プレゼント戦線


 霧けぶる街、ヘルサレムズ・ロット。
 ここは今日も今日とて外界では考えられないような騒動があちらこちらで引き起こされている。主たる住人が異界存在であるため、人類が多く属するマフィアやヤクザの抗争など可愛いもので、ムカデに羽が生えたような巨大な虫が空を飛んでヘリを墜落させ、どこに消化器官があるのか分からないような生物がビルを食らい、化学反応でも起こしているかのようにあちらこちらで爆発音が響いている。この喧噪がもはやHLでは「日常」と呼んで差し支えないものであり、だからこそ、人間の頭部よりもさらに大きなカブトムシやクワガタが突然大量に発生し、住人を襲い始めるだなんて、いつもの日常の一部、と言ってもいいのかもしれない。
 悠長に原因を探っている暇も余裕もなく、世界の均衡を守るために活動している秘密結社の面々も、当然のように巨大甲虫たちを殲滅するべく街中を奔走していた。
 だからぁっ、と上がった息をなんとか整えつつ、ぶっきらぼうに吐き捨てているのは、非戦闘員の割にその能力が故に現場に出ることの多い少年、レオナルド・ウォッチである。顔面に装着したゴーグルの位置を軽く直し、彼ははあ、と息を吐く。

「そうやって、子どもみたいに拗ねるの、やめてくださいよ!」

 あんたもういい大人でしょ、とぎりぎり十代のイスに腰を下ろしているレオナルドがそう罵る相手は、彼が所属する職場の上司スティーブン・A・スターフェイズ。熱血で曲がることを知らない秘密結社のリーダを支える壮年の男だ。整った顔立ちにモデルかと思うほどのプロポーション、低く落ち着いた美声、ミステリアスな雰囲気と、異性の注目を集める要素をこれでもかというほど詰め込んだ男と、どちらかといわずとも同年代の同性に比べ体格が悪く、容姿も良いわけではない糸目癖毛のちびであるレオナルドは、なんの因果か「恋人」としてのおつきあいがあった。本当に、どこがどうしてそうなったのか、正直当の本人たちですらうまく説明はできない。けれどお互い職場の上司部下という枠には収まらないレベルで好意はあり、またしっかりやることはヤっているため、やはり恋人という関係に収まって当然だったのかもしれない。
 ぱたぱたと、スラックスの土埃を払いながら(どうせまた埃まみれになるだろうに、とレオナルドは思ったが口にはしないでおいた)、年上の恋人は眉間にしわを寄せてレオナルドを見下ろしてくる。

「大人だって拗ねたくなるときくらいあるだろ」

 情報源や資金源である人物を相手にしているときにはかぶっている猫を、いったいどこに脱いできたのだろう。いつもの人当たりの良さそうな笑み(ザップやK・Kに言わせると「胡散臭い腹黒い笑み」だそうである)を消し去り、男は盛大に「おもしろくないです」と顔面全体で語っていた。

「スティーブンさんの場合、頻度が高すぎるんですよ!」

 そんな大人げない大人へ、非力な少年が牙を剥いて突っかかる。どこか裏の読めない上司、油断のできない相手だと身構えていたのももはや昔の話。年の差はある、職場での立場の違いもある、けれど恋人としては同じ場所に立つひとりの人間同士だ、と開き直っている。そうでないとレオナルドの小さな心臓と胃が持たないと判断したのだ。主に心労とストレスで。だいたいあんた、と眉をつり上げて首を傾けないと視線も合わすことのできない恋人を睨みつけた。

「僕より何歳年上だと思ってんすか! つーか! 今日が誕生日ならめでたくまた一歳年の差が広がりましたよね!?」

 びしっ、と指を突きつけて放たれた言葉に眉を跳ね上げた男は、右足を上げ、だん、と地面を踏みしめる。もはや技名すら紡ぐこともなく生み出された氷が、レオナルドの背後に迫っていたカブトムシを貫いていた。ぱきぱきと、乾いた音を立てて広がる氷に、男の不機嫌さが表れている。そのまま伸びてきた腕に頭を押さえ込まれ、レオナルドは素直に膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。

「そんなに年寄り扱いすることはないだろう!? 事実でも傷つくぞ!」

 レオナルドの頭上を凪ぐように、スティーブンの長い左足が通り過ぎる。背後に八匹ほど飛んでいた甲虫たちが、その一撃で全身に氷を纏うことになり、ぱらぱらと地面へ落下していった。

「別に年寄り扱いなんてしてないでしょーがっ! 被害妄想激しすぎかよ!」

 言い返しながら男の足の下をくぐるように這い、背中合わせに立ち上がって周囲を見回す。戦闘下においてレオナルドの役割は基本的に「見る」ことであり、攪乱までできたらなおよし、だ。スティーブンの腕を引き、「十八番ストリートに結構な数が残ってます」と告げる。現在進行形で住人を襲っていた虫は何匹か視野混交で落としておいたが、それらが復活するのも時間の問題だろう。行くぞ、と短く告げた男の背中を追いかければ、「僕が少年を子ども扱いしたら怒るくせに」とそんな言葉が耳に届いた。

「少年は僕をおじさん扱いするって、ひどいだろ」
「だから、おじさんとは言ってないでしょう!?」

 今までの会話で、一言でも彼を「おじさん」と呼んだだろうか。もちろん年寄りだと言っているわけでもなく、ただレオナルドより年上だという、変えようのない事実を述べているだけだ。ついでに今日がこの面倒くさい男の誕生日である、ということも。

「つーかそーゆーこと言うならまず、その『少年』呼びをやめてくださいよ!」

 その単語が指す年齢の上限が決まっているというものでもないだろうが、少なくともハイスクールを卒業した人間相手に使うものではない。レオナルドはそう認識している。これでも親元から離れ、ひとりで生活をしている身なのだ。彼から見れば危ういところばかりなのは分かっているが、それでも庇護される対象だとは思われたくなかった。
 小走りで追いついた背中をべちん、と叩いてそう言えば、「それは嫌だ!」と返される。予想以上にきっぱりと拒否をされたことに驚き、思わず男を見上げてしまった。
 かつん、と石畳を蹴って氷を張り、さきほどレオナルドが落とした虫の動きを止めてから振り返ったスティーブンは、きょとんとしている恋人を見やり、「だってそれ、」と眉を寄せる。

「僕しか呼ばない呼び方じゃないか!」

 ある意味特別なそれをやめるのは嫌だ、と。
 恥ずかしげもなく言い切られた勢いに押され、「僕だってヤですよ!」とレオナルドも言い返してしまう。

「スティーブンさんに『少年』って呼ばれるの、ちょっと好きなんですから!」
 やめられたら困ります!
 と。
 叫んだあとに己の言葉の持つ意味に気がつき、ゴーグルの下で目を見開いて両手で口を塞いだ。が、一度音になって飛び出た言葉を回収できるはずもなく、正面にはにやぁ、と頬を緩めている恋人の姿。

「――――ッ」

 唇を噛み、衝動のまま腹立たしいほど長い足に蹴りを入れておいた。

「痛っ、おい、レオッ! まだ敵が残ってるの、忘れてないか!?」
「知りません! 僕は見る係りで、戦うのはスティーブンさんの係りですし!」

 ほら、クワガタがきますよ、と指さす前に、レオナルドの身体を腕のなかに抱き込んだ男は、絶対零度の盾、と氷の壁を出現させ、突進してきた虫たちを防いだ。がちん、かちん、と音を立ててぶつかったそれらは、一瞬にして凍り付き、地面に転がり落ちる。その気配を背後に覚えながら、レオナルドは男の身体の向こう側にいるはずの甲虫たちの視野を奪い、一匹残らずひっくり返しておいた。
 カブトムシもクワガタも複眼だ。たくさんの目が集まった視界がどのようなものか分からないが(見ようと思えばレオナルドには可能なのかもしれない)、目の数が多いだけに視野混交の効果は絶大だった。ざまあみろ、と恋人にしがみついたまま舌を出したあと、「もともとは!」と思い出したかのように声を張り上げて顔を上向ける。

「スティーブンさんが悪いんでしょう!? 今日が誕生日だとか、なんで当日に言い出すんですか!」
「しょうがないだろ、僕だってほんとに忘れてたんだ! 三十路すぎたおじさんが、自分の誕生日を気にするはずもないじゃないか」

 ひとにはおじさん呼ばわりをするな、と言っておきながら、自称する分にはいいだとか、そもそも矛盾しているのではないだろうか。レオナルドを抱えたままくるりと回れ右をし、スティーブンは小さな恋人が目を回させた虫たちをすべて凍らせてしまう。かつん、と周囲に広がる氷をつま先で軽く蹴れば、まるでスイッチでも押されたかのように、すべての凍りついた虫が砕け散った。
 ひとまずこの通りにいた虫はこれで殲滅したはずだ。くしゃり、とレオナルドの頭を撫でながら、「キリがないな」とスティーブンがうんざりしたように呟いた。彼らの技にかかればなんということもない虫たちであるが、さすがに湯水のように湧いてこられると対処のしようがない。どこから出てきてるんだか、という上司の言葉に、「探ってはいるんですけど、」とレオナルドは、まっすぐに伸びる通りのさらに向こうを見つめるように頭を上げた。

「なかなか、ヒット、しなくて……」

 キィン、と義眼の能力を発動させるとき特有の甲高い音が小さく脳内で響いている。スティーブンの戦闘を助けるように周囲の虫を落としていたが、レオナルドの眼に求められていることは虫たちの発生源を見つけることだ。かなり視野を拡大して見ているのだが、出現場所がばらばらすぎて元をたどるのに時間がかかりそうだった。

「……っ」

 ちり、と瞼に熱を覚えて息を呑めば、「少年」とスティーブンが額に触れてきた。ぐい、と無理矢理ゴーグルを引き上げた男は、己の血で作った冷気を纏わせた右手をレオナルドの瞼に翳す。

「無理はするな、少し休みなさい」

 この騒動が持ち上がり、ちょうど一緒にいたスティーブンと事務所を飛び出てからずっと、レオナルドが義眼を使っていたことなどお見通しだったらしい。熱を持った肌が冷やされる心地よさに零れそうになった息を押しとどめ、「でも、」とレオナルドは口を開いた。

「僕ができることはこれだけですから」

 自分になにができてなにができないのか。
 この街で生き抜くためにはその見極めが重要だ。自分にはその能力があるのだと驕ればすぐに足下をすくわれるだろうし、できないことばかりだからと身を縮めていても守ってくれるものは誰もいない。できることを精一杯やることこそ、できるはずのことをできなかった愚鈍な人間が唯一行えること。
 そんなレオナルドの答えがどうやら恋人の癇に障ったらしい。ちっ、と舌打ちが上から降ってきた。素のままの表情を見せてくれるようになったのは喜ばしいが、少しガラが悪すぎやしませんかね。

「これだから君はほんと……」

 続けて盛大なため息が零され、なぜだかぎゅうと抱きしめられた。力が強すぎて正直とても苦しい。身じろいでみるも、その腕から抜け出ることは難しそうだった。


**  **


 レオナルドとスティーブンによる口論のそもそもの発端は、今朝、出勤してから知った事実について、である。

「えっ!? スティーブンさん、今日が誕生日なんですか!?」

 男と旧知であるクラウスから知らされたそれに、驚いて思わず声をあげてしまう。しかし当の本人は、PCのモニタに視線を下ろし(おそらく日付を確認したのだろう)、「そういえばそうだったね」と素っ気なく肯定するだけ。
 所用があるだとかで、ギルベルトを伴って出かけたクラウスはそれでも、「おめでとう」と祝いの言葉をおいていった。今日はまだザップも顔を出しておらず、ツェッドも外出しているという。スティーブンとふたりきりになった部屋で、レオナルドはじっとりとした視線を恋人に向けた。

「……なんで、もっと早く言ってくれなかったんですか」

 恨みがましげな言葉に、「え?」と男は目を見開いて首を傾げる。レオナルドがなにを怒っているのか、とっさに分からなかったらしい。「僕、なにも用意できてない」と続けた言葉に、ようやく自分の誕生日についてだ、と気がついたようだった。
 くしゃん、と顔を歪め、「だから、僕も忘れてたんだって」とスティーブンは言う。男のデスクに歩み寄り、レオナルドはばん、と両手を重厚な天板に付いた。

「それでも! 言って! 教えてください!」

 何せレオナルドはスティーブンの恋人なのだ。釣り合いがとれていないのは重々承知しているが、スティーブン自身がそうであると認めている事柄を、レオナルドが否定する、あるいは後ろめたく思う必要はかけらもない。
 恋人の誕生日なのに、なにもしてあげられない男の気持ちを考えてください、と言うレオナルドの悔しさが伝わっただろうか。スティーブンの顔に浮かべられていた表情が苦笑から柔らかな笑みに変わり、「うん、ごめんね」と宥めるように右手で頬を撫でられた。
 八つ当たりだと分かっている、彼がそう言っているのだから本当に意識の外にあった事柄だったのだろう。むしろつきあうとなったときに、きちんと確認しておくべきだったのかもしれない。
 けれど、ただでさえ男としては一回りも二回りもレベルの違う相手のそばにいるのだ、どんなに小さな事柄でもきちんと恋人としてしてあげられることはしてあげたいのに。
 「もうっ」と頬に触れる男の手を叩いて、レオナルドは息を吐き出した。

「今からプレゼントは用意できないですし、手持ちもないんで、何か僕にできること、ないですか? 今日は一日スティーブンさんのわがまま、何でも聞きます」

 渡すべき物がないのだから、あとは身体と気持ちでどうにかするほかない。レオナルドのできることなど限られてくるだろうが、せっかくの誕生日なのだ、今日は特別な日だという認識を彼にも持ってもらいたかった。
 恋人の提案に、「そこまでしてくれなくてもいいのに」と笑いながら、スティーブンはあごに手を当ててしばし考え込む。それじゃあ、と口を開いた男は、名案とばかりにその希望を言葉にした。

「今日一日、君が僕にめいっぱい甘えてくれよ」

 にっこりと、嬉しそうに紡がれたそれの意味を理解すると同時に、レオナルドはごく自然に、当たり前のように、「え、無理ですよ」と返してしまっていた。


**  **


「『無理ですよ』って! 考える間もなく無理って! 何でもわがまま聞くって言ったのは君のほうだろう!?」

 それなのに、せっかく思いついたそれを、一言で却下され、スティーブンの機嫌はかくんと垂直に落下した。
 直後に街中で引き起こされた甲虫大戦争の知らせが飛び込み、ふたりでぎゃあぎゃあと口論をしながら事務所を飛び出たというわけである。
 各地にいるメンバに指示をとばし、情報を集めながら大量に飛び交う虫をひとまず落としていく。レオナルドの眼で虫の集まっている場所を探し、そちらへ向かって一掃してからまた次のストリートへ。それを何度繰り返しただろうか。

「今日僕の誕生日だぞ!? せめて努力する振りくらいしてくれてもいいじゃないか!」

 氷を纏った蹴りを繰り出し、レオナルドを守りながら戦う男は、口を開くたびにずっと不満をぶちまけ続けていた。けれど、スティーブンの腕のなかにいる少年もただの少年ではない。その両眼もさることながら、ライブラ副官の恋人の位置に座っている男なのである。キィン、と義眼を光らせ、虫の視界を奪って誘導し、一カ所に集めながらレオナルドは必死に言い返していた。

「あ、甘える、とか、どーしたらいいか、分かんないですし! つーか、僕が甘えたってきもいだけでしょーが!」
「恋人に甘えられて嬉しくない男がいるか、バカ!」

 がう、と吼えてみれば、それ以上の勢いで吼え返されてしまった。

「ただでさえ少年は甘えないんだから、こういう日くらいは僕に甘えてくれよ」

 レオナルドが甲虫を集め終わったタイミングを見逃すはずもなく、絶対零度の剣、と氷の剣が虫たちを一掃する。周囲にはすぐに危険になるような虫はおらず、ふぅ、と安堵の息を吐いて、「逆でしょう、それ」とレオナルドは呆れたように言った。

「今日はスティーブンさんの誕生日なんですよ? 僕があなたを甘やかすのならまだしも」

 祝う側が甘やかされるというのは何かが違う気がする。唇を尖らせるレオナルドを見下ろし、スティーブンはふ、と柔らかな笑みを浮かべた。

「それは割と日常的にしてもらってるから別にいいや」

 彼の言う「それ」はつまり、レオナルドに甘やかしてもらっている、ということで、「ああ、自覚あったんすね」と思わず呟きが零れてしまった。
 腹黒い、冷血漢、クール、そんな言葉を浴びることの多い男であったが、それは彼の外側だけを見た場合であり、プライベートではかなり感情表現が豊かで子どもっぽく、また甘えたがりであった。レオナルドの言葉に、スティーブンは笑ったまま「まあね」と肯定を返してくる。
 「この近辺に殲滅対象は?」「いません」という短いやりとりのあと、スティーブンは携帯端末を取り出し、何やら操作をし始めた。おそらく情報の収集をしているのだろう。熱を持つ義眼に無理な動きはさせないよう、レオナルドも己ができる限りの情報収集に努める。

「君がいうとおりにね、」

 小さな画面をスワイプし、目を細めて文字を追いかけながら彼は口を開いた。

「僕はいい年をしたおじさんだよ、君より十以上も上だ。だからこそね、それなりに自分の扱い方は知っているし、力の抜き方も知ってるつもりだよ」

 そうして心身のバランスを取る術を身につけていなければ、このような世界を生き抜いていくことなど難しいだろう。スティーブンが今のレオナルドくらいの年齢のとき、どこでなにをしていたのかは分からないが、きっと平和な世界に生きてはいなかったはずだ。戦いの場に身を置くことが多いからこその生き方というものを、スティーブンは知っている。

「少年くらいだとまだ、理由がないとわがままも言えないだろうから」

 まあ僕が勝手に君の心配をしているだけなんだけどね、と男は言って苦笑を浮かべた。
 相手が恋人であれ友人であれ、あるいは肉親であれ、わがままを言うということは自分の欲望に素直になるということ。ため込んでいる感情を吐き出すということ。それが一種のストレス解消になる、ということはレオナルドでも分かる。そしてスティーブンが心配するように、己がそういったことに対し、ひどく不器用だという自覚もある。それはまだあまり年を重ねていない年少者の意地なのかもしれないし、ただ性格的に難しいだけなのかもしれない。

「……理由があっても、いいづらいっすよ」

 俯いてぼそりと紡いだそれに、頭上の男が小さく笑った気配がした。
 わがままといっても、そもそも本当にどんなことを口にすればいいのか、分からないのだ。甘えるのが好きなくせに、甘えられるのも好きだという男のために、自分のできることであればしてあげたい気持ちはある。だからできれば、スティーブンのほうからあれをしろ、これをしろ、と具体的に言ってくれたら助かるのだけれど、さすがにそれは丸投げにしすぎているな、と自分でも思った。

「どうやらあちこちで虫退治が済んだみたいだな」
「あ、確認、します」

 結局原因は分からず仕舞いであったが、騒動が集結するのならばそれでよしとしよう。大方誰かがペットとして飼っていた虫が逃げ出しただとか、どこぞの堕落王の暇つぶしだとか、知ったところで脱力するような理由しか出てこないに違いない。
 今のレオナルドではHL全体にまで視界を広げるのはさすがに難しいが、いつかはできるようになりたいところだ。可能な限り遠くまで見渡し、巨大な甲虫(彼らは同じオーラを纏っていたため見つけやすかった)が飛んでいないかを探る。じりり、と肌が焼ける一歩手前で視界を切り離した。眼を閉じると同時にくらん、と脳が揺れ、倒れる前に自ら膝を折って尻を地面に下ろす。レオ、と慌てたような男の声がした。

「大丈夫です、周辺に虫はもういません」

 そう告げたレオナルドの前に同じようにしゃがみ込んだ男は、「だから無茶をするなって言うのに」と目元に手を伸ばしてくる。ひんやりと、心地よい冷たさに、今度こそほぅ、と安堵の息を零した。
 なんでもいいんだよ、とじくじくとした眼孔の疼きに耐えていたレオナルドへ、恋人は優しい声音で言葉を紡ぐ。

「本当に、何でもいいんだ。まあ仕事に関係することについては却下するものもあるだろうけど。あれが欲しいこれが欲しいっていうおねだりでも、あれが食べたいこれが食べたいっていうディナーのメニューでも、バイトの送迎でも、キスをねだってくれたっていいし、なんなら今日が終わるまで、君の足の裏が地面につくことがないようにしてあげたっていい。もちろん、ベッドの上でのわがままも大歓迎」

 甘える、ということがレオナルドにとってはひどく難しい事柄で、でもだからこそ、その難しさ(あるいは羞恥心)を乗り越えて手を伸ばして欲しい、とスティーブンは願ってくれているのかもしれない。そうしてもらえると彼自身が嬉しいという気持ちが八割、残りの二割は不器用なレオナルドを思いやってのこと。
 瞼を閉じたままはああ、と大きなため息をついたあと、「努力、してみます」とレオナルドは小さく言葉を返した。
 無理、と一言ではねのけてしまうのは、確かに暴挙すぎた。今日はスティーブンの、恋人の誕生日なのだ、彼の望むことをしてあげられるよう努力することが、レオナルドの役目である。
 ありがとう、と嬉しそうに礼を述べた男は、震える端末に視線を落として立ち上がった。耳に当てて話し始めた口調、内容から、おそらく相手はクラウスだろう。少し笑いながら、けれど真剣な顔をしている恋人をぼんやりと見上げ、やっぱりかっこいいなぁ、と思っていたところで、かつかつかつと、近づいてくる足音が耳に届く。
 突然の甲虫大発生にHLの住人たちも建物のなかに身を潜めているものが多かったが、虫がほとんど制圧されたことを感じ取り、街は徐々にいつもの喧噪を取り戻しつつある。通りすがりの誰かだろう、とそう思ったが、足音の主はちょうどレオナルドたちのすぐそばで歩みを止めたようだった。
 おい、と声がかけられたのと、レオナルドが頭を上げたのはほとんど同時で。

「ああ、警部補。お久しぶりです?」
「どこが久しぶりだ、白々しい。一昨日顔あわせたばっかだろうが」

 スティーブンを見やり苦々しげな顔をしている男は、HLPDに所属する人物、ダニエル・ロウであった。レオナルドは何度か現場で見かけたことがあるくらいで、直接話をしたことがあるわけではない。どうやらスティーブンとは交流があるようだったが、双方の醸し出す雰囲気から友好的なそれではなさそうだ、となんとなく思った。
 端末をポケットにしまい込みながら笑みを浮かべたスティーブンへ、ダニエルは「なんか分かってることあるか」と目的語もなく問いを口にする。それに我らが副官はわざとらしく肩を竦めて、「さっぱり」と返した。その答えに偽りはない(と思う)のだが、いかんせん仕草が胡散臭いためどうにも信じられないようだ。ダニエルは疑わしげな表情を隠そうともしていなかった。ただ何かあったとしても、スティーブンから簡単に話が聞けるはずもないということも理解しているのだろう。がしがしと頭を掻いたあと、舌打ちを零した男は、まだへたり込んだままでいるレオナルドへ視線を向けた。最初から険しい顔をしていたが、その表情がますます不機嫌そうに曇っていく。おい、とダニエルは吐き捨てるようにスティーブンを呼んだ。

「何度か見かけはしてたけどよ、現場にこんなガキ連れてくんじゃねぇよ。死んでもしらねぇぞ」

 心配を、してくれているのだとは思う。
 警察に属している人間なのだ、口や態度は良くなくても、基本的に正義感を持った良いひとなのだろう、ということも分かる。
 分かるけれども。
 ほとんど初対面の相手を『こんなガキ』呼ばわりとはいかがなものか。

「これでもうちの構成員ですからね。そう簡単に死ぬような子じゃないですよ」

 警部補の言葉にそう返すスティーブンもスティーブンだ。
 そう言ってくれるのは嬉しいのだが、できれば『子』という表現をやめてもらいたかったし、『ガキ』という部分を否定してもらいたかった。子ども扱いをすると怒る、と先ほど彼自身も言っていたのを忘れたのだろうか。
 目を細めたまま眉を寄せ、ふたりの男を睨みつける。しかし彼らはレオナルドの怒りなど気づきもせずに、状況報告と雑談を交わしていた。内容からするに、さほど意味のある会話でもなさそうだ。この程度の騒動はHLでは三十分ほどで忘れられてしまうものなのだ。
 余所行きではあるけれど、どこか気安さを滲ませた表情を浮かべている恋人を前にますますおもしろくなさが膨れ上がったレオナルドは、会話がとぎれた瞬間を狙って「スティーブンさん!」と男を呼んだ。
 目元を緩めて振り返ってくれた恋人に向かい、座り込んだまま両腕を伸ばす。

「抱っこ!」

 今日はめいっぱいわがままを言って甘えて欲しい、と望んだのはスティーブンのほう。レオナルドには「恋人に甘える行為」というものがまだ上手く想像できず、思いつくものは子どもが親に向けて、あるいは妹が兄に向けて放つそれである。さすがにそれは違うよなぁ、と思っていたのだけれど、来年二十歳になろうかという人間を子ども扱いしてくるのならば、子どもらしく振る舞ってやろうではないか。
 余りに突然であり、脈絡のないそれに、伊達男が珍しく表情を崩しレオナルドを見つめていた。ついでにへらっと笑ってやる。いつも甘ったるい声で「レオの笑顔が好きだよ」と言ってくれる、気の抜けた間抜けな笑顔だ。

「は? はぁああっ!?」

 奇声をあげたのは、見開いた目でレオナルドとスティーブンを交互に見やっていた警部補だった。
 彼の脳内でどういう想像が展開されたのか、「ス、スターフェイズッ」と信じられないものでも見るかのような視線を向けて名前を呼ぶ。

「おまっ、こんなガキに手ぇ出してんのか!?」

 だめだろこれは、淫行だろっ、と懐から手錠を取り出して構える始末。その反応はレオナルドの心もぐっさりと抉ってくれたが、それ以上にスティーブンが盛大にやられているようなのでなんとなく溜飲が下がった。

「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ! っていうかレオ! 突然どうした!」

 慌てたように正面にしゃがみこむ男へ、「だって、」とレオナルドは子どもっぽく見えるようわざと唇をつきだしてみせる。

「わがまま言えって言ったの、スティーブンさんでしょ」
「――ッ、そうだけど! なにも警部補の前でそんなかわいいことしなくても!」

 あ、この態度、かわいく見えるんだ、とどこか冷静な部分でそう思いつつ、「知りません」と切り捨てた。何せレオナルドは今わがままを発揮しているのだ。スティーブンの都合など考えてなどいられない。

「僕、ムシキング退治ですげー働いて、疲れたんです。だから、」
 抱っこして連れて帰ってください。

 このあとバイトの予定は入っておらず、連れ帰る先はどこでも構わない。そんな言葉の裏側に気が付いているのかいないのか、伸ばした両腕の先で整った顔を大きく崩した恋人が「ああもう!」とぐしゃぐしゃと自分の頭をかき回していた。

「君は、僕を、どうしたいの!」

 どうやらこの子どもっぽいわがままは、相当恋人のツボだったらしい。



***     ***



 横たわるレオナルドの頭をゆるりと撫でながら、「もし、」と男が静かな口調で問いかける。

「ちゃんと知ってたら、プレゼントとか用意してくれたの?」

 全身にのしかかってくる疲労感は睡魔に移行し始めており、うとうととしながらレオナルドは「当たり前、じゃないですか」と頭をよこに向けて座っているスティーブンを見上げた。

「僕は貧乏っすから大したことできないし、あなたが普段使ってくれそうなものなんて、とても用意はできないかも、ですけど、でもやっぱりお祝いはしたいです」

 だって、とレオナルドは口元を緩め、心底嬉しそうに笑いながら言葉を続ける。

「大好きなひとの誕生日ですよ?」

 そんな素敵な一日を、喜ばないはずがないではないか。
 そう口にして、レオナルドは、はっと目を見開いた。薄暗い寝室に一瞬だけ青い光が浮かんで消える。
 けだるい身体を無理矢理起こし、ちゃんとスティーブンに向き合って少年はその手を男の頬に伸ばした。

「お誕生日、おめでとうございます。生まれてきてくれてありがとうございます」

 当日になって突然知らされてしまった上に、そのあとのごたごたですっかり言いそびれてしまっていた。まだ日は越えていないからセーフということにしてもらいたい。
 まっすぐに紡がれた祝辞にわずかに目を見張った男は、しかしすぐにくしゃりと目元を歪め、恋人の細い身体をかき抱いた。

「ありがとう、レオナルド」
 その言葉が今まで生きてきた中で、一番嬉しいプレゼントだよ。




ブラウザバックでお戻りください。
2016.07.20
















スティーブンさんはしばらくダニエルさんから犯罪者呼ばわりされたそうです。

Pixivより。