懺悔室


 彼の姿を見たのは偶然だった。
 山裾にぽつりとある寂れた村の片隅、小さな教会を細々と管理する日々。若いのに、と惜しまれることもままあるが、そういった穏やかで、何の変哲もない日々が自分にはあっているとそう思っていた。きっとこのまま、村人の移り変わりを眺めながら時を重ね老いていくのだろう。その未来に不満も疑問も抱いていなかった。
 その日は、月がとても綺麗だったのだ。金色というよりもむしろ銀色に輝いて見えるそれに惹かれるように、教会裏に広がる森をひとりで散策しているときだった。
 パシャリ、と耳に届く水音。この先には小さな泉がある。澄んだ水の流れ込むそこはかなり深さがあるらしく、危ないからあまり近づかないように、と村人たちに注意を促しているくらいだ。こんな時間に誰ぞいるのだろうか。そう思い、泉へ足を向けたところで彼を見た。
 ほとりに脱ぎ捨てられた赤いブーツ、子供のように水面を蹴る素足は色を忘れてきたのかと思うほど白い。夜の闇と同じほど黒いフードを被っているため、彼(おそらくは男性であろう)の顔は確認できない。けれどきっとその髪も艶やかな漆黒なのだろう。
 そう想像したところで空を仰いだ彼のフードがぱさり、と背へ落ちた。
 思った通り月光に輝く黒髪に白い頬。空と海の色を足したかのような真っ青な瞳を細めて月を見やる。
 何かを求めているかのような、それでいて何かを諦めているかのような、ひどく切なげな表情にどくり、と体内で何かが跳ね上がったようなそんな気がした。
 見てはいけないものを見てしまった。
 気がついてはいけないことに気がついてしまった。
 そんな罪悪感に追いたてられるように泉に背を向けて教会へ戻り、先ほどの光景を忘れようと無意識のうちに努めていた。


**  **


 かたり、と小さな物音を耳にし視線を向ける。日の出とともに起きだし、日の入りとともに家へ戻る暮らしをする村であるため、夜になると辺りは静寂に包まれるものだ。だから、だろうか。小さな音でもよく響く。
 おそらくは懺悔室の方だろう。教会の入り口とは別に、外からその小さな部屋へ入るための扉が設けられているが、今日はまだそこの施錠を行っていなかった。
 誰ぞ訪れたのか、動物でも入り込んだのか、あるいはただの空耳か。もし懺悔に訪れているひとがいるなら、突然扉を開けては申し訳ない。教会内から小部屋へ向かいそっと中へ入り込めば、壁の向こう側に気配がある。その人物もどうやらこちらに気がついたらしく、びくり、と壁越しに影が震えた。

「懺悔に、いらっしゃったのですか?」

 そのまま外に逃げられてしまうかもしれない。そう思いながら、できるだけ優しくそう尋ねる。かたり、と音を立てて椅子を引き、壁に向かい合うように腰を下ろした。返事はないが、部屋を出ていく様子もない。

「私でよければ伺いますよ」

 どうぞおかけになってください、とそこにあるはずの椅子に腰掛けるよう促した。
 ややあって、衣擦れの音と椅子が軋む音が耳に届く。壁越しの影がす、とこちらと同じほどの高さに沈んだ。

「何か、お悩みのことでも?」

 そう促し、簡単に話を聞けるのならば苦労しない。ひとに話せないことだからこそ、このような部屋を訪れるのだ。ここへ来たからといって無理に話す必要もないと思っている。それでも、僅かでもやってきた人々の心が晴れるなら、と言葉を紡いだ。

「お身体のことでお悩みですか?」

 ふるり、と首を横に振る気配。そのシルエットからおそらくは髪の短い男性だろう、と推測する。

「ではお仕事のこと?」

 影は再び首を振ってこちらの言葉を否定した。将来についてのことでも、人間関係についてのことでも、金銭面についてのことでもない、では家族のことかと尋ねたときに少しだけ間をおいて否定があった。

「では、想いを寄せてらっしゃる方のことでしょうか」

 つまりは恋愛に関することか、という問いかけ。尋ねられるカテゴリーとしてはこれが最後であったため、「俺、」と返ってきた言葉に少しだけ安堵を覚えた。低い声、成人した、若い男性だろう。彼はもう一度同じ言葉を呟いたあと、ぽつりぽつりと語ってくれた。
 好きになってはいけない相手を好きになってしまったかもしれない、と。
 若者はそう言う。
 ひとがひとを好きになることはひどく自然なことであり、やめようと思ってやめられるようなものではない。誰かを愛することは素敵なことだと思う、そのようなことを言えば、影は俯いて力弱く首を振った。

「……弟なんだ、相手」

 幼い頃に別れ、離れて暮らしている双子の弟。血を分けた実の、弟。同性愛に近親相姦。二重のタブーにさすがに言葉を返すことができなかった。口ごもってしまったこちらに気がつかれ、「おかしいだろ、俺」と自嘲気味の言葉が吐き捨てられる。
 分かっているのだ、と彼は諦めたような声音で言った。自分がどこかおかしいのだろう、と。同性で、そのうえ家族でもある弟のことを想うなど、頭がおかしいとしか思えない。
 言葉を選びながらそれは家族愛ではないのか、と問うてみるが、愚問だったとすぐに気がついた。その可能性などおそらく彼自身何度も考えてきたのだろう。それでも違うと、そう思うからこそこんなにも苦しそうな声で恋心を語るのだ。

「夢に、見るんだ」

 小さな頃に両親と死に別れ、幼い双子の兄弟は離れて暮らさざるを得なくなった。その頃から顔を合わせていないというのにどうしてだか、夢に出てくる、自分と同じほど成長した男が弟だと思うらしい。

「顔はいつも、ぼやけてて、分かんねぇんだ。でも、あいつ、」
 『兄さん』って、俺のことそう呼ぶ。

 彼を兄と呼ぶのはこの世でただひとりだけ。
 低く、穏やかな声で『兄さん』と口にする男が優しく頬に触れ、抱きしめてくれる。それは明らかに家族という枠組みから逸脱した触れ合いで、そのことに罪悪感を覚えながらも幸せで仕方がない、そんな夢を見るのだそうだ。

「……ちょっと、あんたの声に似てる」

 笑って続けられた言葉に、何故かとくり、と心臓が跳ねた。
 その弟が今どこで何をしているのか、彼はまるで知らないという。知るつもりも会うつもりもないらしい。

「でもたったひとりの家族なのでしょう? 弟さんも会いたがってらっしゃるかもしれませんよ」

 幼い頃に唯一なる家族から離れひとりきりになってしまう、という状況は身に覚えがある。何を隠そう、自分自身もそうなのだ。教会へ引き取られる前後のことはあまり覚えていなかったが、もし自分にも家族がいるのなら会いたい、と願うだろう。
 そんな感情を込めて言ってみるが、彼は「たとえそうでも、会えねぇよ」と首を横に振る。

「だって俺、悪魔だから」

 薄い壁の向こう、シルエットから放たれた予想外すぎる言葉に思わずくすり、と笑いが零れた。聞きとめた彼に「あ、信じてねぇな?」と咎められる。
 悪魔、そのような存在などいないと思っているわけではなく、実在していることは知っている。むしろ目にしたこともあるくらいだ。すみません、と謝罪したあとこほん、と咳払いして息を整えた。

「職業柄いろいろな方のお話を聞きますけど、悪魔からの懺悔は初めてだったもので」

 そもそもこのような寂れた建物であっても歴とした教会である。聖なる空気を持つ場に足を踏み入れることのできる悪魔など聞いたことがない。もし彼の言葉が事実であるならよほど強い力を持つ悪魔に加護を受けているか、あるいは彼自身が上級悪魔であるかのどちらかだろう。
 やっぱ変かな、と少しトーンの落ちた声が耳に届き、口元を緩めていいえ、と首を振った。

「その部屋、鍵が開いていたでしょう? どなたでも入っていただけるよう、解放してるんです」
「……俺みたいな悪魔でも?」
「私にはあなたの姿が見えません。神だとか悪魔だとか人間だとか、まるで分からない。ただ、とても苦しんでいらっしゃっるということは分かります」

 自分はさして力のないただの神父だ。まだ若く人生経験も乏しいため、ろくな助言もできないだろう。できることといえばただ黙って話を聞くことくらいなもので。

「共に悩み、共に泣き、共に笑うことしかできませんが、少しでも訪れた方の心を軽くできるのなら、喜んでお伺いしますよ」

 それが誰の、どのような悩みであっても変わらない。
 言外に込めた意味をなんとなく読みとってくれたらしい。そっか、と小さく呟いた彼がかたり、と椅子を引いて腰を上げた。

「うん、俺も、話してちょっと楽になった」

 変なこと聞かせてごめんな、と続けられた謝罪にいいえと首を振る。

「あなたの苦しみがなくなることを、……願っています」

 いつもならば「神に祈る」と口にするところだ。しかし、悪魔の幸せを祈るのもおかしな話だと思い別の言葉を続ける。僅かな空白をどう思ったのか、立ち止まった彼が「ありがとう」と小さく笑って言った。


**  **


 懺悔を求めてしまうほど深い悩みが、そう簡単に解消されるはずがない。悪魔であると自称する彼はあれ以来、ときどき語りにくるようになった。村人たちのようにこちらの都合を尋ね、事前に懺悔に訪れることを告げてくれるわけでもなく、ふらりと現れ懺悔室にこもり、ふらりと帰って行く。話を聞く相手がいようがいまいが、どちらでもいいようだ。いなければいないでひとり静かに考え事をしているらしく、いるのならば、許されぬ相手への恋心をぽつぽつと口にして泣く。
 彼を悩ます夢の内容が、どんどん際どくなっているのだという。

「俺、悪魔、だから……」

 欲望に忠実だという悪魔。そんな自分が抱く無自覚の希望が夢となって現れているのではないか、と彼はそう言った。
 本当はとてもひとに話せるようなものではない。けれど、自分ひとりの心にしまっておけば、いつか爆発してしまいそうで怖い。軽蔑してくれていい、とそう告げた彼は、項垂れたまま小さく言葉を続ける。

「俺が、抱かれる側なんだ」

 初めはただ話をしているだけの夢だった。それが互いに手を伸ばして触れ合うようになり、抱きしめあうようになり、唇を重ね、舌を吸いあい、肌をまさぐり、脚を絡めるようになった。

「男のくせに、女みたいに押さえつけられて……犯されて、あんあん喘いで……」

 心底自分が嫌になる、と苦しげに吐き捨てられた言葉に込められた呪詛は、夢の中で自分を犯す弟に対するものではない。

「気持ち、いーんだ。キスとかして、体中舐められて、噛まれて、汗とか唾とか、そーゆのでべとべとになって、でっけぇもんつっこまれてがんがん突かれて、痛くて苦しいはずなのに!」

 勃起した弟の性器を尻の穴にねじ込まれ、腰を押しつけられ、そのことに鳥肌が立つほど快楽を覚え、自らもいやらしく腰を振っている。甘ったるい悲鳴を上げて牡をしゃぶり、全身を震わせて悦ぶ。肉体的な快楽だけではない、求めていた相手と一つに混じりあえることに、精神的な愉悦も覚えているのだ。
 夢の中では、あまりの気持ちよさと幸福にぼろぼろと泣き、目が覚めてからは自己嫌悪に襲われて泣く。

「も、やだっ、なん、で、俺、こんな……っ」

 そのような夢を見たくて見ているわけではないとはいえ、本音の部分で己が望んでいるのかもしれないということを否定できない。そのことが苦しくて辛くて情けなくて仕方がない。

「ごめっ……ごめん……ごめんな、さ……」

 泣きながら謝罪の言葉を繰り返す、儚き悪魔。その肩に触れ、背を撫で、頭を抱いてやりたくとも、壁を隔てたこの部屋ではそれができない。手を伸ばせば触れることのできる距離にいるというのに、自分には何もできないのだ。
 ただ黙って話を聞くことだけ。
 淫らな懺悔に耳を傾けることだけしか、できないままでいる。


 何度目に、彼が訪れたときのこと、だろうか。
 偶然だった、と正直言いきれない。あんなにも切なく、苦しげに弟への恋心を語る悪魔が一体どのような姿をしているのか、少しだけ、気になり始めていたのも事実。
 夕闇の中、逃げるように懺悔室から出て行くその姿は、いつだかの夜、泉のほとりで見かけた彼だった。
 その顔を見た日から。
 こうして懺悔を聞いている間中、脳内でずっと、彼を、犯している。
 艶やかな黒髪をシーツに広げ、白く細い手首を押さえこみ、みだらに広げられた脚の間に身体をねじ込んで、肢体を蹂躙する、そんな妄想を止めることができない。聖職者としては失格だ。こんな自分が悩めるひとたちを救うなどできるはずもない。
 泣きながら繰り返される謝罪の声、少し掠れたそれにすら、ぞくぞくと背筋を震わせてしまうのだから。きっと何よりも最低なのは、弟を愛し、犯されることを望む悪魔ではなく、悪魔の懺悔を聞いて欲情している神父であろう。
 ひとしきり泣き、すん、と鼻をすすって彼が出て行ったあとも、その場から動くことさえできない。テーブルに両肘をついて俯いた視界には、首にかけている十字架が揺れていた。
 罰を与えられるのならば、ごめんなさいと、綺麗な涙を流す悪魔ではなく、その悪魔を犯したがっているこの自分の方。
 ごめんな雪男、と絞り出すように紡がれた言葉が耳の奥から離れない。
 銀色のクロスを握り込み、兄さん、と小さく呟いた。





ブラウザバックでお戻りください。
2013.07.16
















元ネタはエロボイス担当ユニットの同名の歌です。

Pixivより。