だから泣いて。


 考えることは苦手だ。
 きっと母親の胎内で育つ間、思考する能力というものをすべて雪男に渡してしまったのだ。だからまともに筋立てて物事を考えることができない。余計なことを考えられず、気にすることもできず、単純であるが故、燐は自分の感情にひどく素直だった。
 だから、だろう。小さなころはその感情がうまく制御できず、ふ、と意識が飛ぶことがあった。怒りやもどかしさ、やりきれなさ、そんな負の感情が頭の中で渦巻いて爆発して、自分でも何がどうなっているのか分からず、気が付けば誰かを傷つけている。
 成長したはずの今でもまだ自分が酷く短気で、考えなしだという自覚はあるが、昔のようにむやみやたらに人を傷つけるようなことだけはすまい、とそう思っていた。



「……っ、うぅっ……っ」

 呻きながらぐずっ、と鼻をすすりあげ、燐は両目から溢れる涙をそのままに手にしていた本を閉じる。ぱたむ、と紙の重なる音を耳にしたと同時に、最後に描かれていたコマを思い出してしまいまたぶわ、と涙が溢れた。
 一度捨てられ人間不信になっていた犬と病気の女の子が出てくる話。正直、ストーリィ自体はありふれており結末もある程度は予想できた。しかしそれでも読み進めてしまったのは、儚く笑う紙面の中の少女に幸せになってもらいたかったから。
 出会えて良かったよ、と微笑んで逝った彼女は、それで幸せだったのだろうか。

「うー……っ」

 そんなことを考えていたところで、ばさり、と顔面に向けて何かが投げつけられた。同時にはぁ、と大きく吐き出されるため息が耳に届く。含まれている感情は九割がた呆れだろう。
 顔が汚い、と呟かれ、かちんときたがタオルは有難く活用させてもらうことにする。涙やら鼻水やら、とりあえず水っぽいものを拭っておいて、汚れたタオルに視線を落とし、「……返す?」と首を傾げてみた。

「洗え」

 ですよねー、と笑ってそれを床に放り投げる。覚えていたらほかの汚れ物と一緒に洗濯機まで運んでおこう、と思っていたところでもう一度大きなため息が聞こえた。何か言いたいことでもあるのか、と雪男へ視線を向ければ、弟はこちらを見ることなく口を開く。

「よくそんなに泣けるね」

 たかが漫画で、と続くのか、恥ずかしげもなく、と続くのか。どちらにしろあまりいい意味で言われているわけではないことは分かる。

「仕方ねぇだろ、出てくるもんは出てくるんだよ」

 お前この話読んでねぇのか、女の子超かわいそうなんだぞ、でも頑張ってんだぞ、と尻尾を振って力説すれば、「読んだし面白かったよ」と返ってきた。

「そもそもそれ、僕の漫画」

 びしっと指摘され、燐はう、と言葉を詰まらせた。この部屋にある本の大部分が雪男のもので、持ち主が目を通していないはずがなかった。

「良い話だとは思ったけど、そこまで泣くかな」

 机の上に設置されたパソコンモニタを眺め、カチとマウスを操作しながら雪男はそう言う。その言葉は先ほどのものとは違い、単純に不思議がっているだけのように聞こえた。

「仕方ねぇじゃん、出てくんだから」

 燐はもう一度同じ言葉を繰り返す。泣こうと思って泣いているわけではなく、そんな器用さは備わっていない。単純に溢れてくるだけのことで、きっとそれは他のひとたちも、もちろん雪男も同じだとそう思っている。ただそれを抑え込むか、抑え込まないか、の違いがあるだけ。

 こういった雑誌を読んで雪男が泣いているところを見たことがない。いやそもそも、と少し腫れぼったい目を両手で覆い、ベッドに寝転がったまま燐は思う。
 雪男は泣くこと自体、少なくなった。幼い頃に比べたらもちろん、誰だってその涙腺は鍛えられているだろう。しかし燐の知っている双子の弟はそれはもう、本当によく泣く子供だったのだ。
 忘れ物をしたと言って泣き、大事な物を失くしたと言って泣き、転んでは泣き、苛められては泣き、そして夜が怖いと言って泣いた。(今思えばそれは、夜闇を好むひとならざるものに怯えていたのかもしれない。)

「……ほんと、お前、泣かなくなったなぁ」

 腹の上によじ登ってきたクロに人差し指を差し出し、すり寄る猫又の額や顎の下をくすぐってやりながら考えていたことが口から零れた。視界の端でぴくり、と雪男の肩が跳ねたような気がする。そうして吐き出される、前二回よりも長く、深いため息。
 なんだよ、と尋ねれば、雪男はモニタから視線を外すと、椅子に腰かけたままではあったが身体ごとこちらの方を向いた。

「兄さんは僕をいくつだと思ってるの?」

 確かに自身が泣いてばかりいた子供であったことは自覚があるらしい。しかしそのような年はとうに過ぎ、過去の話だと言いたいようだ。燐だって己の弟が、そして自分自身が幼いと言われる年ごろではないことを理解している。しかし成長したからといって泣いてはいけないというわけでもないと思うのだ。
 別にそーじゃねぇけど、と唇を尖らせると、何が面白かったのか、ごろごろと喉を鳴らしたクロに頭突きをかまされた。噛むぞこのやろ、と口を開けて威嚇すれば、かみかえすぞ、とクロもまた牙を見せる。けらけらと笑って小さな体を撫でまわしながら、ただ少し怖いのかもしれない、とそう思った。
 兄として頼られなくなり淋しいという気持ちももちろんある。いつの間にか頼る必要すらないほど一人で進んでおり、悔しいという気持ちもある。しかしそれら以上に「雪男が泣いている」という状況は燐にとって大きな出来事だった。

「……可愛くねー」

 ほろり、零れた本音に雪男の眉が跳ね上がった。怒らせてしまったかもしれない。雪男の醸し出す空気にどうにも剣呑な色が混ざり始めたことに気づきながらも、「泣いてる雪男は可愛かったのになー」と続けてみる。ばさ、と投げつけられたものは漫画雑誌だった。『あぶない!』と怒っているクロの姿が可愛らしい。

「馬鹿なこと言ってないで、予習の一つでもしたら?」

 そうやってだらだらしてるから小テスト一つろくな点数が取れないんだよ、と説教モードに入った弟の言葉を聞き流しながらやはり思うのだ、素直に泣けばいいのに、と。
 雪男が泣けば、燐はどうしたって弟を見ざるを得ない。
 だって雪男が、ただ一人の弟が泣いているのだ。
 今まで頭の中を占めていた怒りだのなんだの、そんな感情はどうでも良くなるに決まっている。雪男を助けなければ、その涙を拭わなければ。それだけが燐のすべてになる。
 幼い頃、黒くどろりとした感情の渦に呑み込まれそうになった燐を引き上げてくれた腕はもうない。厳しく叱りながらも優しく受け止め続けてくれていた養父はもういない。だとすればきっと。

「兄さん、聞いてるの!?」

 苛立った雪男の怒声を「聞いてる聞いてる」と手を振って交わし、クロを腹に乗せたまま燐は目を閉じる。
 雪男はもう、昔のように泣くことはないのだろうか。
 泣いて、兄さん、と呼んでくれることはないのだろうか。
 もしこれから先、もう二度とそんな機会がないのだとすれば、燐はどうやって「こちら側」に戻ってくればいいというのだろう。

「……そりゃ困る、よなぁ」

 雪男が聞けばきっと眉を顰めるだろう、人を頼りにするのはやめろ、と。闇に呑み込まれぬよう、自分自身強くあれ、心を鍛え感情を制御しろ、と。
 そんなことは百も承知だ。
 できるだけそんな事態に陥らぬよう、強くなるために祓魔師になるという道を選んだのだ。そもそも弟を頼りにする兄というのも情けなさすぎる。
 けれど。
 いやだからこそ。
 雪男には雪男のままでいてもらいたい。無理をして気を張って、感情も涙も抑え込むようような、そんな雪男は見ていたくない。

 泣けばいい、そう思う。
 泣いて、兄さん、と手を伸ばして欲しい。
 その結果救われるのは雪男ではない、燐だ。
 そうすることで、燐は燐のままであれる。
 燐はまだ藤本獅郎の息子でいたい。


 奥村雪男の双子の兄で、いたいのだ。




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2011.05.24
















移動にあたり少し弄りました。
燐の性格、言葉遣いがまだつかめません。
pixivより転載。