学習は実践派


 教室にいる奥村燐は大体眠っている。授業中も休憩時間も、起きている時間のほうが短いのではないかというくらい、常に居眠りに勤しんでいる。そんな生徒だった。
 彼についての噂はいろいろと耳にするが、何せ本人がその調子でろくに自分のことを話さず、また昼休憩も放課後も、ふらりとどこかへ行ってしまうため、誤解は解けぬまま。最近になってようやくひとり、彼と話をするクラスメイトが現れたくらいである。
 その人物曰く、「良いひとだよ」とのことで、確かにこの半年ほど、奥村燐が騒ぎを起こしただの、喧嘩をしただのという話はまるで聞かない。それもそうだ、だって彼は大半は眠っているのだから。
 結局「とてつもなく不思議でよく分からない居眠り好きなクラスメイト」という印象を、クラスの大半が抱いたままである。
 その奥村燐は、今日もまた眠っていた。

 教室の片隅で、すいよすいよと気持ち良さそうに眠っている。現時点で唯一彼に声を掛けることのできる友人が「奥村くん、放課後だけど起きなくていいの?」と、六限目が終わった時点で声をかけていたが何と返事があったのか、「じゃあ僕は帰るよ」と言って教室を出ていってしまった。そうなればあとのクラスメイトたちは、彼をそっとしておくほかない。
 教室内には未だ惰眠をむさぼっている彼のほかに、数人の男子生徒が残っていた。皆部活に入っていないか、入っていても今日は出なくても良い人間で、要するに帰寮しても暇を持て余すメンバである。最近見たテレビやマンガの話、部活の愚痴、先生や先輩に対する愚痴、そして女子の話。いくら裕福な家庭の子どもが集まる学園といえど、この年頃の男が集まって盛り上がる話題の筆頭といえば、もちろんエロ的な何かだ。思春期真っ盛り、健康で健全な男子であるならば、どうしたってそういう事柄に興味が湧いてくるものだ。
 どこで手に入れたのか、露出の多い女性の写真が並んだ雑誌を囲んで何やら顔を突き合わせている。時折げらげらと笑い声が零れており、おそらく決して女子には聞かせられないようなことを話していると思われた。
 そうして徐々に日が傾く放課後の教室で、教師にばれぬようぎゃいぎゃいと騒ぐ男子生徒たちの傍らで、「むぐぅ」と小さく呻く声が響く。それは決して大きな音ではなかったが、どうしてだかそのときクラスメイト達はぴたりと口を閉ざし、呻いた生徒のほうへと視線を向けた。

「んぁ?」

 間の抜けた声とともに頭をあげたのは、片隅でずっと机に伏せていた奥村燐、そのひとである。まだはっきりと状況を認識できていないのだろう、呆けたような顔をしてきょろきょろとあたりを見回している。ぼんやりとこちらへ向けられた視線に何故だか慌てながら、「あ、悪ぃ、起こした?」と男子生徒のうちのひとりが謝罪した。

「ん、や、だい、じょぶ……いま、なんじ?」

 幼い口調でそう尋ねられ、スマホを確認して「三時半」と誰かが答えた。それに対し彼は「あー……」と欠伸の混ざった返答を寄こす。「おっせぇな、あいつ」と続いたぼやきに、「誰か待ってんのか?」と思わず聞いてしまうのも仕方がないだろう。奥村燐はくわ、と今度こそはっきりと分かる欠伸をしてから、うん、と頷いた。ところどころ仕草が子どもっぽいのは寝起きだからだろうか、あるいはこれが彼の性格なのか。

「雪男、待ってんの」

 彼はにこっと笑ってそう言った。突然個人名を出してくるところもかなり子どもっぽく感じる。改めて話をしてみるとやはり、入学当時流れていた噂のような恐ろしい人物だとは思えない。

「雪男って、特進の弟?」

 その名前を知っていたらしい生徒が重ねて尋ねれば、彼は「うん」とまた首を縦に振った。
 特進科にいる奥村雪男といえば、この学年ではかなりの有名人である。何せ主席入学で未だに成績トップの座を明け渡していない。頭も良い上に運動もできるそうで、体育の時間女子の歓声が聞こえたら大抵その原因は彼である。
 そんなスーパーマンのような人物が、まさか成績底辺である彼の双子の弟(兄ではなく弟)だというから、世の中分からないものである。そういう話を聞いていてもなお、信じていないものもいるそうだ。やっぱり双子の兄弟というのは本当だったのか、と数人が思っていたなかで、「なあなあ、ちょっと聞くんだけどさ」と彼の前の席に腰を下ろして話かけるものがひとりあった。

「お前ら兄弟ってさ、エロ話とか、しねぇの?」

 突然の問いかけに、目覚めたばかりの彼はきょとんとした顔をしている。男子生徒たちは今までずっと猥談に花を咲かせていたため、その流れ自体に疑問を抱いてはいないようだ。ちらりと中心にあった雑誌に目をやった彼は、苦笑を浮かべて「しねぇな」と端的に答えた。その視線の動きに気がついたひとりが、雑誌を持って近寄ってくる。

「奥村はこういうの、平気?」

 ばさ、と広げられたものをぺらぺらと捲り、「嫌いな男はいねぇだろ」と彼は言った。だよなぁ、と笑いが起こる。

「でもさぁ、最近なんつーの? こういう系じゃ物足りねぇっつーかさぁ」

 ひとりがそんなことを言い始め、「こういう系ってグラビア?」と水着の女性を眺めながらクラスメイトが言う。
 エロさが足りないそうである。際どい水着や下着姿ももちろん興奮は覚えるが、やはりこの先を知りたくなってしまうもの。

「よく読めば結構エロいこととか、書いてあんだけどな」
「え、お前熟読してんの?」
「すんなよ、こんなもんを」

 そこでまたげらげらげら、と笑いが起こる。ぺらり、と机の上の雑誌をめくりながら、「漢字多くて読めない……」と奥村燐がしょんぼりとしていた。どんだけバカなんだよ、と突っ込めば、「バカで悪かったな」と唇を尖らせる。そういう仕草を男子高校生がしても気持ちが悪いだけだと思っていたが、もしかしたらそうでもない、のかもしれない。

「そういやさ、C組の田口、童貞捨てたらしいぞ」
「え、まじで?」
「相手、誰だよ!」

 猥談は雑誌中心のものから、今度は自分たちの周囲にいるもの中心へとエスカレートしていく。うちのクラスでは誰かいないのか、だとか、そもそも彼女がいないだとか。

「奥村、お前もしかして」

 あまりクラスの輪に入らず、どこか不思議な空気を持つクラスメイトへ、もしかして非童貞なのか、と疑いを向ければ、彼は真っ赤になって首を横に振った。雑誌については平然とした顔をしているくせに、どうやら自分のことには赤くなるタイプらしい。

「いいなぁ、俺も早くヤってみてぇ」

 生物の雄として正しい欲望なのかもしれないが、口にすることではないような気もする。でけぇ声で言うなよ、とすぺん、と頭を叩くもの、「俺も童貞捨ててぇよ」と同意するもの、様々だ。

「おれさぁ、一回でいいからアレ、やってもらいてぇんだよな」

 グラビア雑誌、アダルト雑誌、アダルトマンガにアダルトゲーム。青少年への健全な教育がどうのこうの、といろいろ規制はされているが、抜け道などいくらでもある。そしてダメだと言われると見たくなるのが人間というもので、その手の知識は皆いろいろなルートで仕入れているものだった。
 なんだよ、と友人に問われた男子生徒は、「パイずり」と答える。あまりに真剣な表情に、あはは、と皆が一斉に笑いを零した。

「お前どんだけマジなんだよ!」
「え、なに、そういうAVでも見たの?」
「まじかよ、俺にも貸せ」

 そう沸き立つ中でひとり、目を丸くして首を傾げているものがある。そう、奥村燐だ。

「ぱいずり、って、なんだ?」

 まるで分からない、というように紡がれた問いかけに、「知らねぇのかよ!」とひとりが盛大なつっこみを入れた。

「いや、だからな、おっぱいの間にな?」
「ちんこ挟んでもらってだな」
「こう、な? 擦ってもらうわけだ!」

 ジェスチャーつきの説明であるが、もちろんエアパイずりであるため、かなり挙動不審である。けれど、その単語がどういう行為であるのかは伝わったようで、「ああ!」と納得したような顔をしていた。まるでイメージがないと伝わりにくいだろうが、もしかしたらそういう写真なりイラストなりを見たことがあるのかもしれない。案の定、「そっか、あれ、ぱいずりって言うのかー」とそう口にしている。

「でもあれ、おっぱいないとできねぇよ?」

 もっともすぎる彼の言葉に、「知ってっよ!」と逆切れ気味にクラスメイトが答えた。

「だから、おっぱいのおっきい彼女をだな!」
「彼女だけでもハードル高ぇのにな」
「だよなぁ。奥村の弟みたいなハイスペックだったらまだ可能性ありそうだけどさぁ」
「そういや弟、彼女いねぇの?」

 問いかけられ、彼はふるふると首を横に振った。そして「彼女は、いない」とはっきり言葉を口にする。

「そっかぁ。奥村弟でもいなけりゃ、俺らにいないのも仕方ねぇよな……」

 よく分からない理論ではあるが、とにかく自分たちが独り身で寂しいことに何らかの理由が欲しいのだ。

「でもさぁ、こう、エロ本とか読むけどさぁ、実際にいざってなったらすげぇ緊張しそうじゃね?」

 それもかっこ悪ぃよなぁ、と腕を組んで真面目な声で悩みを零す。

「入れる場所分かんなくて素股してた、とかな」
「あー童貞あるある失敗談な」

 聞いたことある、と笑う男子生徒の横で、「最初はさ、」とひとりがにやにやと笑いながら妄想を語り始めた。

「えろえろで経験豊富なお姉さんに騎乗位でリードされたい」
「あー、いいな、それ!」
「AVにありそう!」
「初物食いとか筆おろしとかってタイトルだろ」

 うわーありそう、と盛り上がる一方で、「お前、オナホとか使ったことある?」と尋ねるものまで出てくる始末。

「や、どうやって買うんだよ、オレら未成年」
「そこはほら、兄ちゃん的な」
「持ってたとしても寮の部屋で使えるかよアホ」

 そりゃそうだ、とげらげら笑いが起こる。
 その中心でまたもひとり、ハテナマークを頭上にいくつも飛ばし、首を傾げているものがいた。
 そのことに気づいたひとりが声を掛けようとしたところで、「兄さん?」と新しく入ってくる声が一つ。

「雪男!」

 ぱっと表情を明るくして顔を上げた彼は、こっちこっち、というかのように、教室の入り口に向かって手を振っていた。

「ごめん、遅くなった」

 周囲にいる兄のクラスメイトたちへ軽く会釈をしながら、長身の弟が近寄ってくる。同じクラスでもないため、学年の有名人をこれほど間近で見るのは初めてだ。おお、だとか、よぉ、だとか、よく分からない反応を返すものがちらほらと。
 弟がやってくるのを待っているのだ、と言っていた兄は、そそくさと帰る準備をしながら(どうして来るまでにしておかなかったのだろう、と何人かが思っていた)、「あ、なあ、雪男」と弟を見上げて口を開いた。

「すまた、って何?」

 真っ直ぐに、何の衒いもなく放たれた問いかけにぴたりと時間を止めたのは、問われた弟だけではなかった。周囲のものが凍り付いているなど気づくことなく、彼はさらに言葉を重ねる。

「あと、きじょーい? とか、えっと、ふでおろしとか……あと、おなほってなんだ?」

 「お、おおおおくむらっ! ストップ、すとーっぷ!!」と慌てて彼の口を塞いだのは、先ほどまで猥談に耽っていたクラスメイトである。

「なんつーこと聞いてんだお前は!」
「俺らが今度教えてやっから!」

 彼らが非常に慌てたのは、成績優秀で品行方正な奥村弟はきっと、この手の話が嫌いだろう、という先入観からであろう。余計な言葉を吹きこんだことを怒られるのではないか、と恐れているのかもしれない。
 いやこれは違うんだ、その、あれだ、と言葉にならない言い訳を必死に紡ごうとする同級生たちを見やり、双子だという弟は眉を下げて苦笑を浮かべた。

「兄さんは全部知ってると思うけどね」

 あっさりとそう返してきた彼に、慌てていた生徒たちが「へ?」と拍子抜けしたような声を漏らす。

「いや、知らねーし、俺」

 そう返す兄の顔を見やり、弟を見上げ、そうしてようやく、別に奥村雪男がその手の話題を嫌っているわけではなさそうだ、と気がついた。ほっと胸を撫でおろし、「ついでだ、教えといてやる」と何故か少し胸を張って、ひとりが口を開く。

「素股っつーのは、あれだ、こう、閉じた太腿の間にチンコ入れんだよ」
「で、腰振って擦るのな」
「騎乗位は男が横になって、その上に女が座って乗ってヤるやつ」
「筆おろしってのは童貞捨てるってこと」

 こんなもんか、と口々に解説するクラスメイトの前で、「ほらね? 兄さん全部知ってるでしょう?」と弟が笑って言えば、どうしてだか兄はぼぼぼ、と音が聞こえてきそうなほど顔を赤くしてしまった。心なしか大きな目も潤んでいるようだ。

「あー……奥村にはまだ早かったか?」

 先ほどセックス経験について尋ねたときも顔を赤くしていた彼だ、生々しい話題となると恥ずかしさが強いのかもしれない。ごめん俺らが悪かった、と苦笑する彼らを前に、「すみません」と弟が謝罪を口にした。

「このひと、まだ子どもなんです。もう連れて帰りますね」

 まだ顔を赤らめたままの兄の腕を引いて立ち上がらせると、彼はそのまま引きずるように教室を出て行く。
 ごめんな奥村、弟のほうも今度エロ話しようぜ、また明日なー、と兄弟を見送ったあと、「あ、オナホの説明、し忘れた」と誰かがぽつりと呟いた。





 手を引かれたまま素直についてくる兄は、未だ顔を赤く染めたまま。こんな顔をクラスメイトたちに見せていたのかと思えばわずかに苛立ちを覚えてしまうのは、恋人として仕方がないわけで。

「別に猥談するなとは言わないけどね」

 小さくそう零したあと、ぐい、と腕を引いて兄を引き寄せ、兄さん、と耳元で彼を呼ぶ。


「オナホは今度買っておくから、そのときじっくり教えてあげるね」




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2016.07.19
















耳童貞:経験はあるのにエロ用語を知らない子を指す造語、だそうで。
燐くんは耳童貞。

Pixivより。