初恋


 少し苛々していた、ということを否定はしない。その原因となる事柄を挙げていけばきりがなく、そのうちの八割には兄の存在が関わっている。
 けれどだからといってその兄に八つ当たりをしてもいい、ということはない、こともないかもしれないけれど、よくはないだろう。たぶん。
 つい先ほどまで、つきっきりで燐の課題を見ていたため手持ちの作業がまるで進んでいない。今日中に授業のプリント作成、昨日の任務の報告書作成を済ませ、次に向かう任務のための資料の読みこみを行っておきたかったのだけれど、果たしてどこまで終えられることやら。最低でも作成しなければならないものだけでも作っておきたい。
 そう思いながら眉間を揉みこみ、モニタに向かう。ちらりと左側へ視線を向ければ、椅子に座っていたときには死にそうな顔をしていたというのに、課題が終わって安心したのか、燐は上機嫌な様子でベッドに寝転がって漫画雑誌を捲っていた。
 どうせなら早く眠ってくれたらいいのに。
 時計を確認すれば、いつもの兄ならばあくびを零すか、とろんとした目を擦っているかしていそうな時間帯なのだけれど、どうしてだか今日はそんな様子がまるで見られない。背中に乗せた猫又と笑顔で何やら会話をしている。
 ふぅ、と小さく息を吐き出し、できるだけ兄を意識の外へと追いやった。彼に課題をやらせることは雪男にとって最重要事項であり、それに付き合ったことは決して時間の無駄ではないはずなのだ。むしろこうして苛々して作業効率を落としている今の時間こそ無駄になりつつあるわけで、意識を切り替えなければ、と思っていたところで、「なあ、ゆきおー」と呼びかけられる声。返事はしなかった。けれど兄は構わず言葉を続ける。そういうひとなのだ。適当に相手をしたらそのうち満足して大人しくなるだろう。そう思っていた。
 シュラがー、だとかしえみがー、だとか、勝呂がー、だとか。他愛ない言葉を聞き流し、うんだとかへぇだとか、相づちを打っていたなか、「そういえば、」と燐が持ち出してきた話題。

「雪男の初恋っていつ?」

 志摩としえみに聞いてこいって言われてさー、と彼の口にもっとも上る人物名とともに紡がれた問いかけに、「どうでもいいでしょ、そんなこと」と答える。本当にどうでもいいことだと雪男には思えたし、それを教える必要性がまるで感じられない。

「どうでもよくはねぇだろ、初恋だぞ、初恋! なんつーか、ほら、こう、甘酸っぱい思い出的な何かがあったりするじゃん!」
「……兄さん、少女マンガでも読んだの? 恋愛感情に味はないし、そもそも初恋は実らないっていうし、良い思い出にはならないんじゃないの」

 言葉を紡ぎながらも雪男の視線と思考は目の前の作業に向いており、正直兄の様子はほとんど気にかけていなかった。「え、」と少しだけ驚いたような声が耳に届く。

「初恋って、実らねぇもんなの……?」
「知らないよ。でもよくそう言われるしね。っていうか、そもそも今の兄さんがそういうこと考えててもいいと思ってるの? もっとほかにやらなきゃいけないことも考えなきゃいけないこともあるでしょ」

 無駄な話をするくらいならさっさと寝て明日ちゃんと起きられるようにしたら、と続けた言葉に返事はなかった。普通なら、雪男の知っている兄のテンションなら、「うるせぇな」だとか「分かってるよ」だとか、怒った口調で返ってくると思っていたのだけれど。急に静かになったことを不思議に思い、「兄さん?」と視線を向ける。もしかして話している途中で寝落ちでもしたのでは、と思ったけれど、そうではなかった。ベッドの上、先ほどまでと同じ体勢ではあったけれど、そこにいる燐は血の気と表情を一気に失ってしまったかのような、そんな様子だった。
 傷つけた、ととっさに状況を理解する。今の雪男の言葉、放った一言に燐を傷つける要素があった。しかも怒りより先に悲しみを覚えてしまうほど、深い何かが。
 兄さん、ともう一度呼びかければ、燐ははっ、とようやく意識をこちらに向けた。己が固まっていたことに気づいたのだろう。すぐに雪男から視線を反らせるが、もともと根が正直なひとだ、抱いた動揺はまるで隠せていない。
 違う。無駄なことをしているならさっさと寝てくれたらとは思っていたけど、こんな風に黙らせたかったわけではない。傷つけたいわけではないのだ。
 ふぅ、と息を一つ吐き出して、「別にね」と雪男はできるだけ穏やかな声音になるように言葉を紡いだ。

「兄さんに恋愛をするな、って言ってるわけじゃないんだよ」

 もちろん現状を鑑みるにそのような暇も余裕もないことは、きっと彼自身分かっているだろう。ただ諦めてもらいたくはないのだ。

「……僕の自分勝手な希望だってのは分かってるんだけど、僕は兄さんに『ひととして』生きてもらいたい」

 そのためには誰かを好きになることも、誰かと笑いあって、誰かと幸せになることも含まれていると思うのだ。

「相手のあることだから絶対はないけど、兄さんの初恋だって上手くいく可能性もゼロじゃないよ」

 だから、と続ける前に、身体を起こした燐が「サンキュ」と笑って言った。

「うん、分かってる。雪男が言いたいことも、全部じゃねぇかもしれないけど、何となく分かる」

 今の燐に恋愛をしているような時間はないこと、けれどひととしての心まで殺してもらいたくないこと。すべて燐の将来を心配してくれているが故であるということ。さすがに分からないほど鈍くはない。そう言う兄ではあったけれど、それでもその顔には諦めの色しか浮かんでいない。恋愛そのものを諦めているわけではないとすれば、いったい何が燐にそんな顔をさせているのか。
 大丈夫、と燐は笑う。

「俺の初恋が実らない理由って、俺が悪魔だからとか、そういうことじゃねぇから」

 分かってんだ、と言う兄はどうやら彼の『初恋』そのものを諦めているようだ、とようやく気がついた。それも簡単ではないようなことが原因で。自分の初恋は決して実らない、と燐は諦めている。でもたぶん、と彼は静かに言葉を続けた。

「俺はずっと、死ぬまで、そいつのことが好きなままなんだろうなぁ……」

 諦め、切なさ、寂しさ、愛おしさ、様々な感情が織り混ざったそのときの燐の顔はひどく儚げで、知らない、とそう思った。
 消えてしまいそうなほど弱々しく、それでいて息を呑むほど綺麗に笑う燐なんて、知らない。十五年も兄弟として誰よりも近くにいたはずなのに、兄がこんな顔をして笑うことを今の今まで知らなかった。
 兄に、こんな顔をさせるような誰かがいることなんて、知らなかった。
 同時にわき起こる、さきほどまでとは異なった種類の苛立ち。それは燐に対するものなのか、自分自身に対するものなのか、あるいは燐の想い人に対するものなのか。
 それほどまでに想う相手がいたのなら、どうして相談してくれなかったのだろう。どうでもいい話ばかり口にして、肝心なことは何も伝えてくれないだなんて。
 こんなにも近くにいたのに、どうして兄の恋に気づかなかったのだろう。一番彼のことを理解しているつもりであったのに。
 兄の想い人は、どうしてこんなにも泣きそうな顔を彼にさせているのだろう。自分ならこんな顔をさせたりはしないのに。
 胸のうちにもやもやと蟠るものがそのどれなのかは分からない。どれとも違うような気もするし、すべてが混ざっているようでもある。雪男だって兄に言っていないこと、言えないことを山ほど抱えているのだからそこで彼を責めるのは筋違いだ。兄を理解しているつもりであったのは所詮思い込みにすぎなかっただけだろうし、そもそも相手は彼が想いを寄せている人物だ。「自分なら」と考えること自体おかしいだろう。
 そう思いはするものの、どうしても胸の内に巣食う感情が追い払えない。
 苛立ち、焦燥感、あるいは寂寥感、心細さ。
 なんとも言い表せないそれらが、後々大きな歪みを生み出すような、取り返しのつかない何かに発展するような、そんな予感だけは確かにあった。




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2015.03.17
















恋愛については燐兄さんのほうが一歩先を歩いてる感じ。
Pixivより。