○○な子


「君を愛するつもりはなかったんだ」

 左頬に傷を持つ男が、ぽつり、そう声を零す。
 愛していたのに。
 愛してくれていると思っていたのに。
 そう泣かれ、叫ばれ、罵られたところで、今後その相手を愛する予定もない。なぜなら、彼女はすでにこの世から去っているから。たった今、氷の刃に貫かれて生を手放したばかり。
 ふ、と吐き出した息が白く濁る。

「だから、愛されても困るんだよ、レディ」


**  **


「あ」
「あ!」

 あまりひとには言えない仕事を終わらせ、直帰するためにタクシーを停めるか迷いながら歩いていたところだった。タイミングがいいのか悪いのか。二十時に近い時間帯といえど、まだ賑わう大通りで部下にばったり出会う。彼はおそらくバイト帰りなのだろう。いつも乗っている原付は、そういえばパンクして使えないとぼやいていた。

「やあ、少年。偶然だね」
「あー……お疲れさまデス」

 笑って片手をあげたこちらに対し、少年と呼びかけた相手、レオナルド・ウォッチは顔を背けて片言での挨拶。礼儀や愛想についてとやかく言うつもりはないが(そしてどちらかといえばこの少年は礼儀も愛想もそれなりに持っているほうだった)、さすがにおもしろくない態度である。彼は伺うようにこちらを見たあと、またすぐに明後日の方向へ視線を反らせた。

「しょーねん?」

 できれば今すぐにでも、この場から逃げたそうな雰囲気をびしびしと感じる。普段そこまで親しいという間柄ではないが、あからさまな態度を取られると気になるのはひととして当然のこと。笑ったまま手を伸ばし、レオナルドの腕を捕まえる。びくぅ、と触れたこちらが驚くほど、少年は身体を震わせた。

「……やめてくれよ、弱いものいじめしてるみたいじゃないか」

 腕から手を離さないままため息をつけば、少しだけ涙を浮かべた彼がぎっ、と睨みつけてきた。といってもいつものように開いているのかいないのか分からない目であるため、迫力はまるでない。

「しょーがないでしょうっ! そんなどす黒い怨念背負ってるスティーブンさんが悪いんですよっ!」

 もーやだ、僕まで不幸になる、離して! と泣かれてはますます離すわけにはいかなくなった。「ひどいなぁ、少年」とスティーブンはレオナルドをぐいと引き寄せ、その腰に腕を回す。男の部下にするような仕草ではないと分かっていてのことだ。

「そんな黒いオーラくっつけてる僕の心配はしてくれないわけ?」
「知りませよ、自業自得でしょ! つーか、そこまで恨まれるって、あんた何やったんっすか……」

 スティーブンの腕のなかから逃れながらも、立ち去る気はないらしい。とどまって話をするような場所でもなく、ふたりはなんとなく道なりに歩を進めた。レオナルドの自宅に近づいているため、間違った方向ではないだろう。
 少年からの問いかけに、うーん、とスティーブンは首を傾げる。

「レディに夢を見させてあげた、ってところかな?」
「うっわー、うさんくせぇ……」

 隣で吐き出された言葉にははは、と笑ってもじゃもじゃの頭を叩いておく。髪の毛のクッションのせいで、ぽすん、というなんとも味気ない音がした。
 遠慮というものを、この少年はいったいいつから無くしてしまったのだろう。最初の頃はもっと遠巻きにこちらを見ているような、そんな壁があったはずだ。それが気がついたときには、こう。相手との距離を見て態度や言葉を変えてくることは、大抵の人間ならばできること。おそらく、レオナルドはそれが極端に上手い。そのことに本人は無自覚。恐ろしい子である。自覚的にできるようになればきっと化けるだろうなぁ、と唇を尖らせて叩かれた後頭部をさすっている少年を見下ろして思った。
 降ってくる視線に気が付いたのか、ふいとレオナルドが頭を上向かせる。己の頬が緩んでいることは分かっていたため、また文句でも言われるのかと思えば、少年は無言のまま眉間にしわを寄せた。わずかに青い光が零れたのは、彼が目をうっすらと開いたからだろう。神の芸術品でスティーブンを見たあと、レオナルドは前を向いてため息をつく。

「呪いじゃないとはいえ、そういうのだって結構影響出たりするって言いませんでしたっけ。ほどほどにしないと身体壊しますよ?」
 身体より先に心が壊れるかもですけど。

 あっさりと恐ろしいことを言ってくれるものだ。ぞっとしたものが背を這い上がる。言葉を失ったスティーブンに、レオナルドはますます渋面を作って深いため息をついた。

「そーゆーとこ、全然ふつーな感覚のくせに」

 今度はスティーブンが唇を尖らせる番だ。(三十路をすぎた男がそんな顔を作っても気持ちが悪いだけだと分かっているため、実際にはしないけれど。)誰だって心が壊れる、と脅されては嫌な気分になるだろう。しかも、通常ではない視界を持つ少年がその眼で見たうえでの忠告なのだから。

「……僕はできるだけ『まっとうな感覚』を失わずに生きたいんだよ」

 こういった世界で、こういった街で生きているため誤解されているのかもしれないが、スティーブンはちゃんとひとでありたい、とそう思っている。どれだけ人間とはことなる化け物を相手にしていようと、人間とは思い難い非道な手段を選ぼうとも、ひととしてある心がなければ意味がないのだ。
 ぼそり呟けば、何か言いたそうなレオナルド少年と視線が合う。しかし彼は結局言葉を飲み込んだようだった。どうせもう遠慮なんてないのだから言ってくれて構わないのに、と口にすれば、「これ以上は僕がいじめっ子になりそうですから」と返される。確かに。十以上も年下の子どもにいじめられている気分だ。
 ふふ、と小さく笑い、「少年は良い子だなぁ」と今度は頭をくしゃくしゃと撫でてやる。「なんっすか、もうっ!」と手をはたき落とされた。良い子だけれどちょっと乱暴な子だ。
 軽口は脇によけても、スティーブンがレオナルドを良い子で優しい子だと思っていることは事実である。誰しもがそう思うかどうかは分からないが、十人中九人くらいは「悪いやつじゃない」とは言うだろう。
 スティーブンが最初に触れたとき、震えた彼の怯えは本物だった。本心からスティーブンの背負っている(どす黒いらしい)オーラに怯えていたのだ。それなのにこうしてそばにいてくれているのは、ひとえに心配してくれているから。知らない、自業自得だ、と突き放すようなことを言いながらも、そんなオーラをまとわりつかせている、どうしようもない上司を放っておけないのだ。彼はこの街においても努めることなく『まっとうな感覚』を持ち続けることのできる、希有な人物なのだろう。
 目を細めてレオナルドを見下ろし、「すまんな」と謝罪を口にした。突然の言葉に少年が疑問を発する前に、「もう帰るところだったんだろう?」と続ける。

「これ以上遅くならないうちに気をつけて帰りなさい。寄り道はしないように」

 怯えている彼をこれ以上つきあわせるのも酷なことだ。レオナルドと話ができて、スティーブンの気分もだいぶ向上してきた。そろそろ解放やらなければ、と背中を押して別れを告げたつもりだったのだけれど、「ッ、ス、ティーブンさんっ!」とその少年にジャケットのすそを引っ張られる。視線を向ければ、きりりと眉をつり上げたレオナルドがいた。
 強い力ではなかったが掴んだジャケットを離すつもりはないようで、少年はどこか焦ったような顔で言葉を探している。どうして自分がスティーブンを引きとめたのかが分からない、というような表情ではない。引き止めた理由は明確なのだ、しかしそのための手ごろな言い訳が咄嗟に思いつかない。
 そうして焦ったまま小さな頭で考えた結果。

「い、慰謝料を、請求しますっ! そんな、真っ黒けで僕を怖がらせた慰謝料!」
 仕事が終わってるなら、晩飯奢ってください!
 寄りにも寄って慰謝料とは。どこぞのザップではあるまいに。あのクズの近くにいる割にあまり変わっていないと思っていたが、確実に悪影響が出ている。クラウスとK・Kに相談したほうがいいだろうか。
 おそらく、内心では彼自身も慌てているに違いない、もっと違うように言えなかったのか、と。ぎゅうと握りしめられた拳がレオナルドの焦りと後悔、そして必死さを物語っていた。
 ひとりにできない、彼はそう思ってくれたのだ。
 他人からの恨みをまとわせた男を、このままひとりでは帰せない、と。
 他者から向けられた負の感情は、気持ちが強ければ強いほど、長い間まとわりついて離れないのだそうだ。黒い気持ちを背負い続ければ、やがてその人物自身が発する感情も黒く汚染されていく。「嫌なことがあって気持ちが沈む」という状況を、レオナルドは眼で見えるものとして捕らえているのだ。背負った他者からの黒い感情を払拭するにはどうすればいいのか、という問いに、「気を紛らわせたらいいんじゃないですかね」と少年はあっさりと答えた。楽しいことをしていれば、黒く暗いオーラが薄れる度合いが速まっているから、と。
 神々の義眼がどこまでのものを捕らえているのか、詳しく尋ねていたときに交わした会話だ。そのひと自身の発するオーラはどう頑張っても見えてしまうそうで、オーラに混ざる喜色や悲哀も彼には分かる。できるだけ気にしないようにはしているそうだが、見えてしまうと黙っていられないのがレオナルド・ウォッチという少年だった。さりげなく声をかけ、仕事を手伝い、飲み物を用意したり差し入れたり、気分が変わるように優しさを振舞っている。ひとに与えてばかりいては、そのうち彼自身がすり切れてしまうのではないだろうか。そんな危惧さえ覚えてしまうほど。
 はぁあ、とため息をついて額を押さえる。スティーブンの態度を見て機嫌を損ねたと思ったのか、レオナルドは「あ、わ、す、すみません、調子に乗りましたっ」とジャケットを掴んでいた手を慌てて離した。
 引かれかけた腕を咄嗟に捕らえ、スティーブンは少年を見下ろす。にっこりと笑みを浮かべれば、少年は「ひっ」と引きつった悲鳴を零した。失礼な、取って食いはしないよ、物理的には。

「今日は外食という気分じゃなくてね。悪いけど、我が家のディナで我慢してくれるかい?」
「はっ!? あ、いやっ! そ、そこまではっ! つーか、ほんとすんません、ごめんなさい!?」
「んー? 何を謝ってるんだ? 怖がらせたお詫びはちゃんとするよ」

 わざとらしくははは、と笑いながら、少年の腕を引いて止めていた足を動かし始める。優秀な家政婦は今日もしっかり夕食の準備をしてくれているだろう。けれどそれはひとり分であり、客を呼ぶとなれば量が足りないかもしれない。ある程度食材はあるだろうが、自宅に戻る前にどこかで買い物をしたほうがいいだろうか。足の進んでいない少年を半ば引きずるように連行しながら考える。

「今! ナウ! 怖い!」
「そうかそうか、じゃあその分も含め、デザートも奮発してやろう。マーケット寄ってくぞー」
「あああああ、引っ張らないでっ! 分かった、分かりました! お呼ばれします、ついていきますっ! からっ! 手を離して、不幸が移るぅうう」

 ひとを不幸の塊みたいに言うのはやめてもらいたい。さきほどは自分からジャケットを掴んできたというのに。こうなれば意地でも離してやるものか、と腕を掴んでいた手に力を込め、「さっきも思ったけどさ」とスティーブンは少しだけ振り返って口を開いた。

「君の不幸値はすでにカンストしてると思うんだよね」
「うるせぇえええっ!」

 涙目で切れられた。たぶん、彼も自覚はあるのだと思う。トラブル体質で、いつも何かしらの事件に巻き込まれているのだ。今スティーブンと出会ったことも、彼にとってはトラブルの一つに違いない。かわいそうな子である。「俺だって! ちょっとくらいは! 幸せになりたい!」と泣きながら吠える少年に、「じゃあ俺が幸せにしてあげるよ」と返してみた。

「…………は?」

 きょとんとした少年は、ゆっくりとその意味を理解したのだろう。じわじわと顔を赤く染め、スティーブンを見上げて息を呑む。言葉を探して唇を開閉させたあと、涙目のままぎっ、と睨みあげられた。レオナルドは美形というほうではないが、顔の作りが悪いわけではないと思っている。真っ赤になった丸い頬に、じんわりと涙をにじませた目、つり上がった眉、きゅっと噛みしめられた唇。存外かわいい顔ができるじゃないか、と思っていた男の鼓膜を震わせる、少年の叫び声。

「そんだけ他人から恨み買ってるあんたに、ひとを幸せにできるわきゃねぇでしょうがぁああっ!」

 まっとうな感覚を持った感情豊かな少年には、ミステリアスな伊達男の決め顔でのプロポーズは効き目がないようだった。


**  **


「付き合ってもないおっさんにプロポーズされた……」
「何が『幸せにしてあげる』だ、ばかじゃねーの」
「そーゆーのは女のひとに言えっつーの」

 マーケットで買い物をする間もタクシーで自宅に戻る間も、レオナルド少年はぶちぶちと文句を言い通しであったが、ディナを用意したテーブルを目にしその口はころりと食事を取ることに作業をシフトチェンジした。どうやらここ最近懐事情が厳しく、ろくなものを食べていなかったらしい。スティーブンの部屋だから気にする必要もないと思ったのか、真っ青な眼を大きく見開き、口の中に食べ物を詰め込んでいる。

「僕もう、スティーブンさんちの子になるぅぅぅ……」

 涙目でそんなことを言うレオナルドを前に、さすがに頭痛を覚える。だめだこの子、早くなんとかしないと。彼自身が与える優しさにはほど遠い、ほんの少しの親切を受けただけでここまで絆されてくれるだなんて、簡単すぎる。ちょろい子。こんな調子ではきっと近い将来、誰かにぺろりと食べられてしまうに違いない。
 ため息を飲み込んでそう考えていたところで、ふと、思う。
 それならば。
 今ここでスティーブンが食べてしまっても、何の問題もないのではないだろうか。




「まいったなぁ、君を愛するつもりはなかったんだ」
「俺だって! おっさんに尻を掘られるつもりはなかったっ!!」

 ベッドのなか、お互い素っ裸のままで戯れに呟いた言葉への返答は、鳩尾への肘鉄だった。愛が痛い。




ブラウザバックでお戻りください。
2016.07.20
















「まいったなぁ、君を愛するつもりはなかったんだ」
という台詞を使って話を作るという企画参加作。
お互いの扱いがすげー雑なふたりが好きです。

Pixivより。