獣の習性


 神父(とう)さん、事件です。
 親父(ジジイ)、事件だ。

 兄さんに、
 雪男に、


 猫耳が以下省略。




 兄弟が異変に気がついたのは、朝目覚めて寝ぼけ眼のまま水場へ向かい、顔を洗い終えたときのことだった。今朝は珍しくふたりともが同じタイミングで部屋を出て、ここまで並んでやってきた。だから気が付くのが遅れてしまった、のかもしれない。
 伝う水をタオルで拭い、さっぱりとしたところでちらり、と隣に立つ兄弟へそれぞれ視線を向ける。意味があったわけではない、なんとなく、だ。
 そこでようやくその異物に気が付き、お互いに顔を見合わせた。

「どうせあのひとだよ……」
「八月だぞ、今」

 まず目についたのは、生まれた時から一緒に生きている半身の頭に乗ったふわふわもこもこの猫耳だった。す、と視線をずらせば、背後に揺れている同じ毛色の尻尾も見える。正面にいる人物の目の動き、表情から、今見た兄弟に対する異変がそっくりそのまま自分にも起っているのだ、とすぐに理解できた。
 疲れたように呟いた雪男の言葉に、燐は鼻の頭に皺を寄せ、不満を露わにそう返す。
 以前も、似たような状態にされたことがあったのだ。その時は「二月二十二日はにゃんにゃんにゃんで猫の日ですよ☆」だとか、そんな理由で猫耳と猫尻尾をつけられた。手足まで猫にされたこともある。要するに、あの悪魔(猫萌え属性らしい)の暇潰しに巻き込まれているだけなのだろう。
 兄さん、と呼ばれたため弟のほうへ顔を向ければ、ぺちん、と両手(今回はちゃんとひとの形のままだった)で頬を挟まれる。そのままむちゅう、と唇を押し付けられた。

「……ダメみたいだね」
「だな」

 最初のときはキスをしたらもとに戻ったのだ。それと知らぬままキスを交わし、あっさりと術を解いてしまった双子の兄弟を前に、メフィストが爆笑していたものだ。しかし今回はその条件では駄目らしい。はあ、とため息をついて部屋へと戻る雪男のあとについていく。
 部屋に入るなり弟は真っ直ぐ自分のベッドへ向かい、スマホを取り上げ元凶へクレーム電話だ。スピーカー状態にしてあるようで、コール音が数度響いたのち『Hallo?』とわざとらしい声が響く。名乗ることすらせず、「いい加減にしてください」と怒りの籠った声で弟が吐き捨てた。そばで聞いている燐が思わず背筋を正してしまいそうな声音だったが、その程度で動じるような相手ではない。
 もちろん、と悪魔は笑いながら言う。

『前回、前々回とまるで同じというわけではありませんよ。改良は加えておりますので、ご安心ください』
「ご安心できません。良いから今すぐもとに戻してください」
『夜十二時を過ぎるか、ある条件を満たせば戻りますよ。あ、ちなみに、条件はキスではありませんので』

 知っています、もう試しました。
 そう答えそうになるのを、雪男はぐっと堪えたようだった。
 以前と同様、条件を教えろと言ったところで、きっとこの悪魔からは聞き出せないのだろう。もし仮にすぐ教えてもらえたとするならば、きっと自分たちでは実行不可能な条件なのだろうと思われた。瞬時にそう分かってしまう程度には、この悪魔に振り回されているらしい。正直気がつきたくなかった事実である。
 眉間にしわを寄せつつ諦めモードの燐を置いて、雪男はなおも電話の向こうへ文句を放っていた。弟の性格からして、こんなことをした理由だけでも聞いておきたいのかもしれない。聞いたところで疲れるだけだろうになぁ、と燐は思うのだけれど。
 どうして、と雪男が紡ぐ言葉が鼓膜を揺さぶる。

「どうしてこんにゃこと、を、」

 不自然に途切れた声。何か今異様な響きがあった気がするけれど、聞き間違いだろうか。首を傾げた燐と同じように小さく頭を傾けた雪男は、こほん、と咳払いを一つ。もう一度「どうして、」と同じ言葉を繰り返す。

「こんにゃ、こと、を」

 二度目のそれに、燐と電話の向こうにいる相手がぶは、と吹き出したのは、ほぼ同時であっただろう。

「『にゃ』ってっ! 『にゃ』ってお前っ!」

 普段の弟のイメージからあまりに遠い言葉づかいに、腹を抱えて爆笑している兄を睨み、「うるさいっ!」と怒鳴りつけた。顔を赤くしたまま通話を切った雪男は、「兄さんも言ってみろよ!」とそう口にする。同じように猫耳猫尻尾を装備しているのだから、きっと燐だって同じようになるに違いない、と。

「『にゃ』が『にゃ』ににゃるのっ!」

 恥ずかしさと怒りから、自分が何を言っているのかよく分かっていないのだろう。怖い顔をしてそう叫ばれても、聞いているこちらからすればどうしたって笑いを堪えられない。あの雪男が、猫耳つけて尻尾を揺らして、にゃあにゃあ言っているのだ。これを笑わずして何を笑えばいいというのか。あるいはこれを萌えずして、何を萌えればいいというのか。口元を抑え、ぶくく、と笑いを零しながら、「落ちつけって」と弟を宥める。唇を噛んで燐を睨んでいた雪男は、突然何を思ったのか机に飛びつき、ルーズリーフに何やら文字を書き殴った。

『なすび
 ならづけ
 カルボナーラ』

 並べられた言葉が食べ物ばかりなのはどうしてだろう。昼食に食べたいにしても、奈良漬けとカルボナーラは食い合わせが悪そうだ。首を傾げながら、とりあえず読み上げるため口を開く。

「にゃすび」

 言葉にした瞬間、先ほどから雪男が何を言いたかったのか、理解した。ほら見ろ、という視線を受け緩く首を振る。

「にゃらづけ、カルボニャーラ」

 言葉を続けて確認し、「分かった」と燐は重々しく頷いた。

「今すぐメフィスト、にゃぐりに行こう」

 ぐ、と拳を握りしめての宣戦布告。けれど、「それだと猫パンチするみたいでむしろご褒美に聞こえる」と弟につっこみを入れられ、一気に力が抜けた。

「もういいよ、部屋にいようよ。どうせ十二時ににゃったら戻るっていうし」

 「にゃったら」の部分で思わず吹き出しかけたが、睨まれ慌てて口を押える。確かに、このまま外に出たところで自分たちが恥をかくだけだ。ここは雪男の言うとおり、部屋でおとなしくしているのが良いのかもしれない。幸い今日は休日で、燐にも珍しく雪男にも何の予定も入っていない日だった。

「……だから今日を選んだんだと思うよ」

 ぼそりと呟かれた弟の言葉はおそらく正しいのだろう。
 そう、どうせ今日一日のことなのだ。頭の上のもののことなど忘れて過ごすに限る。そうと決まればまずは朝食だ。

 休日の朝、双子の兄弟の取る行動は大体決まっている。まずは身支度と朝食を済ませ、燐は溜まった洗濯物を片付けに洗い場へ、雪男は掃除のため部屋へと戻る。食堂からそれぞれの持ち場へ別れることになるのだが、毎回「桃太郎の冒頭みたいだなぁ」と燐は思っていた。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、である。
 洗濯機を回している間についでにと風呂とトイレの掃除を済ませ、昼食のメニューについて思いを巡らせ、冷蔵庫にある食材で夕食まで作ることを考えながら洗濯物を干して部屋へと戻る。その頃には部屋の掃除をとうに終えた雪男は、自分の持ち帰りの仕事をするため机に向かっているのが常であった。

「昨日買い出し行っといて良かったぜ」

 そうでなければろくな食材がなかった。さすがに白飯だけということにはならないが、わびしい食卓になることは否めなかっただろう。そう言いながらサンダルを脱ぎ捨て、室内に足を踏み入れる際にふと目に入った光景。
 それはいつも通り、パソコンに向かっている弟の背中、なのだけれど。
 ゆらり、と背もたれの下から床に向かって垂れているもの、燐の背後で揺れているのは最近では当たり前になっているが、弟は持っていなかったはずの、尻尾。何か考え事でもしているのか、ゆうらり、とそれが左右に揺れていた。
 今燐の様子を傍から見ているものがいれば、彼の変化を具に語ることができるであろう。
 ぴくん、と動いた三角の耳、きゅう、と瞳の中の動向が細く狭まる。もちろん燐自身は己の変化を認識してはおらず、また自覚もしていなかった。す、と腰を下ろし、両手と両膝を床につけてにじり寄る。対象はもちろん、揺れる弟の尻尾、だ。
 じりじりと近寄って、雪男が座るその背後にちょこんと腰を下ろした。そうして細められた目は、右左と、忙しなく動くものを追いかけている。ここまですべて無意識下での出来事であり、燐の意識が現実を認識できたのは「ちょっと、にゃに、やってんの」と弟の声が耳に届いたときだった。

「え!? あれ!?」

 はたと気がついたときには、何故か夢中になって弟の尾を右手で叩いている。自分の行動がまるで理解できず、燐は心の底から驚いたように声をあげ、首を傾げた。

「俺、にゃにやってんの?」

 背もたれ越しに振り返る弟を見上げてそう言うも、「それは今僕が聞いた」と返されてしまった。確かに。そもそも聞かれたところで燐の行動の理由など、雪男に分かるはずもない。一体どうしてこんなことをしているのだろう、と考えている間にも、燐の右手はずっと弟の尻尾にじゃれついていた。
 そんな兄を見おろし何を思ったのか、すぅ、と目を細めた弟が意図的にだろう、大きく自分の尾を振ってみせた。

「っ、!」

 ぴくん、と耳を跳ねさせ、ふわふわの尾へ向かって両手を伸ばす。はしっ、と床に押さえつけたつもりだったが、するりとそれは上へと逃げて行った。はっ、と顔を上げ、尻尾を追いかけ椅子の背もたれに両手を押しつけ、床を叩く。何度かそれを繰り返したのち、ようやく両手で捕えたそれを逃がすまいと噛みついたところで、「みぎゃっ」と悲鳴があがった。はたと我に返る。

「……兄さん、痛い」
「すまん……」

 少し強く噛み過ぎてしまったようで、見上げた弟は少し涙目だった。
 尻尾から口を話して素直に謝罪する。けれど、雪男だってこうなることを予想して尻尾を動かしたはずなのだ。弟にも二割くらい非はあると思う。
 ごめんなさい、という気持ちを込めて、噛みついてしまった尾をぺろぺろと舐めた。怪我をした部分を舐める、ということはひとでもやらなくは、ない。つばをつけておけば治る、と言われることもあるくらいだ。けれど、そうではなく舐めなければ、舐めたい、という気持ちが湧いてくるのはなぜだろう。

「っ、兄さん、ちょっと……っ」

 どこか焦ったような雪男の声が聞こえる。同時にするり、と舐めていた尻尾を取り上げられてしまった。あ、と声をあげ、視線でそれを追いかける。

「にゃんで、猫みたいにゃこと、してんの」
「知らねーよ」

 身体が勝手に動くんだ、と言いながら、腰を上げ、少しだけ椅子を引いて(これは猫にはできないことだな、と思う)スペースを作り、座る弟の上に乗りあげた。
 雪男は両手で大事そうに自分の尾を抱えている。それへぺろり、と一度舌を這わせてから、戸惑ったままでいる弟の顔の側まで頭を寄せた。すんすんと匂いを嗅ぎながら首を伸ばし、ぽふん、と鼻を埋めたのは柔らかな毛に包まれた三角の耳の付け根。鼻を二、三度擦りつけ口を開いて甘く噛みついてみる。歯を立てては痛かろうと、はむ、はむ、はむ、と唇で挟みこんでいるうちに何だか楽しくなってきた。

「だ、から、にい、さん、って、ばっ」

 にゃにするの、とぴったりと張り付いてくる燐をどかそうとしているようだが、その腕にさほど力が入っていない。むしろ縋りついてきてくれているように思えてしまい、弟の頭にすり、と頬を摺り寄せて笑った。そういえば猫って身体とか頭をよく擦りつけるよなぁ、だなんてことを思いながら。
 あの行為は匂いをつけて自分のものだ、と主張する行為だと雪男が言っていた、ような気がする。だからだろうか、こんなにも弟に擦り寄りたいと思ってしまうのは。
 兄さんやめて、とそんな雪男の声を聞きながら、鼻をもともとある人の耳の裏へ埋め、舌を伸ばしてその縁を舐める。ぴくん、と弟の身体が跳ねたような気がした。
 そのまま頬から顎のほうへ舌を滑らせ、時折軽く噛みついてまたぺろりと舐める。顎の裏へ鼻を埋めれば、弟は頭を逸らす姿勢にならざるを得ず、兄さん、と少しだけ遠くから雪男の声が聞こえた。

「ん、でも、お前、のど、ごろごろゆってんぞ?」

 やめて、と先ほどから繰り返されている言葉ではあるが、それは弟のひととしての理性が発しているものなのだろう。耳と尻尾だけではなく、習性まで猫のそれを与えられている(としか思えない)ため、本心で嫌だと思っているわけではないことなど筒抜けだった。
 兄からの指摘に、「え、うそ」と驚いたように頭を戻し、己の喉に手を当てている。ほんと、と笑って、弟の手を己の喉へと導いた。

「俺も、にゃ?」

 自分のも同じようにぐるぐると音を立てていることは、早い段階で気が付いていた。猫又の友達も撫でてやるとよく喉を鳴らしている。気持ちがよくて機嫌の良い証拠だ。
 ほんとだ、と呟いた弟がそのまま指を滑らせ、燐の顎の裏を擽ってくる。ぞくん、と背筋に痺れが走ったような、そんな気がした。

「ん、ゆき、」
「気持ちいいの?」

 くるる、と喉の奥を唸らせながら弟を呼べば、彼はくすくすと笑って喉を撫でてくる。そうして顔を寄せてきたかと思えば、ぺろり、と先ほどの燐と同じように舌を伸ばして頬を舐めてきた。

「ん、分かった、かも」

 そう呟き、かぷり、と頬に齧りついてくる。何が分かったというのか、と問う必要はない。執拗に燐が擦り寄ってきた理由を、今彼も身体で理解したのだろう。
 最初の頃のように、精神が完全に猫になってしまっていれば、きっともう少し離れてもいられただろう。けれどひとの心が残ったままで、中途半端に猫の習性が入り込んできているものだから、擦り寄る身体を止められない。
 喉を逸らせて心地よさに目を細めていたところで、不意に弟の指が離れていった。

「ぁ、雪男、もっと」

 思わずその手に噛みついて続きをねだる。口の中を擽るように指でかき混ぜ、「そろそろ足が痛いんだけど」と雪男は笑って言う。確かに、燐が乗り上げてしまっているため、痺れも痛みもあるだろう。

「ん、じゃあ、」

 あっち、いく、とベッドへ視線を流せば、そうだね、と弟も素直に乗ってくれた。普段の雪男ならばここでおしまい、と切られてもおかしくないとは思うのだが、これも猫耳と尻尾のおかげなのだろうか。
 ふたりしてくるくると喉を鳴らしながらベッドに転がり、お互いの腕や顔、肩に舌を伸ばして噛みつく。少し身体を上にずらし、ひくひくと震えている猫耳へ顔を埋めたところで、「ねぇ兄さん」と弟が燐を呼んだ。耳の毛づくろいに忙しかった燐は、「んぅー?」とくぐもった返事をする。擽ったそうに肩を竦めて笑いながら、「知ってる?」と雪男は尋ねてきた。

「ん、ぁ?」

 弟の言葉の続きを待っていたはずなのだが、いつの間にか身体を反転させられ、うつ伏せになった状態でシーツに抑え込まれている。目の前に現れた枕は雪男のもので、首を傾げたところで、するり、と項を撫でる手の温かさを覚えた。

「猫ってね、ここが弱点にゃんだよ」

 それは母猫が子猫を運ぶ際に、そして雄猫が交尾相手の雌猫を抑え込む際に噛みつく場所で。
 襟足にかかっていた髪の毛を避けられ、かぷり、と歯を立てられた。

「――ッ」

 途端に後頭部から背中の真ん中あたりまで、ぞわりと痺れが広がる。くたん、となった兄を押し潰すかのように伸し掛かってくる弟は、身体を揺すりながらそれでも項から口を離そうとはしなかった。
 ぐるるる、と唸っているのは雪男の喉だろうか。
 皮膚に食い込む歯に、鈍い痛みを覚える。けれどぐぅ、とそこを抑えこまれるだけで、四肢から力が抜けていくのだ。互いに舐め合っていたときから回転の鈍っていた脳だったが、ますます靄がかかったかのようにうまく考えられなくなってきている。
 それもこれも、頭の上でへたんと萎れている三角の耳と、ふわりとした毛に包まれた尻尾のせいだ。
 抑えこんでくる身体の熱さ、そして臀部にごり、と押し付けられたものの硬さに頭蓋骨の中で何かがぐらりと大きく蠢く。枕に噛みつき小さく呻いた燐が、くん、と腰をあげて弟の腰に尻を擦りつけたのもきっと、猫の習性のせい。
 そうに違いない。




ブラウザバックでお戻りください。
2016.07.19
















グッジョブ、メフィスト。

Pixivより。