君から出で君に戻る


 子供のころも今も、涙腺が緩いのはどちらかといえばフレンの方だ。涙もろいというわけではなく、飽くまでもユーリに比べて涙腺が緩い。つまりユーリが泣かないのだ。どれほど辛いことがあろうと、悲しいことがあろうと、涙を見せることはほとんどない。とくにフレン以外のものがいるとその傾向は顕著になる。
 そんな彼が唯一、人目も憚らずに大泣きをしたことが過去に一度だけ、あった。例にもれずその原因は親友であり悪友であり、家族であり恋人であるあの男。

(……ガキ、が、泣いてる)

 ぼんやりとした意識の端で、その泣き声を耳にした。現実味のない不安定な空間、泣き声の主を認識すると同時に、これが夢であることに気がついた。

(またあれ、か)

 しかも何度も繰り返し見ている夢。

『――ッ、フレンが、死んじまう……ッ』

 泣き声の合間にそう叫んでいるのは幼い自分だ。
 確かこの年の冬はひどく寒くて、その所為か嫌な病気が流行ったのだ。風邪は風邪なのだが、少々しつこく、治りが遅い。裕福でなくとも寒さをしのげる家と、体力を回復させる寝床、抵抗力をつける食事を持てる人々ならば「なかなか治らないわね」程度で済むそれは、金も家も食事も満足に用意できない下町の孤児には命に関わるものだった。
 薬がないと危険だ、そう判断したユーリは病床のフレンを残して日払いの仕事をこなし、フレンに食べさせるものを買うための金だけをよけて、残りをすべて薬代にあてようと思った。一日だけでは金額が足りず、二日、三日と金を貯めてようやく薬を買い求めに市民街へ行ったのだが、運悪くそこで当時の腐敗した帝国騎士に出会ってしまった。下町のガキがこんな金を持っているはずがない、どうせどこぞより盗んだのだろう、と一方的に決めつけられ、薬を買うこともできず、捕まる前に逃げ出すしかなかった。

『ごめん、ごめんな、フレン……』

 薬を飲んでしっかり休めば治るだろうと分かっているからこそ、それすら用意してやれない自分が腹立たしくて、伏せるフレンの側でぼろぼろと泣いた。
 今冷静に考えれば、ここで泣き続けるより死守した金を持ってハンクスの元に訪れたら良かったのだ。子供の自分が薬を買いに出かけたからこそ騎士も手を出してきたわけで、誰か大人に頼めば良かった。しかし、このときのユーリはまだ自分とフレン以外を信じられず、そもそも誰かに助けを求めよう、という意識すら働かないほど精神的に未熟だった。自分たちのことは自分たちでなんとかするしかない、誰かを頼るなど弱い者のすることだ。本気でそう思っていた。
 しかし実際、このときフレンが持ち直したのはハンクスが届けてくれた薬のお陰だ。市民街でのことを聞いたのだろう、それまでユーリはフレンのことを誰にも言っていなかった。知っていたらもっと早くに薬を持ってきたのに、何故言わなかった、と怒鳴られ頬を叩れた。

『本当にフレンが死んだらどうするっ!』

 叩かれて怒られて、一度は引っ込んでいた涙がハンクスの言葉に再び溢れ、頬を濡らす。まさかユーリが泣くとは思っていなかったのだろう、ぎょ、としたハンクスは慌てて手を伸ばし、ユーリは泣いたまま節くれだった彼の指をお願い、と握った。

『フレンを、助けて』

 他人を頼るという行為を本当の意味で理解したのは、たぶんこの時だ。
 そう思ったところで意識が浮上した。


 軽くうなされでもしていたのかもしれない。ベッドを共にしていたフレンがユーリの頭をぎゅう、と抱き締めていた。とくとくと、心音がすぐ側に聞こえ、ほう、と安堵の息を吐く。気配でユーリが目覚めたことに気づいたのだろう、僅かに腕の力を抜いたフレンは前髪を避けて現れたユーリの額にそっと唇を押し当てる。
 平常なら「なにキザったらしいことしてんだ」と苦笑するだろうが、言葉を口にできるほどユーリの精神状態は回復していない。トラウマ、と呼んでも過言ではない出来事だったのだ。世の中の不平等さは嫌というほど味わっていたつもりだったが、それ以上に己の無力さ、無知さに押しつぶされながら、フレンを失うかもしれないということにただ震えていた。
 そんな怯えをユーリの中に見てとったのだろうか。
 顔を包み込むように手を添え、両頬に一つずつと鼻の頭に一つ、そして最後に唇へキスを落とし、「おまじないのキス」とフレンは囁く。

「もうユーリが怖い夢を見ないように」

 それは恋人というよりもむしろ、家族としての触れあいに近い。母親が、あるいは父親が我が子をあやすように背を撫でられても反発する気などおきず、むしろ身体を擦り寄せその腕の中で力を抜いてしまえるのは、他の誰でもない相手がフレンだからだ。

「……フレ、ン、もっかい、キス」

 首筋に腕を回して顔を上げ、囁くように強請れば、ふわりと笑った彼がそのまま唇を落としてくる。

「……まだ?」
「もっと、いっぱい」

 ユーリの希望に応え、フレンは啄ばむように、触れるだけのキスを何度も繰り返した。フレンがここにいると確認できることが、何よりもユーリを安心させる。そんなとき、強く認識するのだ、こいつがいなければ生きていけないだろう、と。
 世の中はどこまでも不平等で、己はどこまでも無知で、無力だ。それは今も変わらない。この手一つで、この身一つでできることなどたかが知れている。
 これから先の人生で、もし再び人目もはばからず泣くことがあるのならば、その時もまたきっと。
 ユーリの口からは同じ言葉が溢れるのだろう。

 フレンを助けて。

 たぶんもう、そういう状況でしか自分は泣かない。
 そんな気がする。




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2010.05.21
















ちなみに、フレンさんは夢の内容を知りません。
けど、その時のことはハンクスじいさんから聞いてはいるそうです。