止メル者、病メル世界ヘ 信じられなかった。 信じたくなかった。 まさか雪男が、と。 あんなにもしっかりとしていた弟がまさか、と。 そう思っていたけれど、実際にその光景を突きつけられもはや否定することもできない。なんで、どうして、と力なく呟いた声に対して返ってきたものは明らかな嘲笑。くつり、と口の端を歪め、魔神の落胤である片割れは「悪魔らしく」残酷に嗤う。兄さんには分からないよ、と。 魔神の炎を身に宿していながらも、燐の視線は常に前を向いていた。どこまでも真っ直ぐで、力強いその瞳に映る世界に果たして双子の弟としての雪男はどこまで入り込めているのだろう、そう思ったことがそもそものきっかけ、だったのかもしれない。 「なあ、返せよ、俺の弟、返せよっ!」 長く尖った耳に背後で揺れる尾。悪魔としての姿を持つ雪男はもはや燐の弟ですらないらしい。くつり、と腹の底からこみ上げてくる笑いが止まらなかった。 「兄さんはいつもそうだよね」 悪魔となった弟の口から紡がれた言葉の意味が一瞬取れず、どういうことだ、と眉を顰める。 「だって全然僕を見てくれない」 そんなことはない、と否定したかった。たとえどうなろうと彼は燐の大切なたったひとりの双子の弟だ。ずっと家族であり続けたし、これからもそうだと無条件に信じ込んでいた。雪男だけは何があっても自分のそばにいてくれるだろう、と。互いにたったひとりの兄弟なのだから、と。 雪男なら大丈夫だと、大した根拠もなく盲信していた。 「で、も、だってお前……っ」 確かに、兄弟であることに安心して少しないがしろにしていた部分はあったかもしれない。けれどそれにしても、と言う燐へ、意外なことに弟はうん、と素直に頷きを寄越す。 「もちろん、兄さんが悪いわけじゃ全然ないよ」 こうなったのはすべて雪男の責任で、結局は祓魔師として至らない精神だったというだけのこと。 「僕もね、もうちょっと素直に頼れてたら良かったのかな、って今なら思う」 けれど、くだらないプライドと未熟な心がそうさせてくれなかった。雪男の身体にも魔神の血が流れていたため、一般的に言う「悪魔落ち」とは少しずれた道を辿っているかもしれないが、それでもこの身体が、精神が、人間を取り戻すことはもはやないだろう。一度堕落する快楽を知ってしまえば、胃をすり減らすような昔の日々に戻ろうとは欠片も思えなかった。ごめんね、と口にしたこの謝罪がおそらく雪男の人間としての最後の言葉であるような気がする。 燐のせいで雪男がいろいろな苦労をしていたことを知っているつもりだった。悪魔として目覚めるまでは本当に何も知らなかったけれど、祓魔師としての訓練を始め、力をつけて徐々に弟に近づくにつれ、理解できつつあると感じていた。しかしそれらすべて燐の思いこみだったようだ。 何も分かってなかったんだな、と力なく呟けば、だって何も言わなかったしね、と雪男は笑う。先ほどの彼自身が言った通り、言わない雪男にも問題はあったのだろう。けれど。 「でも……っ、俺は、気づかなきゃ、いけなかった……ッ」 なぜなら、燐は雪男の双子の兄なのだから。兄として、兄弟として、家族として。同じ空間でともに生活していたにも関わらず、その悲鳴に気づくことすらできなかった。 ぎり、と唇を噛みしめる燐を前に、「別に兄さんを責めたり悲しませたりするために来たんじゃないんだけどな」と雪男は笑う。 「僕はね、これはこれで良かったと思ってるんだよ。人間である僕を殺したとき、すごくすっきりしたから」 にっこりと浮かべられた笑みとは釣りあわないような言葉。ころした、と乾いた口の中で同じ言葉を転がしてみる。双子の弟はうん、と変わらず楽しそうに、幸せそうに笑ったまま頷いた。 「死んでるよ、とっくに。兄さんの双子の弟だった奥村雪男は、もう、」 どこにもいない。 何か言葉を紡ぎたかった、そんなはずないと言い返したかった、嘘だと叫びたかった、けれど燐の喉はひゅ、と嫌な音を立てるだけでろくに働こうともしない。見開いた目で悪魔を見やれば、震える唇にそっと親指をかけられた。 覗き込んでひっそりと頬を緩めるその表情は、燐のよく知っているもの。雪男が死んだなんて嘘だ、だって今ここにいるではないか。燐が愛してやまない双子の弟は、今ここにいるではないか ゆきお、と掠れた声で名を呼べば、「ねぇ兄さん」と弟は更に笑みを深めた。 「兄さんも、おいで?」 そして紡がれる悪魔の誘惑。人間であろうとした悪魔へ悪魔になり果てた人間が囁く、どこまでも甘い言葉。 人間として生きていた奥村雪男は既に死んだ。殺したのは今弟の身体支配している悪魔としての雪男と、そしておそらくは。 「こっちはいいよ? 面倒くさいことに悩まなくていいし、ゴミを見るような目で見られることもない」 ねぇ兄さん、とひとであったときにはほとんど聞くことのなかったような、甘えた声で悪魔は言う。 「僕、兄さんと一緒にいたいな」 ……ああもう、本当に、しょうがねぇ弟だなぁ、お前、昔っから泣き虫で、りんちゃんりんちゃんって俺のあとばっかくっついて歩いてさぁ、俺がいねぇとすげぇぐずるし、飯だってまともに食わないし、こんなんで将来大丈夫かなぁとかいろいろ心配してたけどさぁ、祓魔師とかになって講師とかやっちゃって、頑張ってんなぁって、もう兄ちゃん要らねぇのかなぁとかちょっと寂しかったんだけど、なんだ、やっぱ俺がついててやんねぇと……………… ……………… ………… …… 「ああ、起きた? 気分はどう?」 ぐん、と両腕を上に上げて背筋を伸ばした少年は、暢気な欠伸を一つ零す。 「……悪くはねぇが、良くもねぇな」 何とも素っ気ない答えに、「あっそ、それは良かった」と弟もまたあっさりとした言葉を返した。そんなことよりも、と今はほとんど飾りと化している眼鏡のブリッジを押し上げて口を開く。 「折角起きたんだし、手始めに騎士團でも潰しとく?」 あの組織が魔神の落胤をどのように使おうとしていたのか、何となく察している。実際にはそうされる前に逃げ出してしまっているが、目障りだということに違いはない。 弟の提案に「それもいいけど、」と兄は両腕を伸ばした。 「……なに」 「起こして?」 未だ腰を下ろしたままであったため、腕を引いて欲しいと求めれば雪男は「甘えるなよ」と呆れながらも手を伸ばす。引き上げられた弾みでぽふ、とその胸へ身体を預け、ついでとばかりに顔を傾けてキスを一つ。 「なぁ、俺、良いこと思いついたんだけど」 唇が触れるほどの距離でひっそりと囁き笑うその様子はひどく婀娜めいており、淫魔の血でも混ざっているのではと勘ぐりたくなる。ちょこんと覗く牙をぺろりと舐め、「良いことって?」と尋ねれば、燐は楽しそうにくすくすと笑って言った。 「親父、殺しに行こうぜ」 虚無界を総べる、悪魔の王たる存在、魔神。双子が身体に飼う青い炎の元凶であり、血と力の繋がりを持つ実父。 兄の言葉にふはっ、と雪男の唇から吐息が零れた。あははは、と続く笑い声。 「いいね、それ! すごくいい!」 もともと燐の望むことであればすべて叶えてやるつもりではあったが、その提案には両手を上げて、何なら黒い尾も振って賛成する。 「跡形もなく燃やすのも良いけどあいつも炎あるしなぁ。ばらばらに引き裂いてみるか」 「どこまで分割したら死ぬかな」 「首切ったくらいじゃ生きてそうだよなぁ」 「そういうの兄さん得意そうだから任せる」 「兄ちゃん、んなグロい趣味はねぇぞ?」 「だって僕、魚捌けないし」 「悪魔と魚を一緒に語るなよ」 ざっくりと手首を切りつけ、双子の血液の混ざった地面に現れる地獄の門。まるでスーパーに買い物にでも行くかのような気軽な足取りでとぽん、と黒い空間へ足を踏み入れる。 目覚めた双子の悪魔が手を取り合って行う初めての共同作動が父殺し。 なんとも虚無の王の血を継ぐ息子らしい所行ではないか。 ブラウザバックでお戻りください。 2012.06.05
堕ちる切っ掛けがお互いな兄弟。 Pixivの奥村詰め合わせ(2)より。 |