擬声語(べちゃり)


 兄はとても強いひとだと思っていた。
 だからこそとても弱いひとだったのだ、ということに気がついたのは、彼が壊れたあとのこと。あの強さが見せかけだったとは思わない。ただ彼のすべてではなかった、それだけのこと。
 こんなはずじゃなかったのに、と誰に対し呟いているのかは分からない。
 こんなはずじゃ、なかった。
 けれどこれを望んでいなかったか、と問われたら咄嗟に返答はできない。
 兄が傷つくこと、兄が悲しむことを排除すべきだという感情と、兄を誰にも奪われたくない、自分だけのものにしたいという欲望を、いかに共存させるか、それが問題だ。
 浴室で行為に及ぶだけの冷静さがあるのなら、もう一歩正気を取り戻してもらいたいものだ、とついため息が零れる。かといって、あともう一歩前に進んで、このスプラッタを部屋で展開されたら大いに困るのだけれど。
 今度はなぁに、と浴室のガラスのドアに背を預け、呆れ気味に尋ねる。一昨日は感覚のなくなった(とおそらくは彼が錯覚しているだけの)右脚があるかどうかを確認するために。その前は舌があるかどうか確認するために。その前は己に血が流れているかどうかを確認するために。その前は己が痛みを覚えるかどうかを知るために。その前は。
 さまざまな理由をつけて自傷を繰り返す兄の身に、傷跡は残らない。ただ心にだけ深く治らない傷を刻んでいく。
 振り返ったその青い瞳にはうっすらと涙がはっており、不安げに揺れている。どうしよう、と兄は今にも泣きそうな声で言った。

「俺、心臓が、ない」

 兄の纏うシャツは、彼の流す血で既にどす黒く変色してしまっている。タイルを流れる赤いそれに、普通の人間ならば意識を保つのが難しい量だな、と冷静な自分が判断した。
 どうやら今日は、心臓があるかどうかを確認したかったらしい。おびただしい量の出血は、胸を切り裂いたからか。

「どこ、落としてきたかな。なあ、ゆきお、どっかで見なかった?」
 おれの、しんぞう。

 心臓がない生物はいない。心臓がない人間も、いない。人間であるには心臓は必要不可欠なパーツ。
 心臓を失くしてしまった。探しに行かないと、と血まみれの悪魔が血の気の失せた顔をして言うだなんて、とんだ喜劇、あるいは笑えぬ悲劇。
 それは人でありたい、と声なき声で紡がれる悪魔の叫び。
 悪魔の力と悪魔の炎、悪魔の身体。人間という生き物からかけ離れていくことを怖れるあまり、少しばかり頭のネジがおかしくなってしまった双子の兄。
 兄はとても強いひとなのだと、そう思っていた。
 どんな状況も変化も自分なりに受け止め、受け入れ、進んでいくのだろう、と。
 勝手にそう思いこんでいた。
 きっとそこに己の入る余地はなく、己の力が必要とされることもない。
 それがただ悔しくて、悲しくて、苛立たしくて。
 浴室の中、立ち込める鉄臭さに脳が揺れる。気持ち悪い、吐き気がする。けれどこの中でなければ兄は手を伸ばしてくれない、たすけてゆきお、と縋ってきてくれないのだ。
 切り開いたのであろう胸の傷から煙が上がっている。悪魔の自己治癒能力とは何度見ても気味の悪いものだ。人間ではあり得ない。医者の要らぬ身体。己の知識も技術も何の役に立たない身体。どれほど望んでも縋っても希っても、彼が再び人間に戻ることはできないというのに。
 愚かしく、そして愛おしい悪魔。
 心臓を一緒に探して、と伸ばされた腕を引き寄せ、血に濡れた兄を抱き寄せる。バカだなぁ兄さんは、と言いながらシャワーヘッドのある洗い場へ。心地よい温度であることを確認し、その白い身体へ湯を当てた。血を洗い流したあとには、いつものように傷一つない肌が現れるだろう。

「心臓ならここにあるじゃない」

 彼の白い手を取り導く先は己の左胸。とくとくと、鼓動を刻んでいるそれを兄は感じ取ってくれているだろうか。分かる? と尋ねれば、彼は小さく首を縦に振った。

「僕たちは双子の兄弟でしょう?」

 存在としては別個のものであるが、羊水からふたりで分け合って生きてきたのだ。

「だから、兄さんのものは僕のものだし、僕のものは兄さんのもの」

 この肉のなかでどくどくと蠢いているそれは確かに雪男の心臓であるが、だからこそ燐の心臓でもある。もちろん燐の身体のなかにも心臓はあるはずなのだが、彼がそれを感じとれない、信じられないというのなら、人間の身体を持つ雪男の心臓を使うほかない。あるいはむしろ人間の心臓こそ、彼が探しているものなのかもしれない。
 兄さんの心臓はここにあるよ、と濡れた頭を引き寄せ、左胸に押しつけた。望まれるのなら切り開いて見せてやっても良いが、残念ながらそうすることで雪男の心臓は機能を失う可能性のほうが高い。それは燐も理解しているようで、その申し出には首を横に振って拒否を返される。そこまでしなくても分かる、と彼は小さく呟いた。

「おれの、しんぞう」

 あった、と雪男を見上げてふんわりと、嬉しそうに、笑みを浮かべる。それはまるで、小さな子どもがなくした宝物を見つけたかのような、あるいは大好きな母親の姿を見つけたかのような、そんな安堵感の溢れた笑顔。
 幼い表情の兄にキスを一つ落とし、「もっとちゃんと教えてあげようか」と細い腰へ腕を回す。この身体のなかで確かにふたりの心臓が動いているということを、速まる鼓動を、こうして抱き合うより深い接触によって知ることができるだろう。
 そのほうが安心できるよね、と唆す雪男へ、兄は素直に頷いた。

「もっと、教えて」

 あどけなくセックスをねだる唇へ、噛みつくような口づけを落としながら、肌に張り付いたシャツを引きはがす。血に濡れたそれがべちゃり、と浴室の床に落ちて音を立てた。





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2014.06.03
















人間としての心を失いたくない悪魔。

Pixivより。