安定剤


 正十字学園旧男子寮六〇二号室には双子の兄弟が生活をしているが、彼らの起床、就寝の順番は基本的に日々同じであった。睡眠時間を平均より長く必要とする兄が先にベッドに入り、弟より遅く起き出す。何か特殊な事情がない限りそれは変わらず、従って兄が弟の寝顔を見る機会というのはひどく少なかった。それは逆に、弟は兄の寝顔を見る機会を多く持つということでもある。
 洗い場で歯を磨いて戻ってきた燐が、俺もう寝るわー、と弟へ声をかけた。

「うん、おやすみ」
「おー。お前もさっさと寝ろよ」

 この会話もほぼ毎日かわしており、それに「分かってるよ」と雪男が返すまでがワンセットだ。しかし今日は「あのさ、兄さん」と作業の手を止めこちらへ視線が向けられた。
 ベッドの上枠へ設置されている簾を下ろそうとしていた燐は、その手を止め何だ、と振り返る。

「眩しいなら部屋の電気、消すけど?」

 僕ここのライトあればいいから、と卓上のスタンドライトを指さす弟からの突然の提案に兄は首を傾げた。燐がいつでもどこでも眠れるという、図太い神経をしていることなど、誰よりも知っていると思っていたのだけれど、どうして突然そのようなことを口にするのだろう。見くびってもらっては困る。

「大丈夫、俺はそんなことで寝れなくなるような、小っせぇ男じゃねぇし!」

 どん、と背後に効果音でも背負っていそうな勢いで言えば、うん威張って言うことじゃないよね、という返された。「だったら、」と続けて口にした雪男が指さしたものは、今まさに燐が下ろそうとしていた簾。
 もともと見ず知らずの他人同士が相部屋となる寮であるため、完全なプライベート空間も必要だと考えられたのか。簾を下ろしてしまえば、ベッドの上は外から遮断された場所となる。この寮へ来た当初は存在自体に気が付いておらず、何のためにあるのかも分からないくらいだった。
 簾がどうかしただろうか、と今度は逆方向に首を傾ける兄を見やって、「なんで下ろすの?」と弟は言った。どうやら燐が毎晩簾を下ろして眠るのは、部屋の明かりが眩しいためではないのか、とそう思ったらしい。
 確かに、この簾の役割を雪男に説明してもらって以来、燐はほぼ毎晩下ろして眠っている。もちろん理由がないわけではない。それなりに広いベッドの上は、簾を下ろして外の世界を遮断すればちょっとした秘密基地気分が味わえる、という子供じみた理由が二割。残り八割は当然、弟のため、だ。
 短絡的ですぐ頭に血が上る性格をしているため、燐を知るものたちは彼を自分勝手な性格だと思いがちである。しかし燐が少ない脳を回転させた結果はじき出す解答は、九割九分弟のことを思った故のものだった。

「いや、お前の気が散るかなって」

 勉強に仕事にと、その年にして多くの物事を抱える多忙な弟は、睡眠時間が少なくても済むという体質(あるいは性質かもしれない)を活かし夜遅くまで作業をしている。けれど彼が疲労や睡魔に襲われないわけではなく、眠たいのを我慢して仕事をしている横で、呑気に眠っている兄弟がいれば腹立たしく感じるのではないか。そう思ったのだ。弟が好きでやっていることだ、と突き放せるほど、燐は非情にはなれない。
 そっちの方が集中できんじゃねぇかって思ってさ、と当たり前のように言う燐を見つめ、雪男は大きくため息をついた。何やら言いたげな様子に「なんだよ」と眉を顰めれば、モニタへ向き直った弟が口を開く。

「逆に下がってる方が部屋が狭くなったみたいで気になるよ」

 気遣いは嬉しいけど、と一応付け加えてくれはするが、余計なことだと言わんばかりの態度に腹が立たない方がおかしいだろう。こちらが勝手にやっていたこととはいえ、弟を想っての行動にその言い方はないと思う。ちっ、と舌打ちして「細けぇ男だな」と吐き捨てた後、燐は半分下ろしかけていた簾を巻き上げて固定した。

「これで満足かよ」

 半ばやけになって放った言葉へ返事はなく、雪男はちらりとこちらへ視線を向けただけだった。もう一度舌打ちをして、ぼふり、と布団に身を投げ出す。兄弟の言い合いにまるで興味のない猫又が、枕のすぐ左で丸くなって寝息を立てていた。
 ぷすー、ぴすー、と鼻を鳴らして寝るクロを起こさぬようにそっと撫でながら、癒されんなぁ、なんでうちの弟はあんな可愛げがなくなったんだろうなぁ、と思っていたところで、「っていうかさ」とその可愛げのない弟が言葉を放つ。

「昔からずっと同じ部屋だったのに、今さらすぎるよね」

 呑気に眠る姿を腹立たしく思うのではないか、そんな気遣いをどうして今見せるようになったのか。そこに疑問を覚えたらしい。燐の中で心境の変化でもあったのか、とでも思っているのだろうか。
 変化はあった、それこそありすぎる程。
 心境だけではない、環境、状況、燐を取り巻くすべてのものが変わったといっても過言ではない。けれど。

「……昔も、言ったことあるだろ、俺」
 上で寝ようか、って。

 燐の言葉に少しだけ考え込んだあと、そのときのことを思いだしたらしい。雪男は「ああ」と声を上げた。

「あれ、そういう意味だったのか」

 恥ずかしくて理由をはっきり口にしていなかったため、燐が言った言葉の裏に今の今まで弟は気が付いていなかったらしい。
 修道院で同じ部屋を使っていた双子の兄弟は、一台の二段ベッドで寝起きしていた。小さな頃であるためどうしてそう決まったのかは覚えていないが、燐が下を使い、雪男が上で眠る。その位置はあの修道院を出ざるを得なくなるまで変わらなかった。それは泣き虫で臆病な割に頑固だった雪男が、頑として上の段を譲らなかったせいでもある。
 梯子を上った先にある空間というのは、たとえただのベッドであっても小さな子供には魅力的に映るものだ。幼い燐もそう思い、何度か弟へ位置の交換を提案したものだ。けれど雪男はふるふると首を横に振り、最終的には泣きそうに顔を歪める。兄さんがどうしてもっていうなら、と譲歩しようとする姿勢に絆され、雪男が嫌ならいいけど、と結局は燐が折れる羽目になるのだ。小学校高学年に上がる頃にはほとんど諦めていたこともあり、燐もベッドの位置について口にすることはなくなっていた。正直眠ることができればどこでも良かった、というのも多分にある。
 ただ、一度だけ。
 中学二年の頃くらいだっただろうか。学校にほとんど行っていなかった燐とは異なり、優秀で勤勉な弟は夜遅くまで勉学に励んでいた。今思えば祓魔師の訓練や任務で帰りが遅くなっていたこともあったのだろうが、そのときの燐はまだ何も知らず、塾で勉強に明け暮れて戻ってきているという、弟本人の証言を疑いもせずに信じ込んでいた。疲れて帰ってきたうえでさらに勉強をすると机に向かうのだから、本当にこいつは自分の弟だろうか、と何度も思ったものだ。
 狭い部屋だ、勉強机に向かっていれば嫌でもベッドが目に入る。かりかりと鉛筆を走らせる横で呑気に眠っている存在があれば、たとえ自分が選んでそうしているのであっても苛立ちを覚えても仕方がないだろう。それくらいは馬鹿だ馬鹿だと散々罵られてきている燐でも分かること。弟と一緒に頑張ってやることはできない、それならばせめて邪魔にならないようにしてやるのが兄というものだろう。
 そんな感情に突き動かされ実に数年ぶりに、「ベッドの位置、変わんね?」と提案した。上で眠れば気配は殺せずとも、視界からは外れることができるだろうと考えてのことだ。けれど状況は変わらず、そのまま燐が下のベッドを使い続けることになる。中学二年の雪男は知恵がついた分(そして燐の知らぬところで大人の世界に触れてしまった分)理論的に説得するという手を取ってきたのだ。要約すると、眠たいのに上に上がるだけの気力があるのか、起きた時に梯子を落ちないと言い切れるのか、梯子を上下するわずかな時間でも睡眠に当てた方が良いのではないか、そんな意味合いだった。けれど最終的には「兄さんがどうしてもっていうならいいけど」と昔と変わらず譲歩しようとする弟に、「や、どうしてもってわけじゃねぇんだけどさ」と燐が答え、「だったら今のままでいいじゃない」と現状維持が言い渡されたのである。雪男の話を聞いているうちに段々と上のベッドで眠ることが面倒になってきたというのもあったため、結局すんなり受け入れてその話は終わりを見たものだ。
 上手く言いくるめられてるなぁ、と思う。雪男の言うことはいちいち尤もで、その通りだと頷けるものではあったけれど、それにしてもどうにも誘導されたようにしか思えない。お前さぁ、ともそもそと布団のなかに潜り込み、弟の方へ頭を向けて口を開く。

「なんか、昔っから嫌がるよなぁ、」
 寝てる俺が見えなくなるの。

 はっきりそうと思ったわけではない。ただなんとなく、そのように見えるという印象があるだけだ。だからどうだ、というその先まで思考を至らせているはずもなく、思いついたことをそのままぽろりと口にしただけだったのだが。
 不意に生まれた空白。
 何馬鹿なこと言ってるの、という返事くらいはありそうなものだけれど、と雪男を見れば、眼鏡とホクロを定位置に収めた彼はここから見ても分かるほど顔を赤く染め、口元を覆っていた。
 あまりにも珍しい光景に燐の思考もぴたりと止まる。

 ええと……あれ?

 同じように口元を手で押さえ、弟を凝視する。
 あの表情。
 どう見ても羞恥を堪えているようにしか見えない顔。
 もしかして、もしかしなくても。
 図星、だったのでは、ないだろうか。
 ええと、と口の中でもごもごと言葉を転がすが、具体的に何を言えばいいのかが分からない。くそっ、と悔しげに吐き捨てられた弟の呟きが耳に届き、燐もまた顔を赤くして雪男から視線を逸らすしかなかった。

 頭悪いくせに何でこういうときだけ鋭いのかな、と何やらぶつぶつ言っている弟が、昔から燐を案じてくれていたことを知らないわけではない。自分の生まれ、背負わされた血を知ってからは、以前よりも正確に理解できた、ような気もする。
 燐は不安定な存在なのだ。ひとりが通るだけで精いっぱいの細い道、両側が切り立った崖で一歩踏み外せばお終い、というような場所を突っ走っているような、そんな人生だ。下を見なければ周囲に受け止めてくれる地面がないことも知らぬまま走って行けただろう。以前の燐はまさにその通り、何も知らぬまま呑気に歩いていた。けれど雪男は違う。己の、そして双子の兄の置かれた状況を早くから理解し、踏み下ろす先に道があることをずっと願ってくれていた。
 安心したんだ、と雪男はこちらへ視線を向けずぽつりと言う。それは燐に聞かせるためのものではなく、もはや独り言に近い呟きだった。

「真夜中、任務から帰ってきて、寝てる兄さん見ていらってくることあったけど」

 むしろそう思うことの方が多かった、けれどそれでも、まだそこにいる。呑気に眠っている、生きている、ただそれだけのことにどれほど安堵を覚えたか。
 だからその顔を見ることが出来なくなるのが嫌だった。部屋へ戻ればすぐに分かるよう二段ベッドの下で眠ってもらいたかったし、簾を下ろしてベッドを覆ってもらいたくなかった。ただそれだけだ。
 たとえ双子の兄弟であっても、燐は雪男のそんな恐怖を理解してやることができないだろう。そのことをもどかしい、と思う反面、だからこそ思いつくこともある。
 ゆき、と呼ぶ声が幼く舌足らずな色を帯びたのは、睡魔に襲われつつあるということと、ひたすらに自分を案じ想ってくれる弟が可愛く思えて仕方がないからだ。返事はなかったが構わず燐は言った。

「にーちゃんな、でっけぇ男なんだよ」

 たとえすぐ側で怒声が響いていようが、煌々と明かりがついていようが爆睡できるほどにはでかい男なのだ。

「だから、さ」

 寝てる途中に誰かが隣に潜り込んできてもまるで気にならないのだ、と。
 そう続けたられた言葉は確かに弟に届いている。
 しばらくして、うん、と返ってきた幼い返事に満足を覚え、燐はそっと目を閉じた。
 雪男の恐怖を理解してやることはできなくとも、減らしてやることくらいならば、きっと自分にもできるはず。






ブラウザバックでお戻りください。
2013.07.16
















Pixivでの素敵企画へ参加したもの。
お題は『二段ベッド』『真夜中』『「これで、満足?」』でした。