ロマンス(明と暗)


<悪魔である双子の兄の場合>

 これから先の人生でもしその日のことを振り返る日がくるとするならば、きっと生きてきた中でもっとも素晴らしい日だった、と口にすることができるだろう。たとえどれほど生きていて良かったと思うことがあったとしても、その日にだけは敵うまい。
 悪魔の血の流れる少年は、しみじみとそう思いながら、つい先ほど自分が作った味噌汁をずずず、とすすった。うん、今日もしっかり出汁が利いていて良い味に仕上がっている。自然と頬が綻んだところで、向かいに座っていた弟が「ねぇ、」と口を開いた。左手に持った箸で鯵のフライをつつきながら雪男は言う。

「兄さん、最近ずっと機嫌がいいけど、何か良いことでもあったの?」

 首を傾げて問われた言葉に、「んー」と箸をくわえたまま燐も首を傾けた。

「あったっちゃあった、のかな」

 実際に「良いこと」が起こったわけではなく、「良いこと」に気がついただけなのだ、と少ない語彙で頑張って説明してみたけれど弟には上手く伝わらず、「何それ意味分かんない」と眉を顰められる。ただそれが具体的にはどんなことなのか、燐に説明する気がないことは察してくれたようで「何でもいいけどさ」と少し面白くなさそうに雪男は言った。

「最近、授業でもあまり居眠りしてないし、ちゃんと課題もやろうとしてくれてるし。僕に関係なければ、兄さんがどんな理由で機嫌良くてもいいけどね、別に」
「ははっ、安心しろ。雪男にはぜんっぜん関係ねぇことだから」

 それについて弟に迷惑をかけるだとか、何らかの影響が出るだとか、そういったことは一切ない。そう言い切ることができる。真正面からの否定に弟は、「そう言われると、それはそれでなんかムカつく」とますます表情を曇らせた。雪男のこんな子供っぽい表情を見ることができるのは、家族ならではの特権だろう。なんだそりゃ、と笑った燐を前に、「いいけどね、別に!」と同じ言葉を繰り返した弟は、鯵のフライをほぐすことを諦め、箸と指でつまみ上げた後がぶり、と横から食いついた。
 ここのところ燐がずっと上機嫌なのも、課題に取り組もうとしていることも、講義(正確にいえば雪男の授業だけであるが)で居眠りをしなくなったことも、すべて同じ事柄に起因する。
 先週の土曜日の午前中。じりじりとコンクリートを焼く太陽に辟易しながら、屋上で洗濯物を干していたときのこと。
 ふと、気がついたのだ。
 奥村燐は、実の弟である奥村雪男を、恋愛対象として好きなのだ、と。

 何か切っ掛けがあったわけではない。強いて言えばそのとき手にしていたものが雪男のカッターシャツだった、ということくらいだろう。後でアイロン掛けがしやすいように、袖や裾のしわを伸ばして干していたところで唐突に思ったのだ、「あ、俺、雪男のこと好きだ」と。
 その弟から普段鈍い鈍いと散々馬鹿にされている燐だが、どうしてだかそのときは心中に沸いて起こった「好き」という感情が、家族間にあるものから逸脱したものだ、とすぐに気がついた。何故なら燐の考える「好き」は言葉だけで済むようなものではなく、もっと生々しい欲望が付随していたから。
 奥村燐は、奥村雪男のことを、セックスができるという意味で好きなのである。

 男同士でセックスができる、ということを知ったのは随分前のことだった。親しい友達もおらず、会話を交わすのは家族と、共に暮らす修道士たちくらい。当然彼らからそういった性方面の具体的な話を聞くこともなく、誰ぞが話していたのを偶然耳にした、というわけでもない。
 いつ、どのような状況で、何が原因だったのかまるで覚えていないけれど、いつものように柄の良くない男たちに囲まれ、脅された中で耳にした罵倒だった。燐の中の性的な知識は、ほとんどが悪意と共に口にされた言葉から得たものだ。多数で取り囲めば決して逃げられない、負けないと思っていたらしい輩たちは、このあと燐をどうしてやるのか、具体的に口にすることを好んでいた。腹にナイフを突き立ててやるだとか、顔面をぼこぼこにしてやるだとか、両足の骨を折ってやるだとか、これから如何に追いつめた(と勝手に思いこんでいた)少年をいたぶるのか嬉々として語ってくれた。中学に上がった頃からその中に性方面での暴行予告が加わるようになり、男同士でそういうプレイが可能なのだということを知った。もちろんされたことは一度もない。むしろ彼らの予告が当たったことさえなかったはずだ。
 男同士でもセックスはできる。その場合、どちらか片方が女役となり尻の穴を使うらしい。具体的なことは何も分からず、それはきっと入れられる方が痛いだけだろうと思いはするが、それでも燐は、雪男となら、己の双子の弟ならセックスができる、とそう思った。雪男が痛い目に合うことは許せないため、その場合きっと燐が女役になるのだろう。同性相手に尻をさしだし、性器を挿入される。過去、そうしてやると言われたときには冗談じゃない、という感情しか抱かなかったというのに、雪男が相手ならできる。それで弟が気持ちよくなってくれるのなら、その顔を見ることができるなら痛みなどいくらでも耐えられるだろう。そんなことを想像し、思わず下半身に熱が集まりかけたため首を振って慌てて思考を切り替えた。
 だからその感情は最早否定しようもない。
 奥村燐は、弟のいやらしい姿を想像して抜くことができる。そういう意味で奥村雪男のことを好きなのだ。

 ふぅ、と息を吐き出し、次の洗濯物(水色のタオルだった)を振ってしわをとりながら、空を仰ぐ。手にしたタオルよりももっと明るい、透き通るような青さに思わず「ははっ」と笑いが零れた。それは同性を好きになってしまったこと、あろうことか兄弟を好きになってしまったことに対する自棄からくる笑いではない。むしろこれから広がるであろう、素晴らしい日々に対する期待からくる明るい笑いだ。
 唐突に自覚した想いを知ってもらいたいだとか、通じ合わせたいだとか、ましてや触れ合いたい、セックスがしたいだとかはまるで思わない。そうできる可能性が一割もないだろうことなど、考えずとも分かること。
 そんな未来など始めから考えてさえいない。そうではない。そうではなく、ただそれだけで生きていける、と。

 雪男のことが弟として好きで大切で、性的な意味を含めて愛している。
 常に一緒にいることなんてできないのだから、顔が見れる時間帯に居眠りだなんて勿体なくてできなくなった。その顔を見ているだけで、そこにいるのだと感じるだけで、燐は今まで感じたことのないような幸せな気分に浸ることができる。それが誰に知られることのない想いであったとしても、むしろだからこそ、一生ひとりでこっそり抱え込んで誰にも渡すことなく暖め続けることができるだろう。悪魔の一生がどれほどあるのかは分からないがたとえこの先、生く道を雪男と分かつことになったとしても、その想いだけは手放さない、手放す必要がない。何せ燐が勝手に抱いている、誰に赦される必要もない感情なのだから。
 それは絶望しか転がっていなかったような将来に、希望が溢れ出した瞬間だった。
 これから先、ずっとただひとりだけ、双子の弟だけを愛し続けて生きていく。
 そのことに気がついた日、それは己が生きてきた人生のなかで、もっとも素晴らしく、明るい光に満ちた日なのである。

 雪男、大好き。愛してる。

 おそらく一生音になることのないその想いだけが、燐の生きる糧となる。





<人間である双子の弟の場合>

 これから先の人生でもしその日のことを振り返る日がくるとするならば、きっと生きてきた中でもっとも最悪な日だった、と口にすることができるだろう。たとえどれほどもう死んでしまいたいと思うことがあったとしても、その日にだけは敵うまい。
 平均よりも多く睡眠時間を必要とするくせに、最近どうにも寝たがらない兄をベッドに押し込み、黙々と作業をしていれば、突然ごとん、という鈍い音が室内に響いた。音源は言わずもがな、左斜め後ろの兄のベッドから。

「……何で、これで、起きない」

 たとえば片腕だけが落ちただとか、片足だけが落ちただとかならまだ分かる。しかしどんな寝返りの打ち方をしたのか、ベッドから上半身だけが落ち、おそらくは頭を打ち付けただろうにも関わらず、すやすやと眠り続ける燐を見下ろし思わず呟きが零れた。いくら怪我がすぐ治る身体とはいえ、痛覚は人間と同じようにあるはず。痛みよりも睡眠欲のほうが勝っているということなのだろうか。
 ありえない、とぶつぶつ呟きながら、燐を起こそうと手を伸ばす。さすがにそのまま放置はできない、と思ったのだが、ベッドから落ちたにも関わらず目覚めなかった男を、揺すったくらいで起こせるとは思えなかった。この両腕は兄を揺さぶるよりも、もっと建設的な事柄に使うべきだ。
 水分のぎっしりと詰まったひとの身体は、上半身だけでもかなり重たい。よいせ、と気合いを入れて燐の肩を抱え上げ、ベッドの上に放り込んだ。足の位置は変わっていないため、「く」の字に曲がった燐は尻だけをベッドの外につきだしているような状態でひどく間抜けだ。このままではまたちょっとした寝返りで落ちてしまいかねなかったため、足を抱えて身体をまっすぐに伸ばし、ぐいぐいと壁際まで押し込んでおく。燐が起きてしまわないように、というような気遣いはまるでない。むしろ起きて自分で移動してくれ、という気持ちのまま些か乱暴に兄を扱ってみたが、残念ながら目覚める気配はなかった。
 足下に丸まっていたタオルケットをひっぱり上げ腹の上に広げ、これでおしまい、と燐の顔を覗き込めば、むにゃ、と幸せそうな顔をして眠っている。眠っていやがる。
 ひくり、と口の端が引きつった。
 抱いた怒りの五割は、あまりに暢気な顔をしている兄に対するもの。残り五割はごく自然に「キスしたいなぁ」と思ってしまった自分に対して、だ。

 前々からなんとなく、薄々と、そんな気がしていたような気もしなくもない、ような気がする。自分はもしかしたら双子の兄に、血が繋がっている上に人間ですらない奥村燐に、家族としての愛情以上のものを抱いているのではないか、と。そうでなければキスをしたい、だなんて思うはずがない。いやその願望はむしろ可愛い方だと雪男自身知っている。
 だって、抜ける。
 より正確にいうならば、すでに抜いたことがある。
 己の兄をおかずに自慰行為に耽ったことが、ある。
 それは一生墓場まで持って行くつもりの秘密であった、というよりも雪男自身そんな事実などなかったかのように思いこもうとしてきた。今はそんな暇がないだけで、己の恋愛的な、性的なベクトルは真っ当に異性に対し向かっているはずなのだ、と言い聞かせてきていたのだけれど。
 むにゅ、と尖った燐の唇を見下ろし、キスがしたいな、と思うと同時に、今までの思いこみや誤魔化しが一気に吹き飛ばされてしまったことを自覚した。
 奥村雪男は己の双子の兄を、奥村燐のことを愛している。性的な意味を含めて。

 男同士での性行為は知識として頭のなかに入ってはいた。男女間でもアナルセックスがプレイとして成り立つことも、男の場合は前立腺への刺激が直腸から可能であり医療行為として行われることもあるということも、様々な知識を詰め込む課程において知ってしまった。本来ならばただの情報として処理すべきそれらの事柄を、どうしてだか雪男の脳は己の兄に置き換えた。名も知らない女性が乳房を揺らし、腰をくねらせて喘ぐ様より、ろくに肉も付いておらず、硬くて抱き心地も悪そうな兄が顔を歪めて泣く様を想像した方がぐっときた。具体的に言えば、勃起した。
 この股間には自分と同じものがぶら下がっているのだ、と分かってはいるのだけれど、むしろだからこそ逆に、見たこともない女性器よりは想像がしやすかった。どう扱けばそれが勃起するだろうかだとか、射精するときにどんな顔をするだろうかだとか、声は零すのだろうかだとか、前立腺を刺激してみればどうなるだろうかだとか、背中や尻といわず、その腹や顔にむけて射精してやればどうなるだろうかだとか、尻の穴に性器を入れたら気持ち良いのだろうかだとか。
 今振り返れば正直よく自分を誤魔化しつづけてこれたな、と思う程度には最低で下品なことばかり考えていたと気がついた。自分の性格が大きく捻れ曲がっていることは自覚していたが、これはひどい。

「……兄さんが知ったら嫌われちゃうかな」

 ベッドの縁に腰を下ろし、その寝顔を見下ろしながら呟いた言葉にずきり、と胸の奥が疼いた。
 素直に口にするには恥ずかしいし、そんなことを言えば燐が調子に乗るだろうから決して言葉にはしないが、雪男だって唯一の家族として燐のことが大切だし好きだとも思っている。そうでなければ「兄を守る」だなんて決意を胸に抱いたりなどしない。守りたいし、泣かせたくないし、悲しませたくない。難しいかもしれないが、幸せになってもらいたいと思っている。思っていたはずだ。
 けれど、奥村雪男は奥村燐を、快感によがらせ泣かせたいという意味を込めて愛している。
 そう認めざるを得なかったその日は、雪男にとって間違いなく人生最悪の日であり、もともと光などほとんど見受けられなかった自分の将来が、真っ暗に陰った瞬間でもあった。
 これから先、双子の兄だけを愛し続けて生きていくことになるだなんて冗談ではない。ひとりで大事に抱えて暖めていられるような、生半可な愛情ではないのだ、これは。

「兄さん、好きだよ。愛してる」

 音として紡がれたそれは燐の脳には届いていないだろう。
 けれど、自分で認めてしまったからには仕方がない。押さえることも隠すことも不可能となれば、あとはぶちまけて盛大に拒否られるか、あるいは受け入れさせるか。
 燐は押しと情に弱いところがある、彼が悪魔であり孤独であり、雪男は人間だけれど唯一絶対の味方であると思いこませ信じ込ませ、そこにつけ込めばあるいはもしかしたら。
 今後の作戦を頭の中で展開しながら、雪男はくつり、とどこか影のある暗い笑みを浮かべた。
 「毒を食らわば皿まで」という言葉はきっと、こういうときのためにある。




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2012.09.02
















恋愛感情と性欲が直結する兄弟。