしれない。
 ごちそうさまでした、と並べた食器の中身をほぼ空にして箸を置いた理事長は、ナプキンで口元を拭ったあと燐へ視線を向ける。

「ついでに、他に何か必要なものはありますか? 今後、私の食生活を豊かにするために」

 尋ねられ、右斜め上を見上げて、「……かき氷機とたこ焼き器?」と言葉を口にした。

「また予想外なところを突いてきますね。単純に奥村くんが食べたいだけでは?」
「まあ、かき氷機はそれもある」

 これから本格的な夏になる。毎日アイスを買うのも非常に不経済で、それならばシロップとほんの少し手を加えてできるかき氷を作ればアイス代も浮くのにな、と思っていた。ではたこ焼き器は、と尋ねられ、それは雪男が、と素直に言いかけて口を閉じる。はっと顔を上げればにやにやといやらしい笑みを浮かべたメフィストと目があった。

「ッ、なんだよっ!」
「いいえ? 本当に仲が宜しいですねぇ」
 気づいてます? 貴方、二言目には雪男が、雪男が、なんですよ?

 指摘され、かぁ、と顔が赤くなったのが自分でも分かった。そんなことねぇ、と言い返したいが、きっと今口を開けば更に墓穴を掘るだろう。そんな気がしたため唇を噛んで前に座る男を睨んでおく。大部分が羞恥に占められた燐の怒りを受け流しながら、「誤解しないでいただきたいのですが」とメフィストはくつくつと笑って言った。

「貴方がた兄弟の仲が良いのは、こちらにとっても喜ばしいことなんですよ?」

 最終的に互いを繋ぎとめるのはそれぞれ兄弟になるでしょうから、と言われた言葉がいまいちよく理解できなかった。「繋ぎとめる?」と首を傾げたら、「ええ、この物質界に」と返ってくる。

「奥村くん、ご存知です?」
 人間はね、魔神の血など引かずとも悪魔になれるんですよ。

 悪魔が人間になることはできないのに不公平ですよねぇ、と続けられた言葉は燐の耳には届いていない。
 人間が悪魔になる。
 そのことを悪魔落ち、とそう言うのだと誰から聞いただろうか。(考える必要もない、優秀すぎる双子の弟から、だ。)
 燐を物質界に繋ぎとめる、繋ぎとめておきたい、その言葉は分かる。一度虚無界へ行きかけた身。幼い頃から、感情が高ぶると何も考えられず意識が飛ぶことがあった。きっとそういうことも含め、繋ぎとめておく、と言われているのだろう。
 しかし、「互いに」というのはつまり。

「――ッ、雪男は、悪魔になんか、なったりしねぇっ!」

 ぎっ、と男を睨みつけてそう口にすれば、「分かりませんよ?」と笑みを崩さぬまま肩を竦められた。

「何せ、彼は『人間』ですからね」

 燐とは異なり完全な人間である雪男。
 だからこそ、悪魔になりうる可能性を否定できない。
 人間とは不思議な生き物だ。誰よりも強くなれたかと思えば、僅かな綻びですぐに弱ってしまう。心あるが故に、光にも闇にも染まる。
 そう、だからこそ、否定、できない。できないけれど。

「誰が雪男を虚無界なんかにやるか」
 アレは俺の弟だ。

 本人が聞けば怒りだしそうなセリフだったが、燐の本心には違いない。たとえ何があったとしても、雪男は絶対に悪魔になどならない。させやしない。そのためにはどんな手でも使ってみせよう。なりふりも構わない、どれだけ醜かろうがしがみ付いて引き止めてみせる。

「雪男は人間だ」

 そしてこれからも人間であり続けるのだ。
 きっぱりとそう口にした燐をどう思ったのか。メフィストは「かき氷機とたこ焼き器、用意しておきましょう」と口の端を歪めて言った。

「もちろん、私もお相伴にあずかれますよね?」

 シロップはイチゴが好きです、と続けるのだから、あずかれますよねも何も、あずかる気は満々らしい。燐も断るつもりはなかったが、呆れたように肩を竦めると、メフィストは楽しそうに喉の奥で笑った。

「さあ、もう夜も更けてきました。そろそろ奥村先生もお帰りでしょう」

 帰宅を促され、テーブルの上の食器の片づけはどうするのだろう、と思えば、ぱちん、と指を鳴らされる。同時に消え失せた食器類にもう驚くのも馬鹿らしい。きっと綺麗に洗われたそれらが寮の食器棚へ収まっているのだろう。
 いつもならば理事長室前の廊下へ繋がっているはずの扉は、今この瞬間だけ寮の玄関へと続いている。開けば既に見慣れた光景が広がっていた。便利は便利だが、この能力があればどこにでも侵入したい放題ではないだろうか。
 そんな思いが顔に出てしまったのだろうか。「安心してください」と相変わらず何が楽しいのか、笑いながらメフィストは言う。

「確かに貴方たちの部屋へ繋げることは可能ですが、夜中に訪れたりはしませんから」
 そうされると困るでしょう?

 彼が一体何を言外に含めているのか。
 鈍い鈍いと弟から散々馬鹿にされている燐ですら、すぐに気が付いてしまった。知っているのだこの男は、燐と雪男が、兄弟にあるまじき関係を結んでいるということを。
 途端にさ、と血の気が引いた。
 人の道を外れているのだと分かっている。同性で兄弟でその上燐は悪魔でさえあって、こうして身体を繋げることで雪男が人間から遠くなっているのかもしれない、そう考えることもある。それでも手を離せないのはひとえに兄弟の弱さ故。ほかの誰に捨てられようが耐えてみせるが、雪男に見捨てられたら燐は終わる。それはまた雪男の方にも同じことが言え、離れたらすべての意味において二人ともが終焉を迎えてしまうのだ。

「ッ、雪男、は、悪くねぇぞ……!」

 責めるのであれば自分を。罰ならば兄である燐に。
 真っ青な顔のまま絞り出すような声で言えば、「だから誤解しないでいただきたい、と言ったでしょう?」とメフィストは立てた人差し指を軽く左右に振った。

「兄弟仲が良いことは、良いことだ、と」

 たとえそれが本来の兄弟のあり方から大きく外れていたとしても構わない。

「せいぜいが、しっかり互いを縛り付ける鎖になってください、というところですね」

 ああでも、とテーブルに肘を付き、扉の前に立つ燐へ視線を向けたメフィストは笑みを浮かべて言葉を続ける。

「お二人ともまだ若いですから仕方ないでしょうけど、それぞれの勉学、任務に支障がない程度にしておいてくださいね」

 むしろこれは奥村先生に言うべきですか、という言葉を最後まで聞かず、燐は己の住まう寮へと逃げ戻った。
 エロジジィ、というなんとも品のない罵倒を残して扉を閉めたまだ幼き同族を見やり、くつくつと悪魔が笑う。

「……本当に、手の掛かる子ほど可愛い、とはよく言ったものですね」

 燐が、雪男が、と頼んでもいないのに子育て苦労話をしてくれた友人はもういない。けれど、彼の心中もきっと似たようなものだったのではないか、とそう思う。
 悔しいだろう、心残りだろう。愛しそうに話をしていた息子たちの行く末が気がかりで仕方ないだろう。
 しかし彼はもういない。その魂はもうこの世界にはない。あれほど嬉しそうに食べていた息子の手料理を、もう二度と口にすることは叶わないのだ。
 勝手に逝った貴方が悪いのですよ、という悪魔の呟きがぽつり、静寂の満ちる室内に落ちた。





 羞恥に頬を赤く染めたままばたばたと廊下を走り、たどり着いた自室。ドアを開ければちょうど今帰ったばかりだったのだろう、脱いだコートを壁に掛けている雪男がそこにいた。

「お帰り、兄さん。フェレス卿のところでご飯、ッ?」

 弟の言葉を最後まで聞かずに背後からぎゅうと抱きつく。驚いている気配が伝わってくるが知ったことではない。とにかく今は、自分の腕で雪男の体温を感じたかった。
 兄さんどうしたの、と尋ねてくる声にも、少し腕緩めて、と求めてくる声にも首を振る。はぁ、と吐き出されたため息にびくり、と身体を強ばらせれば、もう一度兄さん、と静かに呼びかけられた。

「僕も兄さんを抱きしめたいんだけど」

 その方が淋しくないと思うよ、と提案され、確かにそうかもしれない、と少しだけ力を緩めて雪男の背中から離れる。燐の腕の中でくるりと回った弟は、その長い腕をしっかりと背に回して同じほど強く抱きしめ返してくれた。
 先ほどメフィストに言われた言葉が頭の中でふわりと舞う。
 鎖、という表現はきっと間違ってはいない。燐を抱きしめる雪男の腕も、雪男を抱きしめる燐の腕も、互いを互いに縛り付けるための鎖そのもの。
 おそらく、物質界、虚無界あわせてどこを探してもこれ以上に優しく、心地よい鎖など見つからないに違いなかった。




ブラウザバックでお戻りください。
2011.07.25
















真剣な顔をしてたこ焼きを焼く雪男(でもへたくそ)
pixivより転載。