召しあがれ


 どうしてだろう、と首を傾げる。
 いつからなのだろう、と首を傾げる。
 けれどどれだけ頭をひねったところで回答など得られるはずもない。
 記憶にないのか、自覚していなかっただけなのか。
 まるで分からないけれどいつの間にか、いつの頃からか、燐はともに生まれたはずの弟に齧りついてみたい、という欲望を抱くようになっていた。


 揃って食事を取るとき、兄弟は向かい合って腰掛ける。
 燐の作った料理を美味しそうに、幸せそうに食べてくれる弟をこっそりと(けれど雪男にはたぶんばれているのだろう)眺めるのが好きだった。綺麗な所作で箸を操り、男らしく豪快に、それでも丁寧に食べ物を口に運んでいく。摘まれた肉を招き入れるために「あ」と開いた唇、覗く舌、白い歯。咥え込まれた箸はすぐに引き抜かれ、そのままむぐむぐと口を動かして咀嚼する。
 同じ皿をつついているのだから、そもそも作ったのは自分なのだから、今弟が食べたものがどんな味をしているのか、燐だって知っているのだ。だから食事をしている様子を見て美味そうだなぁ、という気持ちが沸いてきたのだと、そう思っていたけれど。
 あとからその状況を思い返し、もしかしたら自分は思い違いをしていたのではないか、と気がついた。
 あのとき、雪男が食事をしている姿を見て美味そうだ、と思ったのは、美味しそうに食べてくれているという喜びではなく、また彼が食べているものが美味しそうだと思ったわけでもない。
 肉を閉じこめたその唇のほうが、燐には美味しそうに思えたのだ。
 ぺろり、と舌を動かし自分の唇を舐めてみる。味などない。当然だ。だからきっと雪男の唇も似たようなものだろう、そう思うけれど。
 それでも弟の唇へ目がいってしまうのを止められない。
 美味そうだなぁ、と思ってしまう心を止められないのだ。

「俺が悪魔、だから……」

 理由を考えて、結局思い至ったのはその一点だった。
 そもそも修道院にいる頃、燐はそのようなことを思ったことが一度もなかったのだ。この寮に引っ越してきて、向かい合って雪男と食事を取るようになって、そこで初めて、そんな自分の気持ちに気がついた。昔と今と、何が違うのかと考えれば自然とその答えに行き着いてしまう。
 ただ不思議なことに、というべきか、幸いにもと考えるべきか、雪男以外の人間を見ても「美味そうだなぁ」とはまるで思わない。食べてみたいなぁ、と思う対象は雪男を除けば、普通の人間たちとまるで変わらない食材、料理に対してのみなのだ。
 雪男への気持ちだって、味わってみたい、という気持ちは強いけれど、食べ尽くしたいわけではない。食べてしまえば雪男がなくなることが分かっているからだ。もしなくならないのであれば食べてみるのだろうか、と考えるけれど、それでも「人肉」という食材として捕らえると強い抵抗を覚える。だから、食事という意味で雪男を「食べたい」と思っているわけではないのだ。
 雪男を見て、ああ食べてみたいなぁ、と思う。それは舐めたり吸ったり齧りついたりして味わってみたいなぁ、と思っているのだろう。
 もちろんそうであっても、普通の人間が抱くような感情ではないことなど承知している。
 分かっていても、それでも思ってしまうのだ、ああ食べてみたいなぁ、と。


「……ぃさん、兄さん!」

 自分を呼ぶ声を耳にし、燐ははっ、と顔を上げた。正面には困惑した表情の雪男がいる。状況がすぐに把握できない。ええと、と声にならない戸惑いを口内で転がした。
 晩ご飯を、食べていた。雪男と、ふたりで、向かい合って。
 今日は時間があるから、と弟が食器洗いを手伝ってくれて、明日は休みで弁当が要らないから、だから燐もその横に並んで片づけをしていたはず、なのだけれど。

「どうかしたの?」

 ちょっと痛いんだけど、と雪男が視線を下ろした先。つられるようにそちら見やり、目を見開いた。
 濡れた弟の手を、同じように濡れた燐の手が掴んでいる。ぎりぎりと、離しはしない、とでもいうかのように強く、きつく。
 覚えはまるでなかった。

「ッ!」

 ざぁ、と血の気が引いた音を聞いたような気がし、驚きのまま雪男から手を離す。
 自分は今何をしていた。何をしようとしていた、何をするために弟の手を捕らえていた?
 自由になった手をそっと撫でながら、雪男が何か言っている。けれどその声は燐の耳には届いていない。
 ごめんだとかなんだとか。
 はっきりと言葉にすらなっていないような謝罪を残し、燐はその場から逃げ出した。逃げ出す以外、できなかった。
 時間にすればたぶんわずかな間のことだったのだと思う。一分もなかったのかもしれない。けれどぼんやりとしていた燐の理性を押し込め、顔を出した本能がいったい何をしようとしていたのか。考えるまでもない。
 やばい、どうしよう、と同じ言葉をぐるぐると脳内で回しながら、厨房を飛び出した燐は、そのまま古い木製の階段へ向かった。部屋に戻ればすぐ雪男に見つかってしまう。どうせなら玄関のほうへ行けば良かった、と三段飛ばしで階段を上りながら思った。
 逃げ込む先は屋上しかない。ここだって雪男に見つかってしまうだろうけれど、そもそも探しにきてくれるという確証はなかった。(と予防線を張りつつ、それでもきてくれるのだろうな、と思っている。燐の弟はそういう人間なのだ。)
 五月も終わりに近づいた今、星空の広がる屋上は混乱した頭を整理するにはもってこいの環境だった。ふわり、と緑の香りを纏わせた初夏の風を頬に浴びながら、落ち着け、と脳と心臓に命じる。

 落ち着け。落ち着いて、考えろ。

 別に何か言葉を口にしたわけではない(と思う)のだから、雪男は燐の考えを知らないままのはずだ。それならば、変な態度をとってしまったことだけを謝ればこの場は誤魔化せるのではないだろうか。頭もよくて口が回る弟を相手に、燐がうまく嘘をつけるとは思えなかったけれど、自分が取るべき態度はそれくらいしか思いつかない。
 ひとまず今はそうして切り抜けるべきだ、と考えた自分の思考にふと引っかかりを覚えた。
 ひとまず今は。
 そう、今このときは、これでいいかもしれない。
 けれど今後は?
 また今のように、気を抜いた瞬間に本能が表に出てきてしまえば?
 我慢することができずに、弟に手を伸ばしてしまうという未来を否定することが今の燐にできるだろうか。
 そう考えたところで、「兄さん」と呼びかけてくる柔らかな声が響いた。やっぱり探しに来てくれたらしい。
 金属の手すりに腕を乗せて建物の外へ視線を向けたままでいれば、ぺたり、と近づいてくる足音があった。寮内にいる間は踵のないサンダルを履いていることが多いため、ぺったりぺったりと、どこか間の抜けた足音が響く。
 徐々に近づいてくる気配に、「来るな」と燐は振り返らずに言葉を放った。

「俺に、近寄んな」

 拒絶というよりは懇願に近い声音に、雪男の足がぴたりと止まる。少し身じろいだような気配があり、「どうか、したの?」と心配そうな声がかけられた。

「どこか具合でも悪い?」

 もしそうなら言ってもらえないと分からない、と続けられた言葉にふるふると首を横に振る。ぎゅう、と手すりを握りしめる手に力を込め、掠れる声で「俺、おかしいんだ」とそう吐き捨てた。
 これを「具合が悪い」というのならそうかもしれない。けれど、ひとが患う病気のように、療養や治療でどうにかなるものではないのだ、と本能的に悟ってしまっている。
 この「不具合」を抱えていれば、いつかは本当に雪男を食べてしまうかもしれない。そうなる前に正直に告白しておけば、きっと弟のほうで何らかの対抗手段を講じてくれるだろう。そうしてもらいたくて、燐はぽつぽつと口にする。己が抱くようになってしまった感情のことを。双子の弟への、異常としかいいようがない気持ちのことを。
 ぎしり、と屋上を囲う柵が小さく軋む音が響く。ふと視線を向ければ、いつの間にか雪男が隣にまで歩を進めていた。燐とは逆向きに、背中を手すりに預けるようにして立つ弟は、こちらへ顔を向けることなくふぅん、と小さな相づちを打つ。声音からでは弟の考えは窺えない。引いているのか、怖れているのか、呆れているのか、どれだろう。
 自分から確認することも怖くてただ黙って反応を待っていれば、しばらくの沈黙のあと「それってさ、」とようやく雪男が口を開いた。

「僕以外には全然思わない?」

 さらりとした口調で確認され、燐もまた「あ、うん」となんでもないことのように答える。雪男以外に対してそう思ったことは今までに一度もないし、今後もないだろうと思った。無意識のうちにそれらは当然の事柄だと思っていたけれど、何か問題でもあるのだろうか。
、ゆきお? と呼んでみるも返事はない。その雰囲気に耐え切れず、燐は恐る恐る視線を弟へ向けてみた。
 夜闇のなか、屋上に臨む景色を背負った弟は、どうしてだか、ふんわりと、微笑んでいるようだった。表情を見る限りでは、燐の告白をマイナスに捕えている様子はない。
 一体どういうつもりで、何を思って弟は笑っているのだろう。
 予想外すぎる反応にきょとんと雪男を見やっていれば、いつの間にか身体を起こした雪男が燐の正面にまでやってきていた。身長差のせいで、ここまで近寄られると軽く見上げなければ表情が分からない。けれど近距離で確認しても、やはり雪男は笑っているようだった。

「食べて、みる?」

 伸びてきた腕が燐を捕えるように手すりを掴んだ。促されるまま身体を反転させ、軋む柵へ背中を預ける。つい先ほどまではそれぞれ逆の体勢だったよなぁ、と弟を見上げたまま呑気なことを考えていた。そのため、雪男の告げた言葉の意味がすぐに理解できず首を傾ける。
 食べたいんでしょう? と同じように首を傾げられ、「うん」と頷いたあと驚きに目を見開いて雪男を見つめた。

「え、っと、いい、のか……?」

 もちろん「食べたい」といっても、完全に噛み千切って咀嚼して消化したいのではなく、少し、ほんの少しだけ齧らせてもらえたら、舐めさせてもらえたらいい(と思う)のだけれど。窺うように口を開く燐を見おろし、「ちょっと噛むだけでしょう?」と雪男は首を傾げて言った。

「痛いのは嫌だけど」
「や、そこまでは噛まねぇ、けど……」
「だよね。だったらいいよ」

 はいどうぞ、と差し出されたものは燐にとってはひどく魅力的で、それこそ涎が垂れそうなほどのもの。

「ほ、ほんとに、いい、のか……?」

 確認を重ねてしまうのは、その対象が唇、だからだ。唇以外にも噛みついてみたいと思わなくもないけれど、それでもやっぱり、一番美味しそうだと思うのは弟のそれで。
 こんなにもあっさりと、簡単に許してもいい場所だとは思えない。
 そんな兄の気遣いを、弟は無駄だとばかりに切り捨てる。要らないならいいけど、と離れかけた体温を慌てて引き止めた。

 本当に、どうしてこれがそんなにも欲しいのか、自分でも分からない。
 分からないけれど、ある日唐突にふと、思ったのだ。
 美味しそうだなぁ。
 食べてみたいなぁ。
 舐めてみたいなぁ、と。
 だったらどうぞ、と差し出された唇。
 いただきます、となんとなく口から零れた言葉に、雪男は小さく笑ったようだった。

 齧る、といっても唇だ、どうやって歯を立てたら良いのかが分からず、とりあえずそっと唇を触れ合わせてみる。柔らかな感触と温もりにほっこりとした気分が膨れ上がった。もっと、と望むままに舌を伸ばす。ぺろりと舐めるが、燐の知っている味はしない。でもたぶんこれが雪男の味だ。美味い、と素直に思う。雪男がうっすらと唇を開けてくれため突き出た下唇に、すかさず歯を立てた。
 そのままぺろぺろかじかじはむはむちゅうちゅうと、思いつくままに弟の唇を舐めて齧って吸って味わって。
 はふぅ、と満足げなため息をついてようやく離れた燐へ、弟は「どう?」と感想を尋ねてくる。親指でぐい、と口元を拭う様にどうしてだかどきり、と心臓が跳ねた。
 理由の分からない突然の動悸に慌てていれば、「美味しかった?」と雪男はさらに質問を重ねる。美味いか不味いかで問われたら当然、美味しかった、と答えるしかない。美味しくないはずがないではないか。腹が膨れない代わりに胸の奥が膨れたような、そんな気がする。
 こくこくと頷いて肯定を返す燐の前では、弟がにんまりと、今までとは違う種類の笑顔を浮かべていた。

「じゃあ次は僕の番だね」

 ぎしり、と燐の背後にある手すりが音を立てる。もうこれ以上後ろに下がることはできないというのに、雪男が迫ってくるからだ。高いところは嫌いではないけれど、さすがに少しばかり恐怖を覚えた。雪男、と弟の名を呼ぶ。僕の番、とはどういう意味だろう。
 首を傾げる燐を見おろし、弟は続けるのだ。

「一つ、良いこと教えてあげようか」
 兄さんのそれ、悪魔だからじゃあないよ、と。

 もしかしたら弟の唇を食べてみたいと欲してしまうのは、燐が悪魔だからではないだろうか。そんな不安を弟は一蹴する。理由はといえば、「僕も同じことを思ってるから」だそうだ。

「……同じ、こと?」

 おうむ返しに呟いた言葉に、弟はうん、と頷きを返す。何がどう同じだというのだろうか。
 ますます意味が分からずに首を傾げてしまった燐を見やり、雪男はくすくすと楽しそうに笑っていた。

「だからね、兄さんが僕を食べてみたいって思うのと同じように、僕も兄さんを食べてみたいってずっと思ってたってこと。
 ってわけで、」

 ――いただきます。


 燐の言う「食べる」と雪男の言う「食べる」の意味が若干異なっているようだ、と気がついたのは、唇どころか口のなかまで散々舐めまわされ、舌に噛みつかれて吸い上げられ、ぞくぞくとした痺れに燐の足から力が抜けたあと、「もっと食べたい」と部屋に連れ戻され、ベッドの上に転がされたあとのことだった。




ブラウザバックでお戻りください。
2016.07.19
















キスの日。

Pixivより。