二番目に怖いもの


「授業中悪ぃな。おい、燐!」

 がちゃん、と講義室の扉が開かれると同時に、聞き覚えのある声が響く。別の授業を担当するグラマラスな女講師だ。彼女はまっすぐに己が剣技の弟子へ視線を向けて口を開いた。

「お前の弟がぶっ倒れやがったぞ。今医務室で寝てるから、帰りに拾いに来い」

 彼女の告げた言葉に「え!?」と驚きの声をあげたのは、呼びかけられた少年ではなく隣に座っている少女だった。

「雪ちゃん……奥村先生が倒れたって……」
「ああ、心配すんにゃ。ただの寝不足らしいから。あいつ隈すげかったしなー。今もぐーすか寝てやがるよ」

 怪我や病気ではないらしいということを知り、教室のなかに安堵の空気が広がる。話にあがった同じ年の講師が多忙な日々を送っていることを皆が知っているため、それでも心配なことに変わりはないが。

「若先生、働きすぎなんや」
「休んでなさそうですもんねぇ」

 教室の後ろのほうからそんな声があるなか、「大事なさそうで良かったね、燐」と少女が問題講師の兄へと声をかけた。しかしそれに対する返答はない。いつもの彼ならば少し賑やかなくらいの声があがるはずで、そもそもシュラが顔を出したときから何の言葉も放っていないこと自体がらしからぬ反応だ。

「……燐?」

 再度不思議そうに呼びかけられ、少年はようやく「そーだな」と静かに答えた。その視線は顔を覗かせている師へ向けられたままで、「シュラ」と同じ声音で彼女の名を呼ぶ。

「あとで迎えにいくからそこ動くな、っつっといてくれるか」

 くるくると表情が変わり、声のトーンもそれに伴って上下する、良くいえば明るい、悪くいえば落ち着きのない彼にしては、ひどく単調な言い方。ともすれば冷たくすら聞こえる声。その雰囲気に眉を顰めたのはシュラだけでなく、やり取りを聞く塾生たちも常ならぬ雰囲気に首を傾げている。しかし当の本人はほかに何か言うつもりもないようで、口を噤んだ燐を前に肩を竦めたシュラは、「おう」と返事をして戻っていった。
 塾の講義はこのコマで終わりであり、三十分ほど残っているだけ。中断された講義が再開され終わるまで、押し黙ったままであった燐の様子に、塾生たちはますます怪訝そうに眉を顰めるのだった。


**  **


 はた、と気がついたときには、馴染みのあるようでない天井が上に広がっていた。できるだけ事実を認識したくないと思っているのか、あるいは目覚めたばかりで脳がうまく働いていないのか。己が倒れてしまったのだ、ということを理解するまでしばし時間を要する。
 こうなってしまった心当たりがない、わけではない。高校生としての勉学や祓魔塾講師としての講義の準備、祓魔師としての任務、加え最近は悪魔薬学の研究者としての研究も平行していたためどうしても睡眠時間を削らざるを得なかったのだ。研究さえ一段落つけば休むつもりであったし、もう二、三日身体がもってくれたらよかったのだけれど、若さと体力を過信しすぎたらしい。

「失敗したなぁ……」

 疲労と寝不足。あとはカロリィ不足といったところか。点滴は済んでいるようだし、起きあがっても目眩や倦怠感はない。帰宅しても大丈夫なようなら帰らせてもらおう。そう思ったところでガチャリ、と医務室の扉が開いた。顔を覗かせたのはあまり会いたくない相手。

「よぉ、目、覚めたか」

 姉弟子にあたる彼女がそう言いながらベッドへと歩み寄ってくる。

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

 何か言われるより先にとりあえず謝っておけ、とばかりに口を開けば、嫌そうに眉を顰めたシュラは「まったくだ、このビビリメガネ」と文句を口にした。

「おめーの予定びっしりな手帳に、『体調管理』っつー項目、増やしとけボケ」
「……返す言葉もありません。これからは気をつけます」

 今回の件については全面的に雪男が悪い。そのため何をどう言われても仕方ないだろう。彼女からの罵詈雑言も甘んじて受けるつもりだ。そんな心境を察してくれているのか、目覚めたばかりだということで気遣ってくれているのか、小さくため息をついたシュラはどうやら矛先を治める気になってくれたようだ。もうちょい休んでろ、とベッドへ横たわるよう指示を受ける。

「授業終わったら燐がくるから一緒に帰れ」

 しかし続けられた言葉に、雪男の身体がびくり、と震えて固まった。ええと、と脳内でその意味を転がして考え、「兄に、知らせたんですか」とそれだけ口にする。

「……そりゃそうだろ。すぐそこに家族、いるんだぞ。知らせるだろ、普通」

 しかも雪男と燐は、兄弟ふたりだけでオンボロ寮に住んでいるのだ。保護者という意味ではメフィストにも知らせるべきなのかもしれないが、それよりまずともに暮らす兄弟へ知らせを持っていくのはごく自然なこと。彼女の言葉ももっともだ、ということは分かる。自分が同じ立場に立てばそうするだろうとも思うけれど。

「……兄は、何か言ってましたか?」

 おそるおそる尋ねれば、「あ?」とシュラは眉を顰めた。

「ああ、迎えにいくから動くな、っつってたな」
「ほかに、何か怒鳴ったり、とか……?」
「いや? 気持ち悪ぃくらいに静かだったけど」

 そこで言葉を止めた彼女は、「おい、どうした雪男。さっきより顔色悪くなってんぞ」と表情を険しくさせて言う。けれど既にそのときの雪男には、まともにシュラの言葉を理解するだけの余裕は残っていなかった。血の気が引く、とはまさにことのことで、さぁ、と身体から血が引いていく音が聞こえてきそうなほどだ。シュラさん、とシーツを握りしめたまま姉弟子を呼ぶ。

「明後日くらいまで、僕はいないものと思ってください」

 突然の宣言に、彼女は訝しげに顔を歪めた。

「はぁ? 何の話をしてんだお前」
「いえ、あの、たぶん、」

 雪男が言葉を補って説明しようとしたところで、医務室の扉がこんこん、と控えめに二度、ノックされた。おう、とシュラが答えると顔を覗かせたのは、講義が終わってそのままやってきたのだろう、心配そうな顔をした塾生たち。先頭に立つのは皆よりも雪男とのつきあいが長い祓魔屋の少女だった。

「雪ちゃん、起きてて大丈夫なの?」

 心配そうにそう問われ、「ああ、はい、大丈夫です」と雪男も笑みを浮かべて答える。

「お恥ずかしいところをお見せしてしまってすみません。少し休めば大丈夫ですから」

 その言葉に、「びっくりしたんだからね」としえみは頬を膨らませた。

「雪ちゃんが大変なのは知ってるけど、頑張りすぎて疲れちゃったら意味ないよ」
「ほんまに。ちゃんと休まなだめですよ?」

 続けて一緒に様子を見に来たらしい三輪が口を開き、「まあ元気そうなんで安心しましたわ」と勝呂が続ける。

「幸い今日金曜ですし、土日はゆっくり休んでもええんちゃいます?」

 志摩の言葉に雪男は「そうですね」と曖昧に頷いて答えた。

「みなさん、わざわざすみません、ありがとうございます」

 頭を下げての謝罪と謝礼に、とりあえず心配はなさそうだ、と塾生が顔を見合わせて笑ったところで。

「雪男」

 扉に近い場所から静かにその名を呼ぶ声。
 教室を出て医務室にくるまで。そして来たあとも。本来ならば血縁者として一番前にいてもおかしくない彼は、どうしてだか皆の一番うしろに控えたまま。
 けれど、低いその声は医務室のなかによく響き、一同はぴたりと口を噤む。同時に端から見ても分かるほど、ベッドに座っている少年の身体が震えた。血の気の失せた顔で唇を噛んだ彼は、決して視線を入り口のほうへ、己の兄のほうへ向けようとはしない。そんな弟をまっすぐに見つめ、「何か、」と燐が言葉を放った。

「俺に、言うことはあるか?」

 怒鳴るわけでもなく、刺々しいわけでもない。ただ淡々と紡がれるそれは、だからこそ逆に今この場ではひどく異質な色を湛えている。真っ青な顔のまま俯いていた弟は、いつもの彼からは考えられぬほど小さく、幼い声音で、「ご、ごめん、なさい……」と謝った。雪男からそれ以上の言葉はなく、燐も何も返さない。ぴんと張りつめた沈黙が落ちる。
 誰も口を開くことができず、息苦しささえ覚え始めたころ、「荷物は講師室だな? 取ってくる」と告げた燐が部屋の雰囲気など知らぬとばかりに背を向けて出て行った。その足音が聞こえなくなってからようやく、ベッドの上、立てたひざに額を押しつけ、はぁ、と弟がため息をつく。緊張から解き放たれた様子の彼に、「ねぇ、雪ちゃん」と一同を代表するかのようにしえみが声をかけた。

「燐、どうしちゃったの?」

 まださほどつきあいが長いわけではないけれど、あんな雰囲気の彼を見るのは初めてだ。もしかして燐もまた具合でも悪いとでもいうのだろうか。
 そんな問いかけに、顔を上げてメガネを正した少年はふるり、と首を横に振る。

「大丈夫です、あれは、ただ、」
 ガチで怒ってるだけなので……


 兄弟のやりとりは二日ほど前の放課後にさかのぼる。
 同じ部屋で寝起きしているにもかかわらず、雪男が多忙であるため塾の時間にしか顔を合わせることができていないのを、さすがに燐が心配し始めたのだ。講義が終わるや否や廊下で弟を捕まえ「ちゃんと休んでるのか」と兄の顔をして問いかける。

「飯は食ってるか? 忙しいのは分かるけど、そういうのは適当にすんなよ」
「分かってる。僕のことはいいから、兄さんは自分のことを気にしてなよ」

 心配は嬉しいしありがたいけれど、彼に比べれば自己管理はできていると思っていたし、兄には些細なこと(だと雪男自身は思っている)など気にかけずに自分のことだけを考えてもらいたいのだ。

「はあ? 何だよ、弟の心配しちゃいけねぇっつーのかよ」
「そうじゃないけど、そんな暇はないでしょって言ってるの。今日だって課題があるでしょう? シュラさんとの修行は?」
「ッ、修行はこれから行くんだよ! 課題は、また、明日!」
「提出期限は明後日だからね」

 そう言った弟へ、「分かってるっつの!」と返し、背をむけた兄は足を止めて振り返る。

「朝飯と弁当、要るなら言えよ? 用意くらいはできるんだからな」

 朝が早いためここ最近は夕食の用意だけをお願いしていたのだ。それだって、夜中に帰宅し冷めたものをひとりでかきこんでいる。それでも出来合いの弁当よりは断然マシで、その一食で一日分のエネルギィをまかなっているといっても過言ではなかった。パンや総菜を食べる気にはなれず、夕食以外には栄養補助食品くらいしか口にしていないのだ。
 燐の気遣いに「ありがとう」と礼を言いながらも、でも大丈夫だから、と雪男は笑って断った。

「兄さんは自分のことに時間を使って」


 その結果が、これ。
 とりあえず、このまま逃げて隠れてしまいたいくらいには、兄に合わせる顔がない。
 感情のまま暴れることの多い燐だったが、メーターが振り切れてしまった場合、途端に静かになるのだということを知っているのは雪男くらいだろう。そもそも彼をそこまで怒らせることができるのが雪男しかいないのだ。怒鳴ることも手を出すこともなく、ただ静かに怒りを表す。怒っているのだ、というプレッシャーを与えてくるのだ。
 ベッドから足をおろし、服装を整えて帰る支度をしながら、「恥を忍んで言いますが」と双子の弟は口を開く。

「僕がこの世で一番怖いのは怒ったときの養父ですけど、二番目に怖いのがあんな風に怒ってる兄なんです。ああなるともう、僕が何を言ってもだめで」

 あそこまで怒らせたのは久しぶりですけど、と苦笑を浮かべた弟弟子に、「それがなんで明後日までいなくなる、ってことになるんだよ」とシュラが疑問を放つ。首を傾げた塾生たちへ先ほど彼らが来る前に雪男がそう言ったのだ、ということを説明すれば、やはり皆一様に不思議そうな瞳をこちらに向けてきた。その視線から逃げるように俯いた雪男は、「すみません、もしかしたら一週間くらいかもしれないです」と己の発言を訂正する。

「予想以上に怒ってたんで……たぶん、一週間くらい部屋から出してもらえないかと……」

 だからそれはいったいどういう意味なのか、とシュラが尋ねる前に、雪男の鞄(通学用の鞄のみだった)を抱えた燐が戻ってきた。物音を立てたわけでもないのに、彼がそこにいることが分かるほどすさまじい存在感を放っている。ただ、怒気や殺気、不機嫌そうなオーラを纏っているわけではないのだ。不気味なほどの静寂が彼の周辺には展開されている。
 塾生たちなど眼中にないようで、彼は無言のまま顎をしゃくって弟の退室を促した。腰をあげた雪男はおとなしく燐のもとへ向かう。部屋を出る前に振り返った彼は、状況が飲み込めないままの皆を見回しぺこりと頭を下げた。

「ご迷惑、ご心配をおかけしてすみませんでした」

 それでは、と言ってそのまま兄を追いかけていく。いつもの彼ならば、あのような態度の燐には一言どころか三言、四言の文句を放っていそうなものなのに、何も言わず兄に従っているのだ。講師と塾生、祓魔師としてのキャリア、頭脳レベルその他諸々、スペック的には弟のほうが上である面も多く、兄が怒られている場面ばかり見てきたため、俄には信じられない光景。

「あの兄弟の関係性が理解できんわ」

 ふたりの気配がまるで感じられなくなったところでぽつり、と紡がれた勝呂の言葉に、その場にいたもの皆が同じように頷いて同意を示した。その中で「でも、」としえみが小さく呟きを零す。

「雪ちゃん、ちょっと嬉しそう、だった……?」





 医務室での宣言通り、学校からも塾からも姿を消した雪男は、きっちり一週間後、休む以前にくらべて肌の張りも艶も血色もよくなり、どことなくふっくらつやつやした状態で復帰してきた。塾生たちへ再度の謝罪と謝礼を口にする彼が、激怒した兄によって十分すぎる栄養と休息を取らされたのだ、ということは明らかだった。




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2015.03.17
















お兄ちゃんな燐くん。
Pixivより。