終焉の鳥、静寂の蝶。


 終焉は鳥の羽を羽ばたかせ、静寂は蝶の羽を背に舞い降りる。
 詩人の転がす比喩のような言葉が、違うことなく事実を表しているということを知るものは少ない。

 ひらひらと、宙を舞う蝶を見かけた。腐臭の満ちる虚無界では珍しいそれに視線が捕らわれる。真っ青な羽を広げる蝶を見て思うことは綺麗だとか不気味だとかではない、ただひたすら美味そうだ、ということ。悪魔にだって感性というものがある。美しいと思う心も恐怖を抱く心もあるが、それらを差し置いてただひたすらその小さな蝶が美味そうだ、とそう思った。纏う淡い光から、あれが何らかの魔力により生み出されているのだろうと分かる。さほど力のなさそうな蝶ではあったが、それでもその魔力が今まで見たことがないほどまでに極上な甘さを湛えていると本能的に察した。
 ひらひらひらひらと舞うそれに導かれるよう足を踏み入れた廃墟。昔は名のある悪魔が住んでいたのかもしれないが、今や見る影もないほど荒れ果てている。蝶を追いかけて石の廊下を進み、そうしてたどり着いた屋根のない寝室。
 寝台の上をひらひらと、青い蝶が数匹。そこに横たわるものから放たれる香りに誘われるように、舞い踊っていた。
 月の明りに照らされる肌は白磁のように透き通り、触れただけでひび割れてしまいそうな儚さがある。悪魔に対し儚い、と思うのも何か間違っているような気もするが、寝台に投げ出され手足は細く、黒いコートに腰を覆われた裸体も華奢だと分かる。通った鼻梁に伏せられた瞼を縁どる睫毛は、少し離れた場所からでもはっきりと目に出来るほど長かった。ふっくらと柔らかそうな唇は僅かに開き、まるで何かを誘っているかのよう。力のある淫魔でもここまでの嬌艶さは放たないであろう、しかもただ眠っているだけで。くらくらと、眩暈すら覚える香りに思わず喉を鳴らしたところで。
 ふぅわり、と頬を掠め飛ぶ、青い何か。
 それが果実に集る蝶ではなく、頭の上から尾の先まで真っ青な、一羽の鳥だと気が付いたときには既に終焉が訪れていた。蝶に誘われ踏み入れてはならぬ場へ足を向けた愚かな悪魔は、真っ青な羽を持つ鳥の炎に全身を包まれ焼き尽くされる。
 小さな音を立てて終焉を齎す炎の側をかつり、と靴を鳴らして通り過ぎる悪魔がひとり。歩み寄った寝台の縁へ腰を下ろし、すやすやと眠るものを見下ろした。

「兄さん」

 口元を綻ばせ、彼を呼ぶ、いつまで寝てるつもり? と。
 額に掛かる前髪を払い、頬を撫でて唇を辿った。呼びかける声に意識を浮上させた彼は、押し当てられた指先に気づき、ちゅう、と吸い上げる。

「おはよう、兄さん」

 ちゅ、ちゅ、と弟の指を吸う兄は、真っ青な瞳を向けゆうるりと微笑んだ。見るものによって無邪気とも、凄艶ともとれる笑みは、ただ血を分けた双子の弟にのみ向けられる。最後にかり、と指先に牙を立てた後、「おはよ、雪男」と最愛の名を口にした。
 虚無界に神として在る魔神の炎と血を受け継ぐ双子の悪魔、兄の名を燐、弟の名を雪男と言う。人間のような名であるのは、以前は彼らの半分がそれでできていたからだ。ヒトとアクマから成るふたりは物質界に産み落とされしばらくそちらで生きた後、虚無界へ下った。
 滑らかな肌を惜しげもなく晒したまま身体を起こした燐は、肩にとまった真っ青な鳥へ頬をすり寄せる。弟の化身とも呼べる青い炎の鳥もまた、彼にとっては愛すべき存在だ。彼らの操る炎は互いだけは決して焼かない。
 ちらり、と視線を向ける先には真っ青な炎。

「……また何か燃やしたな、お前」

 手渡されたシャツに腕を通しながら言った燐へ、「害虫駆除をしただけだよ」と弟は答える。

「餌が無防備に転がってるから、馬鹿な虫が集まってくるんだ」

 掃除が大変だよ、と嘯く雪男へ、しばらくの間を空けて「餌っつのは俺のことか、こら」と兄が唇を尖らせた。

「つか、勝手に炎を使うなっつってるだろ」

 眉間にしわを寄せて口にされた文句へ、「僕の炎だよ」と雪男は肩を竦める。

「僕がどう使おうと勝手だろ」

 兄さんだって好きに使ってるんだし、と言えば、そうだけど、と燐は面白くなさそうに頬を膨らませた。そうして白く細い右手の人差し指でくぅるりと、宙に円を描く。寄ってきた蝶は燐の炎の化身。未だ燻っている弟の炎に向かってひょい、とそれらを放り投げるように指を動かした。

「お前は俺のもんなんだから」

 あんなゴミに炎を使ってやるな勿体ない、と燐は憤る。たとえ先に待つものが終焉であっても、残酷ささえ見える程美しい弟の炎に焼かれるなど、極上すぎる刑罰だと燐は言った。
 整った顔も身体も体温も、響く声も擽る吐息も、操る炎も、弟のすべては燐のものだ。そして燐のすべては雪男のものでもある。
 それは否定しないけどね、と言いながら手を伸ばした雪男は、兄の後頭部を捕えて顔を引き寄せた。ふわり、と掠めるようなキスを一つ。くすぐったさを覚えるほどの可愛らしい触れ合いに、燐はくすくすと楽しそうな笑い声を零した。

「ちゃんと、最後は兄さんに食べさせてあげてるだろ?」

 そう言った雪男が視線を送る先では、真っ青な蝶が揺れる炎の中へ飛び込んでいったところで、同時にするりと青い炎は消え失せた。
 灰も焦げ跡もなく、まるで始めから何もなかったのだと言わんばかり。ただ痛いほどの静寂が残こるそこに真っ青な蝶が舞い降りる。
 美味しかった? と尋ねれば、燐は満足そうに口元を綻ばせて頷きを寄越した。
 だからもっと、と強請る言葉が続くだろうことは半ば予測しており、「さっきあれだけ食べたのに?」と雪男は笑いながら問う。するりと悪戯な手が撫でるのはコートに隠された燐の腹部。飛び出た腰骨を引っ掻いて太腿まで下りた手は、更にその奥へと指を伸ばした。
 ん、と僅かに眉を顰めるその表情は、目にするだけで網膜が溶けてしまうのではないかと思うほど香しく、甘い。

「……僕も、馬鹿な虫の一匹、ってことかな」

 誘われるがまま兄の首筋へ唇を落とし思わずそう呟けば、「アホなこと言ってんじゃねぇよ」と燐が笑う。

「こんな美味そうな虫がいて堪るか」

 お前こそが極上の餌だろう、と放たれた言葉に、「兄さん専用の、ね」と弟もまた笑って答えた。
 ぎしり、と寝台の軋む音がする。腕を伸ばし、互いの肌を弄りあうふたりが求めるものは魂の片割れだ。深く深く、輪郭さえも朧となるほど絡まり合う。



 終焉は鳥の羽を羽ばたかせ、静寂は蝶の羽を背に舞い降りる。
 青き炎を抱く魔神の息子たちがそれらを齎しているのだ、と知るものは少ない。
 何故ならば、認識と理解、終焉と静寂がほぼ同時に訪れるから。
 静寂に犯された蝶を唇に纏わせ、終焉を孕んだ鳥を背に抱く、双子の悪魔の間を遮るものは虚無界物質界どころか三千大千世界を跨いでも最早何も無いだろう。




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2012.06.26
















中二病満載すぎて恥ずかしい。
一時ほどPixivに上げてましたが下げてこちらに移動。