この吐息のために


 頭の中が真っ白に染まる、とはきっとこういう状態のことをいうのだろう。なんつった今、と聞き返す自分の声すら、布一枚隔てた向こう側で響いているかのようだ。喉の奥を震わせて笑うは、虚無界での兄にあたるのだと自称する悪魔。

「ええですから、――――――――」

 続けられた言葉の意味が上手く、理解できなかった。





 学園の理事長であり、祓魔の塾長でもある道化悪魔から電話があったのは夕方、ちょうど塾の授業がすべて終わったときだった。

『少し奥村くんをお借りしますよ』

 帰宅が遅くなるだろうが心配するな、と雪男へ連絡を寄越す程度にはあの男も気が回るらしい。それならば雪男の方も遅くなっても問題ないだろう。やろうと思っていた雑事を塾の講師室で終わらせ、そうして帰宅したのが午後十時を回った頃だった。
 寮の部屋には明かりがついておらず、まだ戻ってきていないか、あるいはすでに眠っているか。手探りで室内灯のスイッチを入れたところで「にゃあ!」と足下から声がした。

「あれ、クロ、兄さんと一緒じゃなかったの?」

 鞄を置きコートをハンガーにつるしてベッドへと視線を向ける。部屋に二つあるベッドはどちらも平らで、燐が戻ってきている様子は伺えない。雪男の問いかけに猫又は「にゃ」と鳴いて首を横に振った。人間の言葉を理解する賢い猫又と意志の疎通を図るには、はいいいえで答えられる質問をすれば良いと気がついたのは最近のことだ。
 ご飯は食べた? という質問にはにゃ、と首を縦に振る肯定が返ってくる。一度寮に戻りクロの食事を用意して出かけたのか、あるいは向こうで食事をとってからクロだけ戻ってきたのか。

「兄さんはまだ帰ってきてないよね」

 その問いかけにもクロは「にゃ」と首を縦に振って答えた。
 遅くなるとは言っていたが、それにも限度があるだろう。明日も普通に高校の授業はあるのだ、これ以上帰宅が遅くなれば明日の朝起きられなくなってしまう。
 せめて招待主にいつまでかかるのか尋ねておこうと携帯電話を取り出したが、発信ボタンを押す直前で思いとどまった。心配をするな、とわざわざ念を押されたにも関わらず電話をしてしまえば、きっとあの理事長に盛大にからかわれるだろう。

「もうちょっと待ってみようか」

 ため息をついて電話を机の上に置き、膝のあたりにまとわりついていた猫又を抱き上げた。
 言葉は分かりあえずとも、人間が好きだという猫又は人懐っこく雪男にもよく身体をすり寄せてくれる。もちろん一番懐いているのは燐に、ではあるが、それでもぐりぐりと押しつけられる額を指でかいてやればクロは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
 四六時中行動を共にしているといっても過言ではない彼らが、こうして別々になっていること自体珍しい。一体あの道化悪魔は兄にどんな用事があるというのだろうか。
 パソコンを立ち上げようか僅かに迷い、止めておこうと思い直す。ある程度やりたいこと、やらなければならないことは終えているため、今日はもう寝るまで好きに遊ぼう、と決めた。
 風呂へ向かって汗を流し、睡魔がやってくるまでベッドで漫画雑誌を読みふける。きっとこの姿を燐が見れば、「珍しい」と笑うだろう。誌面に視線を落としながら、それでもちらちらと気にしてしまうのは時計と携帯電話。時刻はそろそろ日付が変わる頃となる。燐は未だに帰ってこない。

「いくらなんでも遅すぎる」

 実は、十一時を過ぎたあたりから既に漫画を読んで楽しむだけの精神的余裕はなくなっており、目は紙の上を滑るばかりだった。いくら理事長直々の呼び出しとはいえ、ここまで時間がかかるならもう一言二言くれてもいいだろう。小さな子供ではないのだから、と他人は呆れるかもしれないが、雪男にとって双子の兄はそれほどまで気に掛ける存在だとうことだ。
 とりあえず理事長に電話をしてみよう、と身体を起こしたところで、雪男のすぐそばで丸まっていた黒猫が顔を上げた。ぴくりと耳と鼻を動かし「にゃあ!」とベッドから飛び下りる。

「クロ?」

 どうしたの、とその小さな身体を視線で追いかければ、彼は部屋の入口の前にちょこんと腰を下ろしもう一度鳴き声を上げた。ああもしかして、と雪男もまた扉の方へ目を向ける。燐が戻ってきたのかもしれない。
 しかし待てどもそれが開く様子はなく、痺れが切れたのか、駆け寄ったクロが扉をたし、と小さな手で叩いた。たしっ、たしっ、かりかりかり、「にゃあ?」

「兄さん?」

 動物の嗅覚と聴覚だ、おそらく燐が近くにいることは確実だろう。思いながらドアへ向かって兄を呼ぶ。ぺたり、と床に足の裏を押し付ける音が嫌に大きく室内に響いた。ぺたり、ぺたり、と何かに突き動かされるように出入り口へ歩み寄り、手を伸ばす。

「ッ、」

 扉を開き小さく息を呑んだ後、ゆっくりと吐き出した、「なんだ、やっぱり帰って来てたんじゃない。」
 明りもなく暗い廊下に立つ燐の姿を前に、雪男は安堵した声でそう口にする。部屋に入ろうともせず佇む兄の様子がおかしいのは一目瞭然で、だからこそ敢えてなんでもないような軽い声音で雪男は尋ねた、何かあったのか、と。
 周囲が呆れるほど前向きでプラス思考で、大雑把で単純な燐が、雪男にそれと分かるほど覇気のない表情を見せるなどよほどのことがあったのだろう。聞くのが怖い、聞けば何かが崩れてしまう気がする。
 雪男たち双子は、些細な横風でばったりと倒れ転がり落ちてしまうような、そんな危うい場所に辛うじて足をおろし生活をしているのだ。
 聞きたくない、けれど知らないままにすることもできない。兄さん、と呼んでその腕を掴もうと手を伸ばす。

「……兄さん?」

 す、と弟の手から逃れるように足を引いた燐に、ますます嫌な予感が膨れ上がった。あの道化悪魔に一体何を吹き込まれたのか、あるいは何か見せられでもしたのか。
 もう一度兄に触れようと手を伸ばしかけたところで、「なあ、」とようやく燐が俯いたまま口を開いた。

「メフィスト、って、さ……」

 やはりあの悪魔が元凶か、と舌打ちが零れそうになるのを堪え、「うん、フェレス卿がどうかした?」と努めて柔らかな声を紡ぐ。
 あ、だとか、う、だとかよく聞き取れない言葉を舌の上で転がした後、「あの、さ、」と兄は更に顔を下に向け、決して雪男の方を見ぬままその問いを口にした。

「何百年も生きてる、って本当、か……?」

 自慢をするわけではないが、雪男はどうやらひとに比べ若干頭の回転が速いらしい。暗記も得意だし、条件さえ提示してもらえればそこから応用を利かせることもできる。少ない情報をかき集めて推論を組み立てることももちろんできるわけで、そんな回転の速い頭脳が今はかなり恨めしかった。
 分かってしまったからだ、燐のそのたった一言で、彼が直面している(あるいは直面しかけている)事実が何であるか、が。それと気づかなければ雪男はきょとんとした顔で「そうだけどそれがどうかした?」と口にすることができただろう。
 燐が言ったことは事実だ。昔養父に尋ねたところ、彼が候補生時代から既にあの出で立ちで名誉騎士の座にいたという。もっと以前、本当に数百年前からそこにいるということも否定はできなかった。
 それはあの男が虚無界の存在であるから。
 根本的に時間軸が異なっているのか、虚無界に属するものたちは物質界を構成する枠に捕らわれることがない。
 それが燐にとって何を意味するのか。

「俺が、もう、」

 震えた声で紡がれた問いかけ。

 年取らねぇ、って、本当か……?

 いつかこういう日が来るだろうと、雪男が心の中でずっと怯えていたことを、燐はおそらく知らない。
 燐がまだ何も知らなかった子供の頃、兄に隠して祓魔師の道を歩み始めた。遅い帰宅だとか理由のない怪我だとか、燐を誤魔化すための嘘がどんどんと上手くなっていく自分がすごく嫌だった。それでも兄を守りたい、とただその想いだけで嘘を積み重ねてきたというのに、肝心なところで尤もらしい嘘をつくことさえできないなんて。

「……本当、なんだな」

 答えない雪男から肯定を導き出したというより、燐は既にそうであると確信していたのだと思う。それならば尚更せめて、「すべての悪魔がそうであるとは限らない」くらいの戯言は口にすれば良かった、そう思うけれど雪男の舌は動かない。そうであると雪男自身が微塵も思っていないからだ。
 尖った耳と鋭い犬歯、人間にはあり得ない尾。
 悪魔の身体と悪魔の血を持つ双子の兄。
 彼はあの刀を抜いたその瞬間、物質界の時間の枠から飛び出てしまっている。

「皆、かっけぇ大人になって、年取って老けていくのに、俺はこのまんま、か」

 伸びない背、変わらない容姿、記憶と経験だけが体内に残り、見た目は何一つ変化しない。それはその姿が物質界においてただの「被り物」でしかないからかもしれない。

「好きなひとと結婚とかしたりして、子供とかできたりして、温かい家族とか作ったりして、そのうち孫とか生まれたりして、そんで良い人生だったっつって笑って死んでいくのに」
 俺はこのままか。

 祓魔師という職に就いている以上、そんな絵に描いたような道を歩めるものは少ないだろうけれど、今燐が親しくしているもののなかにはきっと、そんな幸せを掴むものも出てくるだろう。そうでなくとも、時間を重ね、生の終焉を迎えることは人として逃れられぬもの。

「みん、な、俺を置いて、」

 変わらない、変わり様のない燐を残して、終わりに足を踏み入れる。
 兄さん、と呼びかけようとした言葉は、もはや音にならなかった。
 悪魔だと知っても良くしてくれた優しいひとたちが、時を重ねて年齢を重ねて成長し、老いて行く姿を変わらぬまま眺め続け、ひとり、またひとりとこの世を去っていく事実を受け止めなければならない。燐が生きるなかで新しい出会いはきっとたくさんあるだろうけれど、それだって相手が物質界の存在であるかぎり必ず時間という壁に関係を遮断される。

「ッ、その、うちっ、誰も、いなくな、って、俺を知ってる、やつとか、ぜんぜん、みんな、死んじまって、でもそれでもっ」

 悪魔にはその先の道が続いている。
 雪男、と震える声が弟の名前を呼んだ。

「お前も、俺を置いて、死んじまうのかな」

 誰よりも大切で、誰よりも愛おしい双子の弟、血を分けた彼が燐と同じ悪魔の道を歩いていないことは心の底から喜ばしいことであり、そうでなければならないと思ってはいるけれど、それでも。


「お前まで、いなくなったら、俺、もぉっ、」

 どーやって生きて行けばいいのか、分かんねぇよ……っ。


 ひっ、と喉をしゃくりあげる音が鼓膜を震わせる。その嗚咽が自分のものなのか、兄のものなのか雪男にはもう、分からなかった。
 そんなの嫌だ、と泣く燐を震える腕で抱きしめる。雪男だってそんなのは嫌だ、どこまでも優しくて柔らかいこのひとが、愛したひとたちの死を前に、ひとり取り残される現実に傷つかないはずがないと分かっているから。

「っ、そ、んなん、やだっ、やだ、よ、ゆきおぉっ」

 置いて行かれたくない、取り残されたくない、ひとりは嫌だ。
 不老不死を求める人間の欲深さを古今東西多くの物語で見かけるが、終わりのない生に一体彼らは何を夢見ているというのだろうか。無限にあるということは転じれば、要するに何もないということと同じではないか。
 時間の流れから取り残された優しき悪魔は、愛したひとたちの死を嘆き悲しみ、涙しながらただ動けない己を呪い続ける。
 どうして世界はこんなにも、兄に対して優しくないのだろう。
 兄さん、にいさん、と雪男もまた泣きながら双子の兄を抱きしめ、肩口に顔を埋める。
 魔神の青い炎をその身体の内に飼っているため、燐の生は非常に不安定だ。騎士團上層部は隙あらばこの命を奪おうと狙っている。そんな刃から兄を守るために祓魔師という道を選び、血反吐を吐くほどの努力を重ねてきた。
 それはすべて、燐の生きる道を少しでも長く、平坦にするためのものだったのだけれど。
 零れた涙で濡れた眼鏡を取り、兄さん、と燐を呼んでその小さな頭を抱き込んだ。はふ、と息を吐き出し、鼻をすすって「僕が死ぬときは、」と雪男は言葉を紡ぐ。

「兄さんも殺してあげる」

 今まで積み上げてきたものがすべて無駄になりかねない、そんな発言だと頭の片隅で理解はしている。今現在、足掻いてもがいて必死になっていることが、全く無意味なことになってしまう。
 告げられた言葉に驚き、がばり、と燐が顔を上げた。真っ青な瞳から溢れた涙で濡れた頬をそっと両手で包み込む。

「もし僕が兄さんを殺す前に死んじゃったら、」
 兄さんも一緒に死んで。

 きっぱりと言い切られたその要請は、ひどく不道徳的で、肉親に対し口にするものではない。けれど。

「僕は絶対に兄さんをひとりになんかしない……!」

 人間という枠の中から外側にいるものへ向かって、あるいはむしろ終わりと始まりを持つ自由な場所から無限なる生という檻の中にいる悪魔へ向かって、精いっぱいに伸ばされた腕。

「――――――ッ」

 息を呑み、ひぐ、と喉を鳴らして、燐はその腕に取り縋る。それが奥へ引っ込められないうちに、まだ燐の手が届くうちに、逃してはならないと必死に追い縋る。
 この手がなければ、きっともう燐は生きていけない。

「ゆきっ、ゆきお、ゆきお……っ」

 ぼろぼろと泣きながら双子の弟の名前を繰り返す燐の背を、ぽんぽんと優しく撫でながら「だって、兄さん、」と雪男もまた泣きながら言葉を紡いだ。

「僕たち、双子じゃないか」

 顔も名も知らぬ母の胎内に同時に誕生し、同時にこの世へ生まれ出で、生きてきたのだ。

「今までずっと一緒に生きてきて、これからも一緒に生きるんだ」
 だったら一緒に逝って何が悪いの。

 分かっているのだ、それが世間一般からすれば外れた道であるということなど。お互いがそれぞれ理解しているのだ。
 それでも、もう、世界から見放された双子には、縋る場所が他に見当たらない。
 抱き合ったまま散々泣いて、もうこれ以上泣けないと思うくらいに泣いて、そのまま一緒の布団に入って眠った。寮のベッドはふたりで眠るには狭くてろくに寝返りも打てなかったけれど、全身で相手の体温を感じることができる空間はひどく心地よくて、安心できて、許されるならもうずっとこの中で息をしていたいと、ふたりともがそう思っていた。


 この温もりと、この吐息のために、生きて、死ぬんだ。




ブラウザバックでお戻りください。
2012.06.05
















あたなのいない世界なんて。

Pixivより。