劇場版ネタです、未見の方はご注意を。


   雪解け水


 ぺらり、と紙をめくる音が室内に響く。しばらく時間を置いたのちまたぺらり、と一枚。音の出所は、つい先ほどようやく今日の分の課題を終えてベッドへ逃れた双子の兄である。ゆっくりと時間をかけてぺらり、と次のページへ。彼が紙面をめくることがないとは言わないが、それは大抵漫画雑誌であることが多い。読むペースが速いほうではなかったが、それにしてもずいぶんゆっくりと読み込んでいるものだ。小さく響く音のリズムにそう思った。一体何に目を落としているのだろう、そんな疑問を何の気なしに抱き、深く考えもせず彼の方へと視線を向ける。
 そうして一瞬思考が停止した。

(……知らない……)

 自身のベッドに横になり本を眺めている彼。兄弟としてそれなりに時間を共有してきたつもりでいたけれど、そんな顔をして笑うだなんて、知らなかった。
 大きな痛みを堪えているかのように、寂しさを抱えているかのように、ひどく苦しそうな、けれど愛おしさに溢れんばかりの複雑な笑顔。いつもの馬鹿笑いとは違う、何かを諦めたような切ない笑みとも違う。見ているこちらのほうまで胸を締め付けられ、息苦しさを覚えるような表情。
 とてもよく似た顔をするひとを知っている気がする、そう思えばすぐに気がついた、養父だ。獅郎が時折浮かべていた笑みに似ている。彼が、兄のおらぬところで兄のことを想い、浮かべていた表情に。
 どうしてそんな顔を、と考える前に「兄さん」と声が出ていた。

「ん?」

 どした、と瞬時にいつもの、雪男の知る顔に戻って首を傾げる兄へ、「あ、いや、」と言葉を探す。何か意図があって呼んだわけではない、とっさに口から零れてしまったのだ。何でもない、と誤魔化してしまおうかと思ったが、それよりも、と手にしていたシャーペンを置いて燐へ向き直る。

「なに、読んでるの?」

 そう素直に疑問をぶつけてみた。けれどその聞き方ではまるで読書を咎めているかのようだ、と気がつき、慌てて「ずいぶんゆっくり読んでるみたいだけど」と付け加える。しかし燐のほうはさほど気にしている様子もなく、「ああ、これ?」と広げていた本を掲げてみせた。

「……絵本?」

 そ、懐かしいだろ、と差し出されたそれは、確か子供のころに読んだ覚えのあるもの。腰を上げ、歩み寄ってそれを受け取る。ぱらぱらとめくって、何となく話を思い出してきた。色鮮やかなイラストで語られる、小さな悪魔の物語。

「あったね、こんなの」

 血が繋がっていないにも関わらず子煩悩だった養父は、幼い双子に様々な絵本を読んでくれた。物語を聞くことは心を豊かにするから、と。そのなかの一冊だったとは思うが、どうして今になってこの本を眺めているのだろう。
 そんな疑問を覚えながらぱらり、と絵本をめくった。小さな悪魔の封印でその物語は幕を閉じる。

「なぁ、雪男」

 村を滅ぼしてしまうほどの力を持った悪魔、具体的にはどんな悪魔だったのだろうか、と考えていたところで、俯き床を見やったままの兄が雪男を呼んだ。

「お前ならさ、どうする?」
「……何が?」

 首を傾げれば、「その悪魔」と燐が顔を上げる。

「雪男はさ、やっぱ、祓魔師だし、その絵本の悪魔も祓う、よな?」

 悪魔と呼ばれる(雪男たちが呼んでいる)存在が、決して人間と共存できないものだ、とは言わない。上手く「共存」(と表現していいのかは分からないが)しているものだって現実に存在しているし、悪魔の力を借りることだってある。けれど。

「……こちらに害があるなら、そうなるだろうね」

 祓魔師はこの物質界を守ることが第一の使命である。ひいてはそこに住まう人々の安全を守らなければならない。雪男の答えに、「そう、だよな」と燐は小さく頷いた。

「生きてる人間を危険な目に合わせちゃ、意味、ねぇもんな……」

 確かにその通りのことではあるが、どこか実感の籠った言い方に「兄さん?」と首を傾げる。やはり今日の彼はどこかおかしい。いや、今日だけではない、町を挙げての一大イベントだった祭りが終わって以降、どうにも物思いにふけることが多くなった気がする。この兄が。食べることと寝ること、祓魔塾の課題と修行のことだけで精いっぱいだった彼が。
 雪男の呼びかけに頭を上げた燐は、目を細めて絵本の表紙を見やった。

「でもさ、そいつ、悪いことしてるつもりは、なかったんだよ」

 兄の言う「そいつ」が何を指しているのか、一瞬分からなかった。眉を顰め、少し考えて、「……この悪魔?」と尋ね返す。そう、と頷いた燐は、雪男から絵本を受け取り、ぱらり、と小さな悪魔の描かれているページを開いた。

「たぶん、寂しかったんだ。ひとと仲良くなりたかったんだ」

 そうして仲良くなれたひとたちを、幸せにしたかった。ただ笑っていてもらいたかっただけなのだ。
 そう語る燐の口調は、まるで絵本の悪魔を知っているかのようなものだった。
 この悪魔がどんな能力を使ったのかは分からないが、人々が働くことを忘れてしまったという内容から、記憶に関する力を持つのだろうと推測できる。

「それで、忘れさせたってこと?」

 雪男の問いに燐はそう、と頷いた。
 嫌なことや辛いことを忘れてしまえば、ひとは幸せになれる。笑顔になれると、小さな悪魔は信じていた。しかし楽しいことだけを考え、浸って生きていけるほど人間社会は甘くない。だからこそ絵本の中の村も滅びてしまったという結末になっているのだろう。

「それなら、封印されるのも仕方ないね」

 たとえその悪魔に悪気がなかったのだとしても、人々の生活を脅かす存在を野放しにはできない。厳しいことを言うのならば、まず絵本の冒頭で悪魔と出会ったときに仲良くなってしまった、ということ自体否定すべき事柄だとも思う。能力も分からない悪魔との安易な接触は避けるべきだ。
 雪男の答えに、分かってる、と力なく燐は呟いた。開いた絵本のページに描かれた悪魔の姿を、指先でつ、となぞる。優しく温かな味を生み出す器用なその指は、ひどく愛おしげなものに触れているかのようだった。
 良いやつだったんだよ、と燐は言う。

「みんなを幸せにするんだって、全部食う、って」

 町中の人々の辛い記憶を、嫌な記憶を全部食べて、町中の人々を笑顔にするのだ、と。絵本を撫でていた手をぎゅう、と握りしめ、燐は震える声でそう言った。語られる言葉、それらの語尾がすべからく過去形であることが気にかかる。もういないの、と問えば、兄はこくり、と頷いた。

「……町、助けるために」

 兄の拙い説明によれば、この絵本の悪魔は実在していたらしい。先日の任務の折り、燐の引き起こした大失態に巻き込まれて封印が解け、しばらくこの寮にいたのだ、と。絵本の通り、人々の嫌な記憶、辛い記憶を食らい、結果この町が滅びそうになってしまった。それもまた絵本の通り。
 けれど町は実際に無事であり、そもそも雪男にはそのような事件が起きた記憶がまるでない。それはその悪魔がすべてを食ってしまったからだ、と燐は言う。人々の記憶も含め、町全体の時空を食らって歪ませ、無数の魍魎に呑み込まれかけていたところを救ってくれたのだそうである。

「約束、守れなくてごめん、って……」

 約束を、交わしたのだそうだ。
 もうその力は使わない、と。嫌なこと辛いことだけを記憶から取り除いたところで、必ずどこか歯車がかみ合わなくなる。滅んでしまった絵本の中の村のように。小さな悪魔は始めこそそのことを理解しようとしなかったが、最後にはきちんと話を聞いてくれたのだという。
 嘘をつくことのできない兄が即興で作り出したにしては出来過ぎている物語。そういった過去があった、とむしろ今目の前にいる兄こそ、記憶を弄られているのではないか、と思わず勘繰ってしまう。そんな疑いが表情に出ていたのか、雪男を見上げた燐は「いいんだ」と力なく笑みを浮かべた。

「信じてくれなくて、いい」

 皆が忘れてしまっていることを、無理に思い出させるつもりもない。そういうことがあったのだと信じてもらいたいわけでもない。
 雪男の知らない顔をして笑う兄が紡ぐ言葉。そんな笑みを見せられて語られたものに、否定や拒絶を返すなどできるわけがない。してはいけない、とそう思った。
 それならば雪男にできることは、記憶はないけれど彼の双子の弟としてできることは何だろうか。

「……謝ったってことは、その悪魔、兄さんとの約束は守るつもりだった、ってことだろうね」

 記憶を食らう悪魔の能力。もう使ってはいけない、使わないでくれ、という燐の言葉に耳を傾け、そうしてその願いを聞き入れた。良かれと思って自分のしてきたことが引き起こしたことを理解できたのか、それとも燐が口にしたから頷いたのか。どちらにしろその時点で悪魔の持つ脅威はかなり薄れたことになるだろう。そう思っていたところで、きぃ、と木の軋む音が耳に届いた。振り返れば、どこぞへ遊びにでていたらしい猫又が、彼専用の扉を押し上げて戻ってきたところで。

『お前らなら、どうする?』

 不意に頭の中で養父の声が響いた。そう確か、兄弟がまだふたり揃って養父の膝の上に乗ることができるほど幼かったころ。絵本を読み終わったあとに尋ねられたそれに、自分はなんと答えただろうか。そして兄はなんと答えていただろうか。
 ただいま、とベッドに飛び上がり、燐に額をこすり付けているクロをぼんやりと眺めながら、「だったら、さ」と雪男の口からほろり、と言葉が零れた。

 どうしてそんなことを言ったのか、正直雪男自身もよく分からない。普段の自分ならば決して思いつかないような、常識から外れた言葉。冗談のつもり、だったのかもしれない。兄の語る、記憶にない具体的な過去に乗った振りをし、深く考えず無責任に口走っただけのもの。

「封印せずに、そのままここに引き取っちゃってもいいんじゃない?」

 良いやつなのだ、と燐は言う。兄の言葉に耳を傾けるだけの心を持つものならば、きっとひとに害を与えることもないだろう。

「クロもいるし、ウコバクもいるし、僕らだってそうだし、悪魔だらけだからね、この寮」
 いっそのこと僕らの弟ってことにしちゃえばいいよ。

 笑いながら告げたその言葉に、がばり、と勢いよく燐が表を上げた。驚きに目を見開き、まるであり得ないものを前にしているかのような表情に、一瞬たじろいでしまう。何かおかしなことを言っただろうか、いや普段の自分の言動からすれば十二分におかしなことを言ったという自覚はあるけれど、そもそもどうして「弟」という単語があっさりでてきたのか、もしかしたら妹かもしれないではないか、と考えながら兄を呼ぼうとしたところで。

「――――――ッ」

 閉じた絵本をぎゅう、と抱きしめた燐の青い瞳から涙が零れた。ぼろぼろと、透明な雫がうっすらと赤くなった頬を伝い落ちていく。

 ごめん、と兄はそう言って泣いた。
 助けてやれなくてごめん、と。
 守ってやれなくてごめん、と。

「っ、ごめ……ごめん、なっ、うさ麻呂……っ」

 ひぐ、と喉をしゃくりあげ、小さな子供のように声を上げて泣く燐。側にいたクロも原因が分からず、驚きながらも慰めようと、懸命に身体を伸ばして兄の頬を舐めていた。
 燐の泣き顔はそれほど珍しいものでもない。漫画を読んでは登場人物に感情移入し、可哀そうだ、とよく泣いている。けれど心の底から叫んでいるかのような、こんな泣き方をするだなんて、知らなかった。
 どこか呆然としたまま手持無沙汰だった右手を伸ばす。頬にそっと触れてみれば、掌が彼の涙でしっとりと濡れた。泣いてる、と当たり前のことを思う。双子の兄が悲しい、とそういって泣いている。震える肩に両手をかけ、少しだけ迷ったあと自分よりも小柄なその身体をそっと引き寄せた。おずおずとその腕を彼の背に回す。

「ひっ、う……っ、ゆ、きっ、ゆきおぉっ」

 じんわりと胸元が濡れる感覚。素直に縋り付いて泣きじゃくる兄にどこか緊張していた身体の力が抜け、今度は自然に燐をぎゅうと抱きしめることができた。
 たぶん、愛していたのだろう。
 この優しい悪魔の真っ青な瞳は、対峙した相手の纏う衣ではなく、内側に抱える心を見抜く。人間だとか悪魔だとか、そんなことは彼にとって関係のないことなのだ。
 良いやつだと、そう思った。だから、その悪魔の心をそのまま、愛した。ただそれだけのこと。
 そんな燐が放つ言葉だからこそ、きっと絵本の悪魔も耳を傾けたに違いない。そう思う。兄だったからこそ、「約束」を交わすことができたのだ。
 忘れない、と涙に濡れた声で燐はきっぱりと言い切った。
 俺だけはずっと忘れない。
 幼くも優しい、悪魔がいたことを。
 絶対に、忘れない。

「……うん」

 雪男の中に、小さな悪魔の記憶はまるでない。きっとこれから思い出すこともないだろう。けれどそれでも、その悪魔との思い出が兄の中にはある、優しい友達のことを心から愛していた記憶がある。
 そんな燐がここにいると知っておくこと。
 それが同じほど心優しい悪魔の、双子の弟である自分のできる唯一のことだと、そう思った。




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2013.07.16
















劇場版は奥村夫妻とそのお子さんのお話でしたね。

Pixivより。