リラックス体操(第一)


 僕の兄はバカです。
 亡き養父が「お前の頭が悪ぃのは仕方ねぇ。どうせバカなんだからせめて愛されるバカになれ! ユルフワ愛され系バカになるんだ!」と言い聞かせ続けてきた成果が出ているのかいないのか。
 兄は、弟である僕が兄のことを好きで好きで仕方ないと思い込んでいる程度には、頭のねじが緩んでいます。きっと彼の頭の中には細胞の塊ではなく、たんぽぽの綿毛でも詰まっているのでしょう。
 とりあえず、僕の兄は「ばかわいいを体現した結果がこれだよ!」と言っても過言ではないと思います。



 持ち帰った仕事の終わりが見えず、眉間に皺を寄せたままモニタを睨み続けること二時間。作業量にうんざりしているのか、視神経が悲鳴を上げているのか。ずきずきと痛むこめかみに苛立ちが募り、作業効率が悪化して遅々として進まず、そのことにまた頭痛を覚えるという悪循環。どうしてこの世の中には報告書作成などという業務があるのか、根本から疑問を抱き始める。無駄にイライラしているな、と自分でも思っていた。

「ゆーきーおっ!」

 そんなところへバカが無神経に声を掛けてくるものだから、更に増えたイライラ感に唇を噛む。双子の兄は空気を読むのが下手な時と上手い時と、両極端だ。1か0のどちらかで、0.5だとか3分の1だとかいう選択肢はない。もっとフラットになれよ、と思うけれど、彼に言っても仕方がないだろう。何せバカなのだから。

「ちょっと手ぇ止めてさ、風呂、入ろうぜ」

 気分変えた方が良いと思うぞ、とバカが吐き出す正論にイラっとするけれど、これはどう考えても八つ当たりでしかないので堪えておく。ふぅ、と息を吐き出して両手を止め時計を確認。午後十一時。平常なら兄は既にベッドの中の住人だが、どういうわけか今日はまだぱっちりとその真っ青な両目を開いていた。

「兄ちゃんが背中流してやっからさ!」

 どうだ嬉しいだろう、と満面の笑みで告げられた言葉を全力で拒否しながら、気分を変えるという手は悪くないと、入浴の誘いは受けることにしておく。背中は流せずとも一緒に入ることは諦めないようで、無防備に晒した尾をぱたぱたと揺らして兄がついてきた。

「あ、雪男! 今日はそっちじゃなくてこっち!」

 いつものように元は寮監が使うための風呂場へ足を向けたところ、背後からバカに腕を引いて止められた。そのままぐいぐいと引っ張って連れて行かれた先は、寮生たちが入浴するための大浴場。広すぎるそこはふたりだけの入浴だと不経済、非合理的だからと今まで一度も使ったことがない。

「大丈夫、すっげぇ一生懸命掃除したし、ちゃんと湯も張ってあるから!」

 広いから大変だったぞ、と少しも大変そうには見えない表情で言いながら、兄はばさばさと豪快に服を脱いでいく。一挙一動が大きいせいか乱暴だと思われがちな彼だが、実際は意外に几帳面だということをきっとみんな知らない。脱ぎ捨てているように見えて、兄が脱いだあとの服は綺麗に畳まれているのだから意味が分からない。きっと頭蓋骨の中のたんぽぽの綿毛の一つに「脱いだ瞬間畳む方法」が記されているのだと思う。
 残念ながら弟の脳細胞にはそのような特殊能力は刻まれておらず、どうせ洗濯機で回すのだからと脱ぎっぱなしだ。兄弟の脱いだ衣服の明らかな違いから目をそらすため、眼鏡をそっと外しておいた。

「うはぁ! やっぱ広いなぁ!」

 声が響く! と嬉しそうに言うけれど、掃除をしたのだからその広さくらい十二分に認識しているだろうに。どうして改めて感嘆の声を上げるのかが分からない、バカだからだろうか。
 簡単に身体の汚れを落とした後、広すぎる浴槽へ身体を沈める。浴槽の縁ぎりぎりまで湯をためれば、おそらく腰を下ろしたときに顎の下あたりまで浸かることになって息苦しいだろう。けれど偶然なのかはたまたそう調節したのか、座り込んで肩が少し出る程度という丁度良い深さになっていた。

「ゆき、ゆきお!」

 タイルの壁に背を預け、ふぅ、と息を吐いたところで、ちゃぷちゃぷと湯を揺らして兄が近寄ってくる。うっすらと上気した頬に、水滴の伝う首筋、湯に浮かぶ尾。無防備だ。胸から腹に掛けて「どうぞ召し上がれ(ハートマーク)」と書いてあるように見えるくらい、無防備だ。

「リラックス体操、教えてやるよ」

 にしし、と笑う彼へ拒否の言葉を投げてみるが、今度は簡単には引いてくれなかった。いいから兄ちゃんの言うとおりにやる! と怒られる。駄々をこねられても面倒であるため、とりあえず聞くだけ聞いてみることにした。

「ほら、まずはこーやって、足伸ばす!」

 湯に浸かったまま、浴槽の中で揃えた両脚を前に伸ばす。

「ぐーって伸ばす。ぐーって」

 擬音語、擬態語を多用するのも彼がバカだからだ。けれど、そのバカに十五年付き合ってきたため、悲しいかな、兄の言いたいことがそれでも十分に伝わった。
 普段使っている風呂は家庭用のものに比べて広いとはいえ、足を伸ばせるだけの長さはない。ひとり用のものであるため仕方がないのだが、こうして存分に足を伸ばせるのも大浴場ならではのことだろう。もしかしたらこれをやらせたいがために、わざわざこちらの風呂を用意したのかもしれない。

「で、次は腕。んーってする!」

 さすがにそれは分かりづらい。
 思ったけれど尋ねたところで、「だから、んーってやんだよ!」と返ってくることが分かっていたため、ちらりと隣を見やり、腕を上げて背筋を伸ばした。要するに背伸びをしろということだろう。

「はふぅ……ほら、リラックスできた」
 できたよな!

 肯定以外の答えを受け付けていなさそうな笑顔で問われ、がっくりと肩が落ちた。確かに身体を温めながら筋を伸ばし、凝りを解す行為はリラックスに繋がるものだろう。実際、ひどく気持ちがいいし、先ほどまでのささくれ立った気分も少し上向きに修正されてはいる。
 けれど、体操と呼ぶほどのものではないし、わざわざ教えてもらわずとも自然にやっていそうな行為だ。相も変わらず兄のバカさ加減が目につき、脱力を止められない。
 そうだね、と投げやり気味に返せば、兄は良かった、と笑う。それが満足げなものでも得意げなものでもなく、嬉しそうな、どこか安心を覚えたようなふんわりとした笑みで、不覚にも胸が締め付けられそうになった。だから慌てて思考を切り替える、たぶん兄の頭の中の綿毛が芽を出し育って花を咲かせたのだ、と。黄色い、太陽のような柔らかな花だ。刺身の上に乗ってるやつ。

「ずっとさ、難しい顔ばっかしてんのも疲れるだろ」

 たまには力抜けよ、とちゃぷちゃぷと湯を揺らしながら兄は言う。バカに正論を言われている、と思ったけれど、今回はリラックス体操の効果かそれほどイラっとはしなかった。今度は少しだけ心の籠もった「そうだね」を返しておく。ありがとう、と素直に礼を言えるほどまだ大人にはなりきれていない。
 しばらくそのまま、ふたりで黙って湯に浸かっていたところで、「あ、そうだ!」と兄が声を上げた。ぱちゃん、と跳ねた尾が湯を叩く。

「リラックス体操、もいっこ、忘れてた!」

 はい脚広げて膝立ててー、と言われるままの体勢を取れば、湯を揺らしながら兄が身体を移動させる。

「そのまま両手を前に伸ばしてー」

 ぎゅー。

「…………」

 兄はこちらに背を向けて、弟の広げられた脚の間に当然とばかりに腰を下ろしている。そんな彼を挟むように伸ばした両腕をどうするべきか、と悩んだまま固まっていれば、「ぎゅうっ!」と怒られた。
 ぎゅう。

「へへっ」

 嬉しそうである。言われるがまま、少し細い兄の身体を抱きしめれば、とてつもなく嬉しそうに笑う。その上背中を預けるようにぴったりと寄りかかられた。まるで何の武装もしていない裸の心そのままを預けられているかのよう。実際には裸の身体を預けられているのだけれど。
 ぎゅう、と腕の中の身体をもう一度抱きしめた。背中は丸まるし、肩に力は入るし、体勢としてリラックスしているとは決して言えない。その上抱きしめられているならまだしも抱きしめている側で、この状態はむしろ兄の方がリラックスしているのではないかとも思う。
 それに。

「ゆきおー」

 きもちーな、ととろりとした口調で言い、振り返ったその顔をまともに見てしまったためリラックスどころではない。むしろ凝り固まってしまうくらいだ。主に下半身でぶらぶらしている何かが。

「……兄さん、次はベッドの上でやるリラックス体操、教えて欲しいな」

 我ながら、ひどいセンスをしている台詞だと、そう思った。



 僕の兄はバカです。
 ユルフワ愛され系バカかどうかは分かりませんが、弟が自分のことを好きで好きで仕方なくて、自分を抱きしめることでリラックスできると信じて疑っていない程度には、頭のねじが緩んでいます。綿毛から育った黄色い花がまた全部綿毛に変わってしまって、頭の中がより一層ふわふわのふかふかになっているのでしょう。
 ただ兄を抱きしめて精神的なリラックスを得ていることを否定できず、ぐちゃぐちゃのどろどろに泣かせたいなぁ、と欲望に直結した器官を元気にさせ、「ばかわいいを体現した結果がこれだよ!」な兄を押し倒して「兄さんは『ユルフワ愛され系バカ』でもここはキツキツだね」とか言いながらベッドの上でリラックス体操(第二)に勤しんでいる僕は、ばかわいいどころかただのバカでしかないと、そう自覚はしています。ので、どうか放っておいてください。




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2013.07.16
















ばか燐ちゃんと燐ちゃんばか。

Pixivより。