兄弟がだいぶ病んでます、流血表現あり。ご注意をば。


   合わせ鏡


 壊れたら駄目だ、とそう思っていた。
 ただでさえその存在で多くの人に、とりわけ唯一血を分けた家族である弟に迷惑をかけ続けているのだ。これ以上雪男の心労を増やせば、本当に弟は過労かストレスで死んでしまうに違いない。そう思っていたから、だから必死になって隠していた。
 本当はもう、とっくの昔にいろいろとぼろぼろとばらばらに、壊れてしまっていることを。



 燐が青き炎を継いでいるということがほぼ公になって以降、その看守は強化されたのか、あるいは緩くなったのかいまいち判断がつかない。塾自体は特別授業としてみなとは違うカリキュラムが組まれているが、意外に今まで通り生活はできている。それはむしろ、こういった機会を作るためだったのではないか、と邪推してしまう程度には自由があった。
 雪男から援助を受けている生活費を懐にスーパーへ買い出しへ向かい、帰宅途中に突如仕掛けられた攻撃。すわ悪魔か、と思ったが視界の端にちらちらと揺れる黒いコートの端。投げつけられたものは聖水で、じわじわと燐の肌を焼いていく。

「ぐ、ぅ、……ッ」

 正直、この手の攻撃は初めてではない。目に入ったら三十分は悶え、口に入ってしまえば一時間は吐き気がおさまらないと知っており、さらに肌に触れた液体がどの濃度の聖水なのか分かる程には繰り返しなされてきた行為。
 燐が何もしないのをいいことに、最近彼らの(複数人のグループがいくつかあるのだと思う)行動はエスカレートしてきており、そのうちこのまま殺されでもするのではないかとも思っている。

 それならそれで、別に。

 前髪を掴まれ無理やり上げさせられた顔面へ、(この痺れ具合はおそらく最上濃度の)聖水をこれでもかというほどかけられる。この液体は人間が触れてもどうということのないもので、むりやり瞼と口を開かせる彼らの手もまた聖水で濡れていた。
 彼らの手持ちの聖水が尽きるころにはもはや痛みと吐き気で燐はぐったりとしており、あとはひたすら殴打に耐えるのみ。「無抵抗なのは罰を欲しているからですか」と口元を歪めて尋ねてきた道化悪魔へは、肯定も否定も返せなかった。
 分かっていたつもりだった、虚無界を統べる王がこちらの世界にとって、祓魔師たちにとってどのような存在なのか。青い夜の惨劇を聞いて以降、理解していたつもりだった。
 皆誰かを殺されている。大切な誰かを、青い炎に焼かれている。
 その憎しみを届かぬ魔神へではなく、触れることのできる落胤へ向けるのも自然なこと。
 燐でさえ許せないのだ。優しく温かかった養父を奪った魔神が、憎くて憎くて仕方がない。できることならこの手でばらばらに引き裂いて殺してやりたいほど、憎んでいる。
 そう自覚したときにはもう手遅れ。気が付けば、雪男が戻ってくる前に少しでも進めておこう、と珍しく殊勝な心がけで開いたノートが赤黒く染まっていた。


 壊れたらいけない、そう思っていた。
 だって、燐のために雪男は死ぬ思いをして頑張っている。身体は兄よりも大きく育っているが、それでもあの弱くて泣き虫だった雪男が、懸命に足を踏ん張っているのだ。それなのに、燐がひとり壊れ堕ちるわけにはいかない。
 堪えなければ、そう思う。
 けれど。
 繰り返し見る、養父が絶える場面。死んでくれ、と告げる弟の声。投げつけられる罵声と、憎悪の視線。ほぼ毎日のようにこれでもかというほど聖水を胃に流し込まれているため、ここのところまともに食事はとれていなかった。腹が減ったから先に食べた、と言い訳を繋げて、弟の分だけを用意する日々。
 壊れずにいろというほうが土台無理な話なのだ、と乾いた笑いがこみ上げてくる。



***     ***



 頬を撫でる夜風は僅かな湿気を含んでおり、見上げる空に星も月もない。雨雲でも広がっているのだろう。建物の縁を取る柵に腰を下ろし、両足をふらふらと揺らす。広がる屋上が見えるように内側を向いて座っているため、燐の背後には何もない。
 重心を後ろに掛ければ、ぐらり、と傾く身体。握っていた両手を開き、とん、と柵を押した。
 重力に従い落ちていく。地面に引き寄せられる力、叩きつけられる衝撃、骨が壊れる音、こみ上げてくる錆びた匂い。がは、と血の塊を吐き出して、ゆっくりと目を閉じれば、すぐに闇が覆いかぶさってくる。
 この闇が延々と続けばいいのに。
 そう願うことさえも、燐には許されていないのかもしれない。
 それでも、いやだからこそ。

 悪魔は人間の目を盗んで投身自殺ごっこを繰り返す。



***     ***



 何度目なの、と尋ねられても答える言葉は持たない。自分でも分からないからだ。
 仕事があるから遅くなる、とそういう連絡だった。たぶん日は超えるから先に休んでて、という電話があったはずだったのだが、記憶さえごちゃ混ぜになるほど脳内が壊れているのだろうか。
 もはや言い逃れはできまい、地面に横たわっているところを発見されたのならまだしも、落下するその瞬間を目撃されているのだから。足が滑ってだとかふざけていてだとか、事故だと言い張ることもできない。そもそも地面に叩きつけられたばかりで、まともに呼吸をすることさえできないのだ。
 かひゅ、と喉が嫌な音を立てて鳴る。そんな燐を見下ろして、双子の弟は死にたいの、とただ静かに問いかけてきた。
 痛みを訴える身体を無視して雪男を見上げれば、その顔には何の表情も浮かんでいない。昔教科書か何かで見た能面のようだ、とぼんやりと思う。

「ねぇ兄さん、死にたいの?」

 しゃがみ込んでくる雪男は燐を助けようとするでもなく、再びそう尋ねてきた。言葉を発しようと口を開くが、内臓が傷んでいるのだろうこみ上げてきた血が口内に広がる。げほげほと一頻りそれを吐き出した後、相変わらず嫌な音を立てる喉で呼吸をしながら、「死んだ方がいーんだろうな、とは思う」と答えた。
 だって。
 だって、毎日毎日死ねと言われる。
 死ねと言われて聖水をかけられる、目に入れられる、喉に流し込まれる。殴られて蹴られて撃たれて刺されて、死んでしまえと罵られる。
 だから死んだ方がいいのだろう、そう思う。
 けれど燐は死ねない。
 壊れてはいけないとずっと思っていた、せめて壊れていることを弟には知られずにかくしていようと、そう思っていたのだけれど。
 くつくつと喉を震わせ、土で汚れる腕で目元を覆う。本当に、何をどうやっても上手くいかないことばかりで、もう笑うしかない。

「ごめんなー、雪男。にーちゃん、もうだいぶ前からぶっ壊れてるわ」

 辛いのは雪男の方なのだと分かっている、自分にはこうして悲劇の主人公ぶる資格もないのだと分かっているのだけれど。
 あーもー、ほんと、だめだぁ、と嗤い続ける燐の手首にそっと触れてくる指先。逆らわず腕を避け、覗き込んでくる弟の顔を見上げれば、ここ最近では見た覚えがないほどの笑みを浮かべた雪男と目が合った。
 ずっと共に生きていたから燐には分かる、今雪男は本当に心の底から喜んでいるのだ、と。

「……何でお前、そんな嬉しそうな顔、してんだ?」

 零れた言葉に責める色合いはなく、純粋なる疑問。何か弟を笑顔にするような要素でも転がっていたのだろうか、と首を傾げれば、ゆっくりと雪男の顔が下りてきた。
 避ける理由は、ない。
 ゆき、と名を呼ぶ前に重ねられた唇、しっとりと粘膜をすり合わせ、離れた直後に小さく「血の味がする」と雪男が呟いた。先ほど血を吐いた原因となった怪我は既にもう、燐の身体から消え失せている。
 腕を引き立ち上がらせたあと、雪男は背中にまとわりついた砂を払い落としてくれた。痛いところは、と問われふる、と首を横に振る。
 分かった、と頷いた弟に手を引かれ、寮の部屋へとふたりで戻った。
 軋む階段をのぼりながら、「兄さん」と雪男が口を開く。

「好きなだけ、思う存分、壊れていいからね」

 その方が僕も嬉しい、と振り返った雪男は相変わらずの笑顔。つまりそれだけ苦しめということか、と疑問を口にすれば、違うよと否定が返ってきた。

「だって、壊れてくれた方が、飼いやすいもん」

 ねぇ兄さん、たくさん壊れていいよ、僕がちゃんとぜんぶ、面倒みてあげる、兄さんは何も考えなくていいし、何も心配しなくていいんだよ、魔神とか祓魔師とかそういうのも全部考えなくて、学校にも塾にも行く必要なくて、ただ僕と一緒にいてくれさえすればいいってずっと思ってて、でも兄さんにそういうこと言っても聞いてくれないし、どうやって壊そうかなってずっと思ってて、だからね?

「何も分からなくなるくらい、誰も分からなくなるくらい、僕さえ分からなくなるくらい、ぶっ壊れて?」

 それでも僕は兄さんだけが必要だし、兄さんだけをあいしてるから。

 無邪気すぎて空恐ろしさを覚えるほどの笑みを浮かべ、与えられる口づけを受け止めながらああなるほど、と燐はうっとりと口元を緩めて目を閉じる。



 双子の弟も、ぶち壊れていやがった。




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2011.09.27
















時間軸はちょっとスルーしていただければ。