最後のエデン


 希望というものはきらきら輝いているものだ、と思っていた。
 いや、おそらくはそうであるのだろう。
 ただその輝きが燐にとっては真っ青な光であっただけで。
 そしてその光がひとにとっては絶望と恐怖の対象であっただけで。

 ゆき、雪男、と呼びかけた相手がうっすらと目を開く。いつの間にか兄よりも大きく育ってしまったその身体を膝の上に抱え込み、雪男、ともう一度名前を呼んだ。にいさん、と血の気の失せた唇が動いた、ような気がした。

「生きてるか?」

 その問いかけにひゅ、と喉を鳴らして呼吸したあと、掠れた声で「今はね」と弟は返す。そう、今は。今このときは、辛うじて彼は生きている。
 血で汚れた口元を軽く拭い、土埃で汚れた額を撫でてやればぐったりとしたまま雪男が小さく笑った。そんな弟を見下ろして燐もまた笑みを浮かべる。
 やっぱりさ、と口にした言葉がいやに静かにあたりに響いた。

「あいつらにとって俺ってのはただの悪魔で、道具だったんだな」

 そのように扱われている、と知ってはいた。受け入れているつもりでもあった。
 けれど燐だって祓魔師となってもう数年経つのだ。その間、上に言われるがまま悪魔を討伐してきたし、危険な任務に単身向かうことだってあった。良いように使われている、と雪男にはずっと非難されてきたけれど、そうして頑張っていればいつかはきっと認めてもらえる、分かってもらえるはずだと、信じてきたのだ。
 でももう無理だわ、と燐はへらりと笑って吐き捨てる。
 横たわったまま兄を見上げる雪男は、少しだけ痛々しそうに顔を歪めた。そんな弟の頬を労わるように撫でる燐は笑みを浮かべたまま。ごめんな、と謝罪を紡ぐ。
 雪男はずっと心配してくれていたのだ。燐の楽観的な考え方、敢えてそうしていると分かっていても、それでも決定的な判断ミスを引き起こすのではないか、と。彼が望むとおりにはいかないのではないか、と。
 そうして心配してくれるひとがいることに甘えていた。雪男の優しさに甘えていたのだ。
 その結果が現状。
 ずっと信じてきたものが突如奪われ、孤独が迫りくる。
 そっか、と小さく笑った雪男はそのまま咳きこみ、真っ赤な血を吐いた。折角拭った口元がまた血に染まる。なあ雪男、とゆっくりその背を摩ってやりながら問うた。

「お前、死ぬのか?」
「うん」

 簡潔な返答。ちらりと横たわったままの弟の腹部に目をやれば、地面に広がっていくほど血が溢れていた。この傷では、出血量では助からない。当然だ。雪男は人間なのだ、腹に穴を開けられて何の治療もしなければ、やがては死に至る。治療をしてくれる人間などいやしない。何せふたりの周囲には真っ青な炎が広がり、ほかの誰かの気配はないのだから。

「俺を置いて死ぬんだな?」

 その問いにも弟は弱々しい声で「そうなるね」と肯定を返してきた。何の迷いもない、もはやそれは確定した未来。
 そうか、と返すほかない。
 どうしてこんな穴が雪男の腹に開いてしまっているのか。
 燐の大切な、たったひとりの双子の弟が血を流す羽目になっているのか。
 ここはある意味戦場だ。最終決戦場ともいえる。
 物質界で生きる人間が、悪魔の脅威におびえ、抵抗を見せてきた祓魔師たちが、その根源を滅そうと選んだ舞台。この戦いで燐に与えられた役割は、青焔魔を祓魔すること。青い炎に同じ力で立ち向かい、そして勝利することだった。
 これで何もかもが終わる、と思っていたわけではない。けれど、青焔魔は養父の敵でもあった。聞けばかの悪魔に苦しめられたものも多くいると聞く。害のない悪魔を討伐するのはとても気が重たいが、害があるのならば考える必要もない。この炎が役に立つのならいくらでも道具として使えばいい、それで青焔魔が倒せるのなら安いものだ。
 そんな決意を固めて参戦していた燐を、騎士團は躊躇わず捨て駒にした。おそらくはもともとそういう作戦であったのだろう。燐が青焔魔と対峙し戦闘をしている間に纏めて祓魔してしまおうとしたのだ。
 そのことにいち早く気がついたのは同じく戦場にいた双子の弟だった。燐と近しい場所にいるため、彼もまた作戦の内容について詳しくは知らされていなかったはずだ。けれど気がついた、このまま燐を向かわせては彼の命も危ういだろう、と。
 そうして放たれた凶弾から燐を庇った結果がこの穴。
 兄さんっ、と切羽詰ったように自分を呼ぶ弟の声。振り返った先にいた最愛のひと、崩れゆく身体、広がる血だまり。その先の記憶が曖昧だ。けれど燐の身体を覆う青い炎は治まりそうもなく、おそらくは周囲にいたはずの祓魔師たちや悪魔たちを根こそぎ焼き尽くしてしまったのだろうと思われた。

「分かった。とりあえず、俺まだやることあるから、ちょっと行ってくるな」

 肌を汚す血は赤いのに、その肌自体はどんどんと白く、青くなっている。血を流し過ぎているのだ。徐々に体温も下がっており、冷たくなっていくことに耐えられなかったのかもしれない。そっと雪男の身体を地面へと横たえた。そんな燐へ、「兄さん」と弟は虫の息で言うのだ、「早く来てね」と。

「じゃないと僕、さみしくて泣いちゃう、かも」

 続けられた言葉に思わずふはっ、と吹き出した。
 そりゃ困るな、と笑いながら燐は言う。
 昔から、それこそ子どもの頃から、弟の泣き顔だけは苦手だった。雪男が泣いていると居てもたってもいられなくなって、早くそばにいって抱きしめて良い子良い子をしてやらないといけない、そんな気分になってしまうのだ。

「大丈夫だ、雪男。青焔魔ぶっ倒したら、すぐにお前追いかけて死んでやるよ」

 地面に突き立てたままだった刀を手に腰をあげる。刀身を覆う青い炎がきらきらと輝いて見えた。

「だからお前は安心してここで死ね」

 ひどい言い方だ、と自分でも思う。この言葉だけを聞けば、まさしく悪魔の言葉だとも思われるだろう。けれど向けられた本人はと言えば、ひどく嬉しそうに、子どもの様な顔をして「うん」と笑って頷いた。
 燐の身体に纏わりつく青い炎は、こちらの意志が通じているようで、通じていないような感覚がある。爆発させることは可能だろうが、鎮めることはきっと不可能。雪男が倒れた直後の暴走で青焔魔にもダメージを与えているはずだが、まだ消滅はしていない。視線を向ける先から感じるプレッシャーで、そのことは断言できた。一歩足を進める。

「雪男、俺さ、」

 聖騎士になる以外にもう一個夢があったんだよ、と言葉を続けるが、背後から返事はない。しているけれど小さすぎて聞こえないのか、あるいはもはや返事をする力も残っていないのか、あるいは。
 それでも燐は続けた。双子の兄が、生を終えかけている弟へ、最後の言葉を向ける。

「たぶんさ、ひとに言ったらすっげーありきたりって言われるだろうし、もしかしたら夢って言えないものかもしれねーんだけどさ」

 それでも絶対に叶えたかった夢だった。

「でもなんでだろうなぁ。なんかもう、目の前が青く光ってて、よく見えねぇんだ」

 あんなにも大切に想っていた夢だったはずなのに、もはや燐の視界では上手く捕えることができそうもないらしい。残念だなぁ、と思う反面、もしかしたらこの光の先に臨んだ世界があるのではないか、とも思うのだ。

「俺の夢が叶うような、楽園みたいな場所」

 それはとても小さく平凡な夢。
 ただただ、誰よりも大切な片割れと、一緒に生きたいというごくありふれた夢の叶う楽園。
 あればいいなぁ、と歌うように呟く悪魔は、真っ青な炎を纏ったまま更に一歩前へ。

 兄は悪魔として生まれ、弟は人間として生まれた。
 望んで得たわけでもない不条理な運命のなか、そこそこ頑張ってきたほうだとは思うのだ。
 頑張って頑張って、その結果すべてを失う羽目になってしまっている。
 ただそれだけのことだ、とにんまりと口元を歪めた。
 きっと背後の地面に横たわっている弟も、同じように笑っているだろう。
 なんとなくそう思う。


 この世界は燐の弟を殺した。
 この世界は雪男の兄を殺した。

 そんな絶望しかない場所に、もはや未練など欠片もない!




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2015.03.17
















ひたすらに明るい狂気のほうが怖い気がする。
Pixivより。