奈落の底の奥


 負担や負荷を自覚しているなら良いが、それが無自覚であった場合、手に負えない状況にまで追い詰められてようやく気付く、ということになる。いや、自覚していたところでそれを無視し、押し込めていたら同じことかもしれない。
 自分なら大丈夫だ、と過信していたところもどこかにあっただろう。たとえ大丈夫でなかったとしてもどうしようもできない、という現実を理解していたということもある。
 人間の精神はこんなにも脆いものだったのか、と半ば他人事のように考えながら、ユーリは己の左手を見る。ふるふると、まるで痙攣を起こしているかのように止まることなく震えるそれに苦笑が零れた。
 いつから、など考えずとも分かる。罪を背負う、と決めたあの時から、時折ユーリを襲うようになった効き手の痙攣。以前は夢に魘されて目覚めた直後だとか、宿で一人になった瞬間だとかにふと現れていたその症状は、最近頻度が増してきた。
 宿屋の一室、窓枠に腰かけ、ユーリは自分の手から視線をそらせ夜空へ目をやった。
 金の髪を持つ親友はその容姿と真っ直ぐな気性から太陽のようだ、と称されることがある。それに対し好んで黒を纏うユーリを夜空のようだ、と。

 誰が夜空だ、とユーリは思う。

 現実の夜空は零れんばかりの星を抱えこみ、こんなにも広く雄大だ。自分で招いた結末に怯え、震えている小さな人間とは似ても似つかない。
 かたり、と入口の扉が開く音。誰が戻ってきたのか、振り返らずとも分かる。この部屋はユーリともう一人、フレンが使うために取った部屋だ。
 ユーリ、とどこか気遣わしげに名を呼ばれ、俯いて小さく首を振った。
 震えの止まらない手を伸ばせば、ぎゅう、と抑えこむように強く握り返される。

「情けねぇ、よな」

 自嘲の言葉に返事はない。
 どうして、と質問もない。
 聞かれたところでユーリにもはっきりと答えられないのだ。
 良心の呵責、背負った罪の重さ、汚れた手のひら。
 一瞬でも気を抜けば、すべてに押しつぶされてしまいそうで。

「なあ、フレン」

 彼へ視線を向けることなく、似ていると称される夜空へ視線を向けてユーリはひっそりと言葉を紡いだ。
 心の奥に眠っていた想い。


「――オレを、殺してくれ、よ」


 常日頃そう考えているほど悲観的ではないが、それでもふとした折に湧いて出るそれを耳にし、フレンはどう思うだろうか。
 ふざけるな、と怒るだろうか。甘えるな、と背を叩いてくれるだろうか。逃げるな、と叱責するだろうか。
 自分で口にしてみたはいいが、はっきり言えば彼の反応はどうでもよかった。たとえどれほど近しい位置にいたところで、この不安や恐怖といった黒い感情をどうにかできるはずがない。それらはすべてユーリが自分で招き、引き入れたもの。自身でどうにかするほかない。
 それが分かっているからこそ、ユーリはフレンの返事を待たずに握られた手を引こうとする。
 しかし、彼はそれを許してくれない。ぎゅ、と更に強く握られ、手の甲へ吹きかけるように紡がれた言葉。
 予想外の反応に、思わず振り返りフレンの顔を真正面から見つめる。
 悲しそうな顔をしているわけでもなく、かといって怒っているわけでもない。ユーリにだけ見せるふんわりとした笑みを浮かべたまま、フレンはもう一度同じ言葉を繰り返す。


「後を追ってもいいなら……いいよ」


 当たり前のことであるかのように告げられたそれが、ぬるりとユーリの耳から入りこみ、脳を犯した。
 悲しいほどに愛おしいこの半身は、泥沼の底の更に奥へ落ちて行くユーリを見捨てることもせず、かといって引き上げようともしない。

「…………お前、馬鹿だよな」

 少し震える声に「そうかもね」とフレンが答えた。

 その背に縋りつくように回された左手はもう、震えてはいない。





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2009.12.08
















凹むユーリを慰めるフレンが書きたかったんですが……。あれ?