不法雨宿り


 城内がどこか陰鬱な気配に満ちているのは、雨が降っているせいかもしれない。それも久しぶりの大雨。さきほどちらりと窓から見たが、前もよく見えないほど激しく降っているようだった。じっとりと湿った空気に息苦しさを覚えるのも仕方がないだろう。
 ふぅ、とため息を吐いて手元の書類を確認する。各隊長からの報告書、また彼らへの指示書、そういったものが入り混じっているが、これから必要なものがそこにはない。もう一度ため息、どうやら部屋に忘れてきてしまっているらしい。

「隊長?」

 隣を歩いていた副官に心配そうに声を掛けられた。ため息を耳にとめられたのだろう、軽く口元を緩ませて「すまない」と謝った後、「少し、部屋へ寄ってもいいかい?」と尋ねた。

「書類を忘れてきてしまったみたいだ」
「ええ、それは構いませんが」

 珍しいですね、と彼女は口にする。

「隊長がそんなミス、なさるなんて」
「私だって人間だよ。失敗なんてきりがないくらいしている」

 どうも彼女はフレンを良く思い過ぎているらしい。苦笑を浮かべて返すと逆に「すみません」と謝られた。そんな彼女へ小さく肩を竦めて、「時間はあるんだよね」と口にする。

「はい。まだ多少は」
「それじゃあ少し休憩していかないかい? お茶くらいなら僕の部屋にもあるから」

 仕事中は誰に対しても崩さない一人称を、敢えて普段使うものへ変えて誘う。フレン以上に真面目で融通の利かないところがあった副官だったが、彼女も取り巻く環境のおかげで徐々に変わりつつあるようだった。その変化は非常に好ましく思う。

「……お邪魔でなければ」

 ぽそり、返された答えに安堵し、じゃあさっそく、と自室へと向かった。
 隊長などという肩書を持ってはいるが、部屋は以前と変わらぬ場所を使っている。移動する時間がもったいない、というのが外向けの理由。はっきりいえば面倒くさいというのもあるが、それと同じくらいに、こっそりとここを訪ねてくる半身のため、というのもある。たとえどこであろうと彼は忍んでやってくるだろうが、窓のすぐ側に大木のあるこの部屋がベストだというのも分かるのだ。
 しかし、自室のドアノブへ手を掛けて、フレンは若干そのことを後悔した。忍んで訪ねてくるのは(あまり良くないとは思うが)嬉しく思ってはいる。しかしそれを許容できていたのは、彼が時間と状況をわきまえた上で行動してくれていたからだ。フレンの隣に立つに自分は相応しくない、とどことなく思っているらしい彼は、共にいるところを誰かに目撃されることを非常に厭う。フレンにしてみれば隣に立つのは彼しかいないと思っているのだが、なかなかそれは理解してもらえそうになかった。
 ドアを開ける前に盛大なため息をついたフレンを見上げ、「隊長?」とソディアが首を傾げる。
 選択肢としては二つ、ドアを開けるか開けないか。自分一人だったら迷うことなく扉を開けていただろう。しかし今は側に副官が控え、あまつさえ休憩に誘ってしまった後なのだ。なんて間が悪い、と眉をひそめながら、「すまない、ゆっくりとお茶、ってわけにはいかないかもしれない」と謝った。

「? どういう……?」

 彼女に詳細を説明する前に、ふわりと笑って部屋の扉を開ける。

「逃げなくていいし隠れなくていいよ」

 足を踏み入れると同時にそう説明すれば、後ろから「隊長?」という疑問の声。それを聞いて同行者がソディアであることを知ったのだろう、ベッドの影からむくりと起き上がった人影。彼もフレンが部屋の前に来た時から気配で気づいていたのだろう、もちろん側に誰かがいるだろうということにも。済まなそうに苦笑し、「悪い、邪魔してるぜ」と口にした。

「ユーリ・ローウェル……」

 背後で名を呟くソディアの声。一時期彼女とユーリはひどく険悪な(といってもソディアが一方的に嫌っていたようだが)関係にあったらしい。知ってはいたが、たとえ原因が自分にあったとしても本人間の問題でフレンが口を出すことではない。とりあえず彼女の雰囲気とユーリの様子から、今は前ほどいがみ合ってはいないらしい、と推測する。

「どうしてこんな時間に……?」

 ソディアが口にした疑問に、そう言われれば、とフレンも思う。もともとユーリがこの部屋を訪れるのはフレンの仕事が終わる夕方から夜にかけて。あるいは真夜中だ。昼間からここへ来たところでフレンがいないことなど分かっているだろうに。

「いや、ちょっと服、借りに」

 ソディアの言葉に、ユーリはあっさりとそう言った。そこでようやくフレンは彼の姿に視線を向ける。

「外、すっげぇ雨でさ。着替えも全部濡れちまって。部屋戻るよりこっちんが近かったから」

 雨宿りついでにシャワーと服を借りにきたのだ、と。
 そう言った彼は白いシャツ(おそらくフレンのだ)を着ただけの格好をしていた。着替えを探している途中でフレンたちが来てしまったのだろう。上着の丈が長いためかろうじて腰は隠れているが、太ももの真ん中あたりから下は全て見えてしまう姿。普段の姿からして色気を纏っているような男なのに、こんな恰好をされれば、思わずくらりと眩暈を覚えるのも仕方がないだろう。

「……とりあえず、着替えてくれるかい」
「そうさせてくれるとありがたい」

 額を押さえたフレンを前に、ユーリは苦笑いを浮かべた。勝手知ったる部屋のクローゼット前へ移動しながら、「見苦しいカッコで悪いな」とソディアに謝っている。適度に筋肉がつき、すらりと手足の長い彼の体は決して見苦しくもなんともない。しっとりと濡れたような色白の肌と相まって、酷く艶っぽく見える。フレンとしてはむしろもっと鑑賞していたいものではあるが、今この状況でその格好はないだろう、とも思う。これは夜を共にした次の朝だとか、そんなシチュエーションで拝みたいものだ。

「ここにいたのがソディアで良かった……」

 女性であるからか、それとも彼女であったからか。フレン自身にも分からなかったが、とりあえず彼女で良かった、と心底思う。下手な人間に彼のこんな姿は見せられない。本音を言えば彼女にでさえ勿体なくて見せたくはないものだ。
 深くため息をついたフレンへ「あの、」とソディアが遠慮がちに声をかける。

「お邪魔なようなので、私はこれで」

 そう踵を返しかけた彼女を慌てて引きとめた。

「その必要はないよ。休憩をしようと誘ったのは僕だ。あれは気にしないで、座ってて。お茶を入れるから」
「あれ、ってのはひどくねぇか?」

 フレンの言葉に不服そうに彼が返してくるが、悪いとは思っているのだろう。軽く睨めば肩を竦めて口をつぐんだ。

「紅茶で大丈夫?」
「あ、ええ、私は何でも。というか、隊長、私が入れます」
「いいよ、お客様は座ってて」

 ね、とにっこり笑えば、彼女はもごもごと口ごもって言われたとおりに備え付けられた小さな椅子へと腰を下ろした。ポットを温め茶葉を入れ、その間に何か茶菓子でもないだろうかと棚を探る。カカオ生地のクッキーを見つけ、それらを一緒にテーブルへと運んだ。

「す、すみません」

 恐縮して謝る彼女へ、「どうぞ」と勧める。その向かいへ腰掛け、湯気の立つカップを手にしたところで、「なあ」と別方向から声が聞こえた。

「これ、オレんじゃね?」

 クローゼットの前にしゃがみこんだ彼は、未だに気に入るものを発見できないらしく、その足を晒したままだ。手に取って掲げたのは、濃いグレーのシャツ。

「そうだっけ?」

 そもそも二人とも小さな頃から体格が非常に似ていた。今だって、きちんとした訓練を積んでいるフレンの方が若干体つきが良いというくらいで、背格好はほぼ同じ。服を取り換えたところで全く困らないし、昔から共同で物を有することが多かった。どちらがどちらのもの、と決めていたものはほとんどないと言っていい。もちろんデザイン面での好みは異なるが、部屋着やインナーだと二人ともさしてこだわりを持っていないのだ。

「そういえば、この間帰った時にそれ着て戻ってきたかも」

 さすがに年中無休で仕事を続けるなど、体力が続いても気力が続かない。明確な休日というのはこの勤めでは難しいが、ある程度時間を空けることもできる。そんな日は大抵下町へ戻る。フレンが生まれ育った場所はやはりあの町で、帰る場所といえばそこなのだ。
 下町でユーリとともに暮らしていた部屋は既に別の住人が使っている。だからフレンがあの町へ戻る場合、ユーリが常宿としている部屋を使うのが常だ。宿の女将もあの部屋は二人の部屋だと思っている節があり、「寝るなら自分の部屋へ戻りな」と二階へ追いやられるのだ。そんなときにそこにある服を適当に着てそのまま帰ってくるのだから、ユーリの服がここにあっても全然まったくおかしくはない。
 軽く眼を伏せて言ったフレンへ、「まあ別にいいけどさ」とユーリはそれをクローゼットの中へと戻した。ユーリだってこの部屋に泊まった後はここにある服を適当に着て帰るのだから、人のことはあまり言えないと思っているのだろう。

「つか、悪かったな、邪魔して」

 ようやく着替えを見つけた彼がそう言って窓際へと近づいた。外を伺い、止まない雨にうんざりとした表情を浮かべる。

「ユーリ、君もこっち座りなよ」
「や、オレはもう」
「いいから」

 部屋を辞そうとしていた彼を強引に引き止める。もともとそのつもりでカップを三つ用意していたのだ。それに気づいていたソディアも、「今出て行ってはまた濡れますよ」ともっともなことを言う。

「あと半刻もすれば多少落ち着くでしょうから」

 その言葉に、「じゃあ、」とようやくユーリも留まる気になったようだった。

「シャワーは浴びた?」
「借りた。ここきてソッコで」
「ちゃんとあったまった?」
「あったまったって。さすがに寒かったしな」

 もそもそとクッキーを齧りながらの応酬がどことなく親子のようだ。小さなころから共にいたということは聞いているが、ほとんど家族のような付き合いだったのかもしれない。そんなことを思いながら、ソディアは彼らの会話を聞く。

 フレンのことは上司として人間として、尊敬もしていたし心酔している自覚もある。僅かばかり異性として心ひかれる部分がなかったわけでもないが、それに関しては既にすっぱりと諦めている。というより諦めざるを得なかった。
 フレン・シーフォという男の目に映る世界はおそらく酷く大ざっぱだ。従うべき相手、守るべき相手、従えるべき相手、敵対すべき相手、愛すべき相手。部下であるソディアは彼にとって従えるべき相手であり、守るべき相手であろう。もし部下として好いていてくれるのなら愛すべき相手の枠くらいになら入れてくれているかもしれない。
 それらの大きな枠のなかに唯一入っていないもの、それがユーリ・ローウェルだ。
 憎み妬ましく思うことさえ馬鹿馬鹿しい、とようやく気がついた。
 全てにおいて彼は特別、なのだろう。いやもう特別などという言葉でさえくくれない。ユーリ・ローウェルという存在、ただそれだけなのだ。
 彼の思考、言動はソディアには理解しがたい部分が多々ある。苦手意識を持っているのも、分からないからだろう。人は自分の理解の超えたところにいる存在をどうしても畏怖してしまうのだ。しかし、分からないと思うのは、雨に濡れたからといって勝手に人の部屋に入ってシャワーを浴び着替えを物色するその傍若無人さであり、行動原理はひどく分かりやすいのではないか、とも思う。体が冷えたから温める、服が濡れて気持ち悪いから着替える。これだけ抜き出すと至極当然の行動なのだ。

「……ユーリ、さんは、」

 思考の波に囚われたままぽつり、と呟くと、正面から「「ユーリで」」と二つの声が返ってきた。続けられた語尾は「いいよ」と「いいぞ」でそれぞれ違ったが、あまりにぴったりと重なった声に思わずきょとんと二人を見てしまう。
 しかし彼らにとっては驚くべきことでもなんでもないらしい。「では、ユーリは」とソディアも言いなおす。

「分かりやすいですよね」

 その言葉に、フレンは「そう?」と首を傾げ、「まあな」とユーリは笑った。

「僕は未だにユーリのことがよく分からないけど」
「お前が複雑に考えすぎるだけだろ。世の中意外に単純にできてるもんだって」

 あっけらかんとそう言い切る。
 そうかもしれない、となんとなく思った。考える動物だと言われる人間は、何かにつけて深くぐちゃぐちゃと考えてしまいがちなのかもしれない。そのせいでいろいろこじれて、本来単純であったはずの事象がややこしくなっている、ただそれだけのことなのかもしれない。

「お前自身は単純で分かりやすいんだけどなぁ」

 しみじみと呟かれたユーリの言葉に、思わず吹きだしてしまった。

「ちょ、それどういう意味? っていうかソディアも、何で笑うんだい?」

 不服そうな上司の顔がまた面白くて、「失礼」と謝りながらも笑いが治まらない。
 評議会の連中とやりあい、いやみな貴族とやりあい、面倒くさい立場にいるにもかかわらず、この若さにして大抵のことを上手く交わして己の意志を曲げぬ上司を、単純だ、とそう言えるのはおそらく彼だけだ。
 ひとしきり笑い、ようやく治まったところで手にしていたカップを戻す。「ごちそうさまでした」と立ち上がり、まだ少し拗ねている顔をしている上司を見下ろした。
 彼の部下となって久しいが、そんな子供のような顔を見る機会が今までにあっただろうか。

「私は準備がありますので先に向かいます。隊長はどうぞごゆっくり」

 半分ほど嘘を織り交ぜた言葉に、フレンは驚いたような、それでいてどこか複雑そうな顔をする。ユーリの方はといえば、彼らしくいつものようなシニカルな表情でソディアを見ていた。

「ユーリも、風邪など召されぬよう。あなたが風邪を引けば隊長にうつります」

 それだけ告げて、ソディアは上司の部屋を辞した。


 ぱたん、と行儀よく閉じられた扉を二人して見やり、「ていうかさ、」とどこか呆然とした口調でフレンが言う。

「ソディア、『なんでこんな時間に』って言ったよね」

 この部屋へ無断で入り込んでいたユーリを見て、『どうしてあなたが』ではなく、『どうしてこの時間に』と疑問を口にした。それはつまり。

「……オレが来てるの、知ってたんだろうなぁ」

 まあバレてないとは思ってなかったけど、とどこか他人事のような口調。

「しかも夜中に来てるのがバレてるよね」
「夜中に何しにきてんだっつー話だよな」

 フレンの呟きにそう返し、二人揃って大きくため息をついた。




ブラウザバックでお戻りください。
2010.04.22
















半脱ぎのユーリはエロい。
「これ、オレんじゃね?」が書きたかっただけの話。