奥村兄弟のセイカツ(学校)


 中学校時代、学校でどう過ごしていたのか記憶にないのは、そもそも登校すらほとんどしていなかったせいだ。勉強は嫌いだったし友達もいなかった。教室にいたところで腫れ物に触るような視線しかむけられず、たまに聞こえてくるものといえば高校生と喧嘩をして相手を病院送りにしただとか、多人数相手でも平気で殴り合いをするだとか、警察沙汰になっただとかそんな噂と、あんな兄で弟がかわいそうだという陰口。自分の行いで自分がとやかく言われるのは仕方ないにしても、弟にまで影響が及んでいることを心の底から恥ずかしく、情けなく思い、消えてなくなってしまいたかった。
 あの頃からといってもまだ一年も経っていないのだけれど、そんな短期間に精神的に成長するわけもなく、まだ中学の頃からほとんど変わっていないと思う。そんな自分がこうして高校に毎日登校していること、まるで分からない授業にも関わらず教室にいることが未だに信じられない。
 大きな目標があるから、かもしれない。あるいは己の存在の根本を知って少しばかりの安定を覚えたから、かもしれない。あるいはほとんど初めてといってもいいような友達ができたから、かもしれない。
 苦痛ではないのだ、教室にいることが。学校にくることが。入学当初はちらちらとこちらを伺う視線も、尾鰭のついた噂話も、そして弟を引き合いに出された陰口も聞こえていたが、自分がおとなしくしていれば自然と消えていくものなのだ、と半年経って理解した。
 授業については正直今から頑張っても難しい気がするためほぼ諦めており、授業中は眠気がこない限り祓魔塾の教本を眺めて過ごしている。覚えるよう努力するより前に、文字を読むこと、本に触れることから慣れないとどうにもならない、と弟に言われたからだ。理屈や理論を覚えずとも、実践でなんとかならないかとも思うのだが、それでひとに迷惑をかけてはきっと中学時代の二の舞なのだ。成長しなくては、頑張らなくては、とそう思う。

 化学の授業の展開される教室、黒板に描かれる記号も文字も燐にとっては呪文のようだ。手元には「初級悪魔学」の教本を広げているが、半年ほど眺めているせいだろうか、化学の教科書に比べまだ多少呪文度合いは悪魔学の方が少ない、ような気がする。そんなことを思いながら繰り返し目を通している(けどまるで覚えられていない)本から顔を上げ、ふとグラウンドの方へ視線を向けた。燐の席は窓際の一番後ろだ。問題児という認識をされているのか、基本的にここから動くことはほとんどない。
 ほかのクラスの体育の授業を眺めても面白いことはなく、いつもならまたすぐに教本へ目をやるか、あるいは睡魔に負けてしまうのだけれど。

(……あれ?)

 ぼんやりと眺めたグラウンドでは、男子生徒たちがサッカーを行っているようだった。青いゼッケンをつけたチームとつけていないチームと。一つの小さなボールを追いかけ回している。
 そのなかに見覚えのある姿を見つけ、燐はずい、と顔を窓の方へ近づけた。ほかの生徒たちより抜きんでた身長、細いようでしっかりとした体つき。

(雪男だ)

 青いゼッケンをつけてグラウンドを走り回っているのは、誰よりも近しい存在である双子の弟だった。その優秀な成績で奨学生として入学した弟は特進科に在籍している。

(特Aの体育だったのか)

 それならば、と視線を走らせれば、とてもよく目立つ金髪も発見できた。ゼッケンをつけていないところをみると、雪男とは違うチームらしい。

(つーか勝呂がキーパーとか、ゴール狙いづれぇ!)

 ゴール前に立つその姿に吹き出しかけて慌てて両手で口を押さえた。いくらほとんど聞いていないとはいえ今は授業中だ。教師やクラスメイトたちの邪魔はしてはならない。ふぅふぅと息を吐き出してなんとか笑いの発作を堪えたが、グラウンドから視線を外すことはできなかった。
 校内で雪男の姿を見かけること自体が稀で、ましてや授業の様子など初めて見る。雪男が授業を受けている間は燐も授業中であるか、あるいはサボって校内にすらいないため、もしかしたら今後こんな機会など訪れないかもしれない。それならばこの珍しい光景をしっかり目に焼き付けておかなければ、と思ってしまうのも仕方がないだろう。
 雪男が聞けば「兄さんは僕の保護者か何かなの?」と言いそうなことを思いながら、白黒ボールの行方と雪男の動きを追いかけた。

(お、そこだ雪男、いけ、取れ!)

 敵陣のゴールへ向かってドリブルする男子生徒(体格は良いがスピードがない)の前に雪男が立ちふさがる。右、左、とフェイントをかます様子、無駄のない脚裁きから、もしかしたらあの男子生徒はサッカー経験者かもしれない。

(そういえば、雪男ってスポーツとか、できんのか……?)

 よく体調を崩して寝込んでいた小さな頃は、走るのも遅くて体力だってなかった。けれどいつの間にか燐の身長を追い抜いて成長していた双子の弟。祓魔師として戦う姿を見る限りでは、全然身体が動かないという訳ではないと思うが、それとこれとは話が別だろう。実際燐は体力やパワーに自信はあるが、スポーツ、特に球技などが自分にできるとは到底思えなかった。勝負事になるとすぐに熱くなってしまうし、そうなるとどんな失敗(たとえば相手チームの誰かを負傷させてしまうとか、ボールやゴールポストを破壊するだとか)をやらかしそうで怖い。それが分かっているからこそ進んでやろうとは思わないし、そもそも燐をチームメイトとして置いてくれる仲間もいない。体育の授業だってチーム戦のあるものは基本眺めてばかりいる。

(あ、抜かれた! ばか、もうちょい頑張れよ雪男!)

 サッカー部(ということにしておく)がボールを軽く右斜め前へ蹴れば、そこには当然のように別の生徒がいた。伸ばした雪男の足はわずかにボールに届かない。雪男を追い越して進んだ男子生徒へ、パスを受けた生徒がボールを蹴って戻す。すぐに身を翻す弟、大きな図体に似合わず俊敏な動きだ。真っ直ぐボールを追いかけるかと思えば、少しだけ視線を巡らせたあと雪男は右斜め前へ駆ける。
 と、まるでその動きを読んでいたかのように、タイミングよく雪男の方へボールが飛んできた。右足でそれをカットして足元に捕え、すぐさまゴールの方へ大きく蹴り上げる。

(ナイス、雪男!)

 サッカー部(推定)とゴールの間には、ゼッケンを付けたチームメイトがふたりほど立ちふさがっていた。彼らを抜いて正面から突破するのは得策ではない、と考えた彼は、ゴール右側にマークなしでいた味方へパスを出したのだ。雪男はその行動を予測し、だからこそそちらへ向かって走っていた。

(すげぇ、さすが雪男! うちの弟マジかっけぇ!)

 音を出すことができるのならば、声をあげて拍手をしたいところだったが、さすがにそれは堪えておく。が、べったりと窓ガラスにはりついて目を輝かせたり悔しそうに顔を顰めたりしているため、彼の意識が完全に外に向いていることは明らかであった。

(勝呂、止めんな、止めんなよ、折角雪男が取ったボール……あー! 止めやがった! あのトサカ!)

 折角雪男のチームに点が入りかけていたというのに、勝呂が繰り出されたシュートをしっかりと受け止めてしまう。惜しい、と指を鳴らしかけて慌てて右手を抑えこんだ。定期的に思い出さないと、静かにしなければならないことが頭のなかから抜け落ちてしまいそうだ。(残念ながら弟の試合に夢中な悪魔の耳には「おーい、おくむらー? 聞いてるかぁ?」という化学教師からの呼びかけは全く届いていない。)
 高校の授業におけるサッカーの試合に明確なポジションが決まっているわけもなく、生徒たちは思い思いにコートの中を走り回っている。先ほどまでディフェンスに徹していた雪男も、今は攻撃に転じていた。取り立てて中心にいようとしているわけでもなさそうなのにボールが回ってくるのは、パスを出しやすい位置に必ずいるからだろう。

(お、今度は雪男とあいつの一騎打ちか! 行け、雪男! そんなマッチョに負けんな!)

 ボールを持った弟の前に立ちふさがるは、先ほど雪男にパスをカットされてしまったサッカー部だ。ふたりの周囲に他に生徒はおらず、一番近くて敵側のゴールキーパー勝呂がいるだけ。味方がマークを振り払ってやってくるのを待つか、あるいはサッカー部を突破するか。雪男はどうするだろうか、と思い息を呑んで見守っていたところで。

「ッ!?」

 がたん、と大きく椅子を鳴らして窓に額を押し付ける。呼びかけるのを諦めていた教師やクラスメイトの視線が集まってきているが、燐はまるで気がついていなかった。

(あいつ、今わざと……っ!)

 奪ったボールを、サッカー部が高く蹴り上げている。それをチームメイトたちが追いかける前にホイッスルが鳴った。試合終了ではなく、一時的に止めるためのものだろう。同じコートにいる彼らに詳細が見えたかどうかは怪しいが、今明らかにあのサッカー部はわざと雪男に体当たりをしてこけさせたのだ。燐にははっきりとその様子が見て取れた。バランスを崩した雪男は、恐らく咄嗟に腕を庇ったのだろう(竜騎士として使い物にならなくなっては困る部位だ)、派手に顔面から地面にぶつかった。
 今授業中であることなどきれいさっぱり燐の頭から抜け落ちてしまい、衝動的に窓を開け、「てめぇうちの弟に何しやがんだっ!」と叫ぼうとしたところで。

「なにしよんじゃ、てめぇはっ!」

 グラウンドから別の怒声が響き渡った。肩透かしを食らった形になり、ぽかんとしたままその声の主へと視線を向ける。それは燐もよく知る人物、雪男とサッカー部のすぐ前でゴールを守っていた勝呂だった。確かに彼の位置ならばふたりの様子が良く見えただろう。

「なんだよ、別に何もしてねぇよ!」

 そう叫んだあと、サッカー部は雪男を指さして何やら言い募っているがはっきりとは聞き取れない。しかし対する勝呂はかなり腹を立てているようで、「あぁっ!?」と凄みのある声で返していた。あれは怖い。その風貌も重なって、たぶん下手なチンピラよりも怖い。

「お前、今わざと当たってったやろうがっ!」

 きちんと見ていたのだ、と言う勝呂へ、言いがかりだ、とサッカー部が怒鳴る。あれは雪男が勝手にこけたものだ、と白々しく言い切った男に掴みかかろうとした勝呂のそばに駆け寄る小柄な生徒、坊主頭であるため子猫丸だろう。(どうやら特AとA組の合同体育であったらしい。あとから聞いたところによると、体育教師が出張でいないためなかば自習のような形で行われていた授業だったらしい。)
 俺はそういうんが一番好かんのじゃ、と怒る勝呂の言葉は、そのまま燐の心情でもあった。たかが体育の試合とはいえ、スポーツとは正々堂々と行うものだ。技巧を駆使してパスをカットしたりボールを奪ったりするならまだしも、先ほどの彼の手口はスポーツマンシップからは程遠い位置にある。

「いいぞー、勝呂! もっと言ってやれー!」

 窓から身を乗り出して声を上げれば、勝呂たちを含めグラウンドにいる生徒全員の視線がこちらに向いた。注目のされように少し怯みつつひらひら手を振ってみれば、「やかましいわ!」と勝呂の怒気が今度はこちらに飛んでくる。同意してやったというのに、どうして自分が怒られているのか燐にはさっぱり分からない。
 そんな勝呂の隣では立ち上がった雪男が額を抑えて肩を落とし、子猫丸が手を振りかえしてくれていた。

「や、つかむしろ、お前の声んがうるせぇし」
「ええから! お前は真面目に授業受けろや!」

 こちらを見上げて怒鳴りつけてくる言葉に、はたと思い出す。そうだ、授業中だった、と慌てて顔を戻そうとしたところですぱこん、と乾いた音が教室内に響いた。

「おーくーむーらぁー?」
 授業中だっつーのにいい度胸してんなぁ?

 恐る恐る振り返れば、鬼の形相で教科書(おそらく今燐を叩いた凶器はそれだろう)を手にした化学教師が立っている。ええと、と視線を逸らせて言葉を探していれば、伸びてきた腕がぴしゃん、と窓を閉めた。

「でもだって、ゆき、弟が……」
「ほう? 主席入学特Aクラスの双子の弟くんがどうしたって?」

 背後に「ゴゴゴゴ」という効果音でも背負っているのか、と思うほどの迫力で見下ろしてくる教師に押され、「いえ、何でもナイデス……」と縮こまる。どう考えても自分が悪いため口にできる言い訳はない。ごめんなさい、と下げた頭にもう一発、すぱん、と教科書が振り下ろされた。

「お前さんね、授業ついてこれねぇのはしょうがないにしても、せめて聞いてる振りくらいはしなさいよ、振りくらいは」

 途中から完全にサッカー観戦しやがって、どんだけ弟が好きなんだよ、と怒られ、かっと顔が火照る。好きじゃねぇし! と怒鳴り返しそうになったが、堪えることができる程度には燐も成長しているのだ。くすくすとクラスメイトたちの間からも笑いが零れているようで、耳まで熱くなるほど恥ずかしかった。
 どんどんと縮こまる生徒を前に反省の色を見てくれたのか、教師ははぁ、とため息を吐いたあと「そんなに弟くんが好きなら、弟くんのためになるお仕事をあげよう」とそう口にする。

「昼休みに化学準備室まで来なさい」

 できるだけ早くにね、と続けられ、思わず「えぇーっ」と不満が零れた。昼休みは貴重な昼寝の時間だ。そこで少しでも休んでおかないと、放課後の祓魔塾で悲惨なことになる。(休んでおいても十分に悲惨な状況だ、と雪男あたりは言うかもしれない。)
 しかし見上げた化学教師(彼は燐よりも背が高い、雪男と同じくらいあるかもしれない)はにっこりと(少し怒りを堪えた顔をして)笑った。

「これくらいで許してやろうって言ってんでしょーが!」
 つべこべ言わず来ること!

 ぱこぱこと教科書で頭を叩かれ、「はぁい」と燐はしぶしぶ了承の返事をした。



***     ***



 件の化学教師は少しばかり変わった人物である、と燐は認識していた。若干特殊な背景を持って入学してきた燐に対して向き合おうとする教師はほとんどいなかったが、彼だけは他の生徒と同じように扱ってくれているような気がする。気さくで話しやすいため生徒たちには人気があるらしいが、そもそも教師というだけで苦手意識が先立ち、一対一で顔を合わせても何を話せばいいのかまるで分からない。一体どんな説教が展開されるというのだろう。弟のためになる仕事がどうの、と言っていたが、雑用を押し付けられるだけでありますように、と願いながらとぼとぼと化学準備室(場所が分からなかったので通りすがりの生徒をつかまえて尋ねた)へと向かった。

「おー、逃げずに来たな、良い子だ」

 化学室の隣にある狭いその部屋は、授業の資料や実験用具、はては教師の私物と思われる雑誌の類が乱雑に置かれた明るい場所だった。ほかの教師が来ることはないのか、完全に彼の私室のような雰囲気だ。丁度窓から昼の日差しが入り込んでおり、室内もぽかぽかと温かい。
 高校生に向かって「良い子」はないだろう、と思ったが、この手の人物に言い返したところでスルーされるか、倍以上になって返ってきそうだと口を噤んでおく。それで何をすればいいんすか、と尋ねた燐へ教師が指したのはプリントの束だった。聞けば特進科で行う授業のためのものだという。授業内容や進む速度が普通科とは異なっているため、特進科でのみ授業を行う教師がいる科目もあるらしいが、化学については彼が両科の一年生を担当しているのだとか。

「で、先生も忙しいわけ。だいっすきな弟くんのクラスのためだから、それくらいはやってくれるっしょ?」

 「大好きな」という部分にわざと力を込め、にやにやと笑いながらいう教師を真っ赤な顔で睨みつける。別に好きじゃねーし、とごにょごにょと言えば、「えぇー」とわざと驚かれた。

「俺の授業中にもかかわらず、べったり窓にはりついて試合観戦した挙句、窓開けて喋ってたのにぃ!?」

 信じらんなーい、と女生徒のような口調で言われ、手にしたプリントを握り潰しそうになるのを必死に堪える。言い返す言葉を見つけられず、頬を膨らませてぷい、とそっぽを向けばからかい過ぎたと気づいたのだろう、笑いながら「ごめんごめん」と教師が頭を撫でてきた。

「家族を大切に思ってんのは全然悪いことじゃねぇから、恥じる必要はないよ」

 ただ授業は真面目に聞け、せめて聞くふりをしろ、と続けられた言葉は尤もで、もう一度「すんません」と謝罪を口にする。

「そんで、奥村は何で途中で窓開けて叫ぼうとしたわけ?」

 当然教師は室内で授業をしていたわけだから、燐の行動の原因を知らない。あの場で尋ねなかったのはそれ以上授業から脱線させたくなかったからだろう。大人しく(というほどでもないが)外を眺めていた生徒が、立ち上がって窓を開けるだけの何かがあったというのか。尋ねられ、きちんと伝えられるか不安に思いながらとりあえず説明してみれば、「わざとってのは良くねぇなぁ」と化学教師も眉を顰める。蒸し返しても仕方がないと思っているのか疑う必要がないと思っているのか、燐の言葉を信じてくれているようだ。

「で、ふざけんなって、俺が叫ぶ前に勝呂が……」
「勝呂……ああ、あいつ、見た目はあんななのにすげぇ真面目なんだよな」

 ギャップが面白い、と笑う男は、やはり他の教師とはどこか違っているように感じた。そうそう詐欺だよなあの見た目! と燐が同意したところでこんこん、と準備室の扉をノックする音が響いた。

「失礼します、頼まれていた提出物を、」

 はいよー、という気の抜けた教師の返事を待って入室してきたものは、燐のよく知る人物で。

「ゆ、雪男!?」
「兄さん? 何でここに……」

 がたん、と椅子から腰をあげて声を上げれば、弟もまた驚いたように燐を見つめている。ひとり、こうなることが分かっていたのか化学教師だけは「おー、ごくろーさん、助かるわ」と雪男からプリントの束を受け取っていた。

「あの先生、兄がどうしてここに? あ、もしかしてさっきの四限の……」
「ご明察。あれ、俺の授業だったんだよねー」
「す、すみません! 兄がご迷惑を……!」

 左手に弁当の包みを持ったまま、雪男はぺこぺこと頭を下げる。

「っ、な、んでっお前が謝るんだよ! 悪ぃのは俺だろうが!」

 小学校、中学校時代にも燐が問題を起こしたとき、獅郎がこうやってよく頭を下げていた。それだってどうして自分が悪いのに獅郎が謝るのかよく分かっていなかったが、彼は大人で燐は子供だったためしょうがないとも思った。でも雪男は違う、年は燐と同じだし何より弟だ。兄のために頭を下げる必要など欠片もない。
 しかし雪男はそうは思わないようで、「もうしないよう言って聞かせておきますので」と言葉を続けている。もう止めろよ、と燐が止めに入る前に、「まあまあ」と化学教師が雪男の肩を叩いた。

「確かに授業を無視すんのはアレだけどな、お前のにーちゃん、なかなか面白かったぞ?」

 授業中、グラウンドへ目を向けたまま帰ってきそうにない燐をどうしたものか、と思っていれば、べったりと窓にはりついて嬉しそうに顔をほころばせたり眉を寄せたり、ととても忙しそうだったと言う。

「奥村兄見てるだけで奥村弟が活躍してるかどうかすぐ分かったよ」

 隣の席の醐醍院なんかずっと笑うの堪えてたぞ、と言われ、また顔が赤くなった。俯いてプリントを束ねる作業に集中してしまった燐には見えなかったが、雪男もまた顔を赤くして喜べばいいのか、飽きれたらいいのか、恥ずかしがればいいのか分からないというような、複雑な表情を浮かべている。もごもごと口を動かした後、結局雪男は「すみません」と再び謝罪した。だから何でお前が謝るんだよ、とぼそり呟けば、「兄さんがバカなことするからでしょ」と言葉が降ってくる。それは事実であっても弟の雪男が謝る意味が分からない。
 だから、と顔をあげて言い返そうとしたところで、「はいすとーっぷ」と教師に止めに入られた。

「兄弟喧嘩はあとにしなさい。奥村兄はちゃっちゃとプリント作って。弟、それ弁当、食い終わってんの?」
「あ、いえ……」
「え、何お前弁当食ってねぇの!?」

 時間を確認すれば、あと二十分ほどで昼休みも終わってしまうくらいだ。どうして食べていないのか、という疑問の視線に、「静かに食べれる場所、探してたんだよ」と少し疲れた声音で返答があった。提出用のプリントは集まっていたため時間を取られることはなかったが、一緒に食べないか、という女子生徒たちからの誘いを断るのに手間取ったらしい。モテ自慢だと僻めば良いのか、気の毒だと同情すれば良いのか。

「それならついでだからここで食べてきなさい。お茶くらいなら出してあげっから」
「え、でも、」
「もう昼休みも終わるっしょ。これから場所探すとなると食う時間、無くなるんじゃね?」

 教師の言葉も尤もだと思ったのだろう、そうですけど、と視線を逸らして口ごもった雪男だったが、そのときには燐は既に、机に散らかっていたプリントを綺麗に避け、弟が食事をするスペースを確保していた。ほれ、と椅子を脚で押しやれば、「蹴らないでよ」と雪男が眉を顰める。

「すみません、じゃあ……」

 そう言ってようやく腰を下ろした雪男の前から立ち上がり、「先生、ここにあるの、勝手に使ってもいいの?」とポットや急須を指さして燐が言った。

「勝手には使っちゃいかん」
「……使わせてもらっていーっすか」
「はいはいどーぞ。あ、先生はいらんぞ。自分でコーヒー入れっから」
「……俺もコーヒーがいい。先生、砂糖とミルクは?」
「お、何、入れてくれんの? 俺はブラックで。奥村弟もコーヒーにすっか?」
「あ、いいの、こいつ、飯んときはコーヒーとか飲まねぇから」

 雪男への問いかけに燐が答え、ふたり分のコーヒーと、弟のためのお茶を用意する。

「……なんかお前さん、慣れてんね?」

 お茶を入れる、コーヒーを入れる、という行為を自分のためにするのは当然だとしても、それをひとに出すとなるとまた所作が少し異なってくるものだ。ひどく自然に飲み物を配る姿に目ざとく気づいた教師はそう言うが、燐は「そうか?」と首を傾げただけだった。そもそも男子高校生が、自発的に他人のために飲み物を入れようと腰をあげること自体珍しいらしいが、燐にとっては何ら特別なことではないためぴんとこない。
 コーヒーをそばに置き、雪男の前に戻って再びプリント作りの続きを行う。正直何が書いてあるのかさっぱり分からない。日本語だよなぁ、と思う程度だ。複数枚ある紙を一枚ずつ重ねて束ね、ホッチキスでぱちんと止める、ということを繰り返しながら、「雪男」と弟を呼んだ。ちらちらと時計を気にしながら箸を動かしていた弟は、視線だけで「なに」と問うてくる。

「ゆっくり食えって。お前、急いで食うと腹痛くなるだろ」
「次教室移動なんだ」

 早く食べ終わらないと遅れてしまう、と急いでいるのは分かる。いつもより食べ方が雑だし、わずかな時間も惜しいようでコロッケに添えてあるソースすらあけようとしていなかった。

「いいから、ちゃんと噛んで食べなさい」

 ソースを入れた容器を摘み上げ、コロッケにかけつつ「あとで困んのお前」と言えば、「……分かったよ」と不服そうに顔を歪めながらも雪男が少しだけ食べるスピードを緩めた。そんなやり取りを見ていた化学教師は珍しそうに目を細めて笑みを浮かべる。

「そーしてっとよく似てるなぁ、お前ら」

 兄弟というレベルでいうなら容姿も似ているし、長く空間や時間を共有しているため所作も似てくる。口調は違うが喋り方もそっくりだ、と言われ、似ていない双子と言われ続けてきた兄弟は顔を見合わせた。

「……親父か修道院のやつらくらいだよな、俺らを似てるっつったの」
「そうだね……ひとに言われたのは初めてかも」

 ともに生活をしていた彼らなら、兄弟の似ている部分を見つけることもたやすいだろう。血は繋がっていなくても生まれたその時から一緒にいた家族なのだから。しかし、そうではない第三者に似ている、と言われたのは雪男の言うとおり初めてかもしれなかった。

「並んで喧嘩してないとこを見る機会がねぇからだろ、そりゃ」

 教師の言葉にそのとおりかも、と思いながら、プリントをパチン、とホッチキスで止める。そろそろこちらの作業は終わりそうで、見上げた時計は昼休み終了十分前を指していた。正面では弟もちょうど食事を終えたところだった。美味しかった、とお茶を飲みながら紡がれた言葉にそりゃ良かった、と笑って空の弁当箱に手を伸ばす。

「片付けとくからもう行け。俺、次は移動ねぇからまだ余裕あるし」

 ここから教室へ戻るだけなら五分もかからない。一度教室へ行って授業の準備をし、また移動をしなければならない雪男はそろそろ戻らないとまずいだろう。どうせ弁当箱を洗うのは燐だ、一緒に持って帰ってしまったほうが手間も省ける、と言えば、「ごめん、ありがと」と雪男は立ち上がった。

「先生も、ありがとうございました、お茶、ごちそうさまです」

 そう言って部屋を出て行こうとする弟を追いかけ、今日の帰りの予定を尋ねる。折角顔を合わせたのだ、せめて帰宅時刻が早いのか遅いのかだけでも分かれば予定(主に食事の支度について)が立てやすい。

「特に用事もないから遅くならないと思うよ」

 祓魔に関係のない教師がいるため言葉を濁してあるが、要するに塾のあとに任務は入っておらず、講師の仕事が終わればすぐに戻れるという意味だろう。それならば燐も夕食を少し待って一緒に食べた方がいい。分かった、と頷いて雪男を見送り、弁当箱を片付け終えると、空のカップを持って流し台(準備室にまで流し台があるのは化学室だから、だろうか)へと立った。

「先生のコップは?」

 空なら洗うけど、と声をかければ遠慮なく「よろしく」と差し出される。どうせ洗い物をするなら二つも三つも一緒だ。ついでに弁当箱も洗ってやろうか、と思ったが、布巾がなさそうなので止めておいた。
 そんな燐の背中を見やりながら、「よく似た兄弟っつーか……」と化学教師がぽつりと呟く。何、と振り返ってみるも、言葉の続きは得られなかった。
 彼が心のなかで、兄弟というよりむしろ夫婦みたいなやり取りだ、と思っていることを兄弟は知らないままでいる。







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2014.06.03
















第三者視点の雪燐をもっと書いてみたい、気がする。

Pixivより。