免罪符


 ふたり分の食器なんてたかがしれていて、後かたづけに要する時間はさほど長くない。特に料理に関してだけは几帳面で器用な燐は片づけをしながら作業をするタイプであるため、食事ができあがったときには調理に使った道具は洗い終わっているのだ。あとは食器を洗うだけであるため、燐はだいたい雪男に「先に戻ってていいぞ」とそう言う。手持ちの作業がせっぱ詰まっているときには言葉に甘えることもあるが、さすがに何もしないままというのは落ち着かない。食事の支度はもちろん、掃除や洗濯といった家事をこなす比重も燐のほうが多いのだ。時間があるときくらいはできることをやっておきたい、という気持ちは大きい。
 だからその日も、いつものように戻って良いぞ、と言われはしたものの、手伝うよ、と皿洗いを申し出た。だったらそっちは任せる、と流しを離れた燐は、どうやら明日の弁当の仕込みをしているらしい。そういう作業があるのなら、やっぱりできるだけ片づけは手伝いたいところである。
 かちゃかちゃと食器の重なる音、何かを混ぜる音、冷蔵庫を開ける音、少し調子の外れた燐の鼻歌。広い厨房に響くそれらの一つ一つは小さなものだが、おそらく一般的な家庭で起こる生活音となんら変わりはなく、普通だなぁ、と思いながら雪男は皿を濯いでいた。燐も雪男も、この場所でごく普通に生活をしている。ただふたりの立場、状況、環境が少しばかり異常、異様であるだけで。

「なぁ、雪男」

 普通なのか異常なのか、よく分からない兄が、不意にのんびりとした口調で弟を呼んだ。明日の晩飯何食いたい? とでも続けるかのように、彼は言う。

「お前は俺を殺せる?」

 言葉の意味を一瞬理解し損ねた。
 けれどそれを兄に悟られてはいけないと思ったため、わき起こった感情を押し殺し、雪男は答える、「殺せるよ」と。
 能力的に、心情的に。どちらの意味でそれが可能か、と問われたのかは分からない。だからとりあえず、現実的に可能かどうかは棚上げにして、雪男の希望を口にした。
 悪魔を兄に持つ双子の弟は常々思っている。
 戸惑いなく双子の兄を屠ることのできる自分でありたい、と。
 そのきっぱりとした答えを耳にした燐は、くるり、と振り返り、こちらへ視線を向けた。
 ふうわり、と浮かべられた笑顔に添えられた言葉は謝辞。

「さんきゅ」

 己の命を絶えさせてくれる存在があることを喜ぶ悪魔。その言葉、表情がどれほど弟の心を揺さぶるのか知らぬまま、彼は次の瞬間には顔を曇らせる。

「俺は、お前に何をしてやれるんだろうな」

 雪男にはたくさん迷惑をかけてきた。現在進行形で迷惑をかけているし、未来予測として迷惑をかけ続けるだろう。その上、生の行く末まで委ねてしまっている。そんな弟に、兄として何か返してやれることはないのだろうか。彼のためにしてあげられることは何だろう。
 何もできない、としょげる燐を前に、少しだけ考えた雪男は「じゃあ、」と首をちょこんと傾けた。

「僕を許してよ、兄さん」

 許すとはいったい何を。
 言葉にされずとも顔に現れた疑問へ、雪男は「全部」と臆面もなく答える。

「僕はね、兄さん。兄さんにたくさんの嘘をついてきた」

 悪魔が見えるということ、祓魔師の訓練を受けてきたこと、自分たちの出生のこと、彼のなかに流れる血のこと。

「でも、それは……」

 仕方のない嘘であった、燐はそう理解している。もちろん何も教えてもらえていなかったことに対する寂しさ、悲しさはあるけれど、彼らがそれが最善と判断したのだから、燐があれこれ言うべきことではないだろう、と。けれど弟は緩く首を横に振る、それだけじゃないんだ、と。

「小学校のときも中学校のときも、兄さん、たくさん喧嘩して、あまりひとと仲良くなれなくて、ひとりでいることが多かったでしょう?」

 そんな燐を手当して、もう少し学校へ行けないものか、周りとうちとけられないか、友達をつくれないか、とそう心配する言葉をかけていた。

「それも、嘘」

 実際には燐にそうしてもらいたい、だなんてこれっぽっちも考えていなかった。彼が優しいことを雪男は知っていたし、雪男だけが知っていればいいと思っていた。兄に友達はいなくて良かった、そのほうが燐を独り占めできてむしろ好都合でさえあったのだ。
 まっすぐで強くて優しい兄が、心ないものたちからの攻撃で目に見えない傷を負うこと。それを良しとしているわけではなかったし、そうして燐を傷つけるものはひとり残らず消えてしまえばいいと今でも思っている。ただ燐すら知らない彼の秘密を知っていた雪男は、多少なりとも彼をその攻撃から守ることができていただろうし、慰めてやることだってできていた。

「泣き虫の僕をずっと守ってくれてた強い兄さんを、兄さんが知らないところで僕が守ってるんだって、兄さんより僕の方が上なんだって」

 優越感、独占欲、様々な感情を燐に対して抱いていたし、実際ぶつけていたかもしれない。

「僕は醜い嘘つきなんだよ」

 己の弱さを完全に認めるほど、大人になりきれてはいない。けれど、すべてから目を背けていられるほど子供でもないのだ。

「今だって、兄さんには隠してることがあるし、兄さんのこと怒ってばかりだし」

 過去の雪男が兄に対してしてきたこと。現在進行形でしていること。

「たぶんこれからも、僕は兄さんにたくさん嘘をつくし、たくさん怒るし、たくさん傷つけると思う」

 そして未来の己がするだろうこと。
 それらすべてを含めて。

「兄さんに、許してもらいたいんだ」

 もちろん、誰かに迷惑をかけるだとか、ひととして誤ったことをしているのなら叱ってくれて構わない。そこに兄弟以外の第三者が介入するのであれば、兄の小言に耳を傾けよう。けれどそうでないのならば。

「僕を、許して。僕の全部を許すって」

 その言葉さえあれば雪男は生きていける。進んでいける。双子の兄の命すら抱え込む役も喜んで引き受けよう。
 まっすぐに燐を見つめて紡ぐ言葉、受け取る方もまた雪男から視線を逸らせようとはしなかった。己の願望のためか、あるいは弟の瞳にせっぱ詰まった何かを感じ取ったのか。
 嫌な表情一つ浮かべることなく、ごく当たり前のように、「いいぞ」と燐は答えた。

「許すよ、雪男。お前の全部を」

 過去の弟がしてきたこと。今の弟がしていること。未来の弟がするだろうこと。たとえそれが世間一般から非難されるようなことであっても、燐に対してなされることであれば、すべてを許す。すべてを受け入れる。そう約束しよう。
 静かに、けれど力強く言い切られた言葉を耳にした双子の弟はふうわりと、それこそ小さな子供のように幼い笑みを浮かべて「ありがとう」とそう言った。ここ最近では見たことがないほど、心の底から安堵している、何の憂いもなくなり未来がバラ色に染まっているとでもいうかのような、そんな笑顔だ。
 濡れた手を拭いた彼は、冷蔵庫のすぐそばに立っていた燐のもとまで歩み寄ってくるとそのまま腕を伸ばしてぎゅうと抱きついてくる。

「必要になれば、責任以て僕がこの手で殺してあげるね」

 そのときが来なければいい、というのが兄弟揃っての願いではある。けれど、どれほど祈り願っても、努力し苦労しても、報われるとは限らないのが現実だ。どうせ殺されるのならば弟の手に掛かりたい。そう望むのは、もしかしたら現実から目を反らしているから、なのかもしれない。
 顎をとらえられ、頭をわずかに上向かされる。かすめ取るようなキスを一つ。少しだけ燐の様子をうかがったあと抵抗がない、と判断したのか、今度はしっとりと、体温を、呼吸を分け与えるかのように雪男は唇を重ねてきた。兄さん、と小さく呟かれる言葉。抱きしめる腕に力が籠もる。更に身体が密着し下半身が押しつけられ、熱い、と思った。弟の体温も、言葉に込められた想いも、どくどくと脈打つ鼓動も、くすぶっているのだろう欲望も、何もかもが熱くて抱きしめられているだけでとけてしまいそうだ。

「…………これが許してもらいたいこと?」

 背後の冷蔵庫に押しつけられたまま、首筋に顔を埋めている弟へ問いかける。未来の雪男は、燐を殺すこと以外にもなんらかの「許してもらいたいこと」をするつもりなのだろう。弟の口調からなんとなくそう読みとってはいたけれど、こうして身体を押さえ込まれてキスをされることを、(そしておそらくはこの先の行為についても)許してもらいたかったのだろうか。髪の毛を避け、露わにした首や耳に吸いつきながら、「これも、かな」と雪男は笑った。頬に両手を添えられ、三度目のキス。今度は深い、ぬるりとした何かが唇をこじ開けようとしている。舌だ、雪男の、舌。それが燐の中に入る許しをもらいたがっている。

「ん、っ、ふ……っ」

 許す、と言ったのは燐だ。雪男が燐にすることならばどんなことでも許す、と。くちゅくちゅと音を立てて唾液をかき混ぜる舌の動きも、ぐりぐりと意図を持って燐の股間を押し上げてくる太股の動きも、燐はすべてを許すのだ。だって、相手は雪男なのだから。

「ふっ、ぁ、あ……っ」

 ようやく解放された唇から、熱い吐息とともに小さな声がこぼれる。体内を駆けめぐる痺れが声帯を刺激して勝手に声を紡ぐのだ。こんなことされても、と器用な両手と舌を駆使し、兄にそんな声をあげさせながら、弟は静かに口を開いた。

「僕を許してくれるの?」

 再度の問いかけは、慎重な、あるいは臆病な彼らしい。弟の変わらぬ一面に気づいて口元を緩ませた燐は、「許すぞ」と答えた。

「全部、許す。ちゃんと許してやる。だから、」

 お前はなにしてもいいんだよ、と続けられた答えの語尾は、かみつくようなキスのせいで雪男の口内に吸い込まれてしまう。いいのだ。どんなに乱暴に、どんなに乱雑に扱われようとも、雪男のすべてを許して受け入れる。それが燐の役目なのだから。
 兄さんありがとう、と少し震える声で言った弟は、顔をあげ、にっこりと笑った。


「兄さんを追いかけて死ぬ僕を許してくれて」




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2015.03.17
















それさえあれば生きていけるふたり。
Pixivより。