じゃれる


 奥村燐には尾がある。
 生まれついてのものではない。彼の中の悪魔の血が目覚めると同時に起こった肉体的変化のうちの一つである。
 悪魔の尾。
 人間のそれより尖った耳と鋭い犬歯はどうにか誤魔化せるが、尾だけは目撃されたら面倒くさいことになるため、普段は胴に巻きつけた上、シャツを羽織っているという。しかしもともと何かに縛られることを嫌う彼は、ほかの誰に遠慮することもない自室ではその尾を隠すことなくはたはたと揺らしている。

 同級生からもらった髪留めで前髪を上げ、額を晒して睨みつける先は己の弟に出された課題。何とか空欄を埋めようと必死になっている彼が小さく唸るたび、椅子から零れ落ちた尾がゆらり。隣の机に向かい、自分の作業に取り組みながらも燐の様子をうかがっていた雪男の視界の端で、ぱたむぱたむ、と黒い尾が揺れていた。
 その小さな動き、おそらく双子の兄にとっては無意識であるそれがどうにも気になる、と思っていたのは雪男一人ではなかったようだ。たたた、と小さく床を蹴る音に続いて「にゃぁっ!」という鳴き声。同時に揺れ動く黒い尾へ飛びついた、同じほど黒い獣。

「うおっ!? ちょっ、なん……っ!」

 小さな力とはいえ突然加えられた刺激に、燐は声を上げてのけぞる。驚いた拍子に黒い尾がぴん、と跳ねたものだから、それを追いかけてクロがまた飛びついた。にゃあ、という音はおそらく雪男と燐とで聞こえる意味が違ってきている。

『りん! あそんで! あそぼう!』
「わっ、クロ! 待て、まだ遊べねぇって!」

 ぱたぱたと床を叩く尾の先にじゃれつくクロを見下ろし、燐は慌てたように自分の尻尾を保護した。

『あそべない?』
「そ。これ終わらせねぇとうるせぇのがいんの」
「……兄さん?」
「ほら。クロもこれ以上雪男のでこに皺、増やしたくねぇだろ?」
『ゆきお、こわい!』
「なー。怖ぇ面だよなぁ」

 雪男にはクロの声は聞こえない。しかしなんとなく交わしている内容が分かる。怖い顔をしているのは一体誰のせいだと思っているのだ、とますます眉間に皺を寄せると、「ははっ、つまようじ挟めそうだな、お前のでこ!」と笑われた。思わず手が出た。
 いてぇ、と後頭部を摩りながらも再び意識を課題に向けた燐にほ、としながら、つまらなさそうなクロへ視線を向けて「もう少し待って」とだけ謝っておく。声は聞こえぬといえど、この猫又は養父の形見のような存在。可愛くないはずがない。
 床にちょこんと座ったまま、二つに分かれた尾をぱたぱたと揺らし、時折燐の尾にじゃれついて遊んでいる。燐の方も、とにかく課題を先に終わらせてしまうことを優先させるらしく、「爪は立てんなよ」とだけ言ってクロの好きなようにさせていた。
 うー、だとか、あー、だとか、意味のない声を零しながら、自分の方こそ眉間に皺を寄せてノートを睨んでいる燐から意識を反らさぬまま、揺れ戯れる尾(三本)を目で楽しむ。燐の尾が無意識下で動いているのと同じように、クロの尾もまた同じようにぱたむぱたむと揺れているのを彼自身気が付いているのだろうか。
 その動きがなんだか妙に楽しそうで。

 日々の激務に疲れていたのだろうか。
 昨夜の就寝がいつもより若干遅れた影響が今出てきているのか。
 どこかぼんやりした脳の片隅にふと、沸き起こった感情。
 楽しいのだろうか、と。
 ゆらゆらと動く黒く長い尾にじゃれつくという行為がそんなに楽しいのだろうか、と。
 思ったところで不意に、目の前を横切る黒い尾。クロの攻撃から逃げてきた燐の尾。手が届く、と考える間もなかった。気が付いた時には腕が伸び、はしっ、と双子の兄の尾を握りこんでいる。
 同時に「ふぁっ!」と耳を疑うような声音の悲鳴が上がった。

 声を零した方も耳にした方も互いが驚き、目を見開いたまま顔を見合わせる。
 しかし僅かの時間を経た次なる反応はそれぞれ真逆のものだった。
 顔を真っ赤にして両手で口を押えた燐と、尾から手を離さぬままにやりと口元を歪める雪男。対照的な顔をする双子の兄弟を見上げ、クロはきょとんと首を傾げている。
 きゅむ、と尾を握りこんだ拳に力を入れて付け根の方へ滑らせると、赤い顔をしたまま燐がぶんぶんと首を横に振った。雪男の手から逃れようと尻尾が動く気配を見せるが、こんな面白いもの逃がすはずがない。

「ッ! ――ッ!!」

 先端のふわりとした毛玉を指で弄りながら、艶やかな黒い尾をもう片方の手でゆるゆると撫でる。悪魔は尾への刺激に弱いらしい。弱点になるという話は知っていたが、まさかこういう意味でも敏感だとは思わぬ収穫だ。

「兄さん、苦しくない? 手、離せば?」

 くつくつと笑いながら言えば、燐は若干潤みを帯びた目で雪男を睨んで首を横に振る。小さく音を立てて椅子から腰を上げ、尾を離さぬまま兄を見下ろすように立った。上体をかがめて尖った耳元に口を寄せると、なんで、と囁くように理由を問う。
 当然口を押える手を離そうともせず、答えようともしない燐を見ながら、「正直に言ったら尻尾、返してあげるよ」と唆してみた。こちらを疑うような視線を向けられ、にっこりと笑って「ほんと」と返す。
 しばらく迷って、それでも弟を信じてみる気になったのか、あるいは現状を打開するほかの方法を見つけられなかったのか。おずおずと両手を離した燐は、普段の彼からは想像もつかないほど小さく弱々しい声音で、「こ、こえ……」と言葉を紡いだ。

「声がどうかした?」
「ッ、へん、な声、でる、からっ」

 だから口を塞いだのだ、と続くのだろうその発言。可愛らしい顔と今の言葉だけで、今日はもうこれ以上苛めるのはよしておこうか。一瞬だけそう思ったが、「そっか」と尾から手を離したところで、燐はあからさまにほっと安堵の表情を浮かべた。

(その顔は可愛くない。)

 いや、可愛くないわけではない、むしろ本当に同じ年の男なのかと思えるほど雪男にとって兄は可愛く見える存在なのだ。だからむしろ「可愛くない」というよりは「面白くない」。
 その思いを正直に表情に出して、「変な声って」と雪男は口を開く。

「こんな声?」
「やぁっ、あ……ッ!」

 一度解放した尾をすぐにまた握り込んで軽く引けば、再び上がる甘い声。鼓膜を震わせるそれに、ぞくぞくと背筋が痺れ肌がざわめいた。慌てて口を押えようとした燐の両手を器用に片方の手だけで抑え込めば、絶望に染まった目を向けられる。それににっこりと笑みを返してするり、と尾に這わせた指を尾てい骨の方まで滑らせた。

「んっ、ッ!」

 眉を寄せ、燐は今にも泣きそうな顔をして唇を噛む。手を使えないのならばそうするしかないのは分かるが、彼の歯は純潔の人間より鋭いものも混ざっており、すぐにじんわりと血が滲んでくる様子が見て取れた。

「……駄目だよ、兄さん」

 燐の腕を解放し、空いた右手を伸ばしてその柔らかな頬を撫でる。血が、と言葉を転がした舌を伸ばして、ぺろり、と唇を舐めた。驚異的な回復力を誇る兄の身体に傷は残らない。それはつまり、雪男が何をどうしようとも、燐の身体に何かを残すことはできないということ。けれど。

(身体がダメなら、)

 肉体に傷が残せないというのなら、その魂に。
 決して消えることのない、忘れることのできない、傷を。

 ぺろぺろと、まるで子犬のように燐の唇を舐めていれば、震える唇がわずかに開き、音ぬならぬ声で小さく「ゆきお」と名を呼ばれた。

「変な声じゃ、ないよ、全然」

 ぺろり、ともう一度燐の唇を舐め、額をすり合わせて静かに囁く。

「だからもっと、聞かせて」




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2011.05.24
















お約束ネタで。
pixivより転載。