祈りの言葉


 ぱさり、と紙のすれる音が静かな室内に響く。紙の上を走るペンの音。ふ、と小さな吐息にそちらを見やれば、若干疲労を滲ませた恋人の横顔があった。
 帝都ザーフィアスの城、騎士団長の部屋。窓枠に軽く腰掛け、夜風に髪を揺らしながら、ユーリは月見酒と洒落こんでいた。訪ねてきた目的である彼はどうしても今日中にその書類仕事を終わらせてしまいたいらしく、出直そうか、と言えば、絶対に待っててと返ってきた。

「でも寝ないでね。ユーリ寝ちゃったら起せないから」
「オレ、そんなに寝汚くねぇぞ」
「違うよ、寝顔が可愛すぎて起せないって意味」

 書類から顔を上げることもせずにそんなことを口にする男へ、「言ってろ」と呆れ気味に返し、仕方なく一人で酒盛りを始めることにした。眠るか帰るかしなければ、室内で何をやっていてもいいらしい。今更お互いの存在が邪魔になるという間柄でもない。
 ユーリ好みの酒もつまみも、当然のように常備されているこの部屋で、まるで自分の部屋にいるかのように当たり前の顔をして酒を飲む。もともとさほど強いというわけではなく、アルコールが美味いとも思えない。しかし果実酒の甘さを楽しみながら、軽い酩酊感に浸るのが好きだった。何をするわけでもない、ただぼんやりと頭も体も休める、そんな時間は最近あまり持てていなかったような気がする。

「なぁ、フレン」

 優秀な恋人はそろそろすべての書類に目を通し終わった頃だろう。そんなあたりをつけながら、それでも彼の方を見て確認することなく、ユーリは月を見上げたままその名を呼んだ。

「ん? なに?」

 穏やかな声。力んでいるわけでも形式ばっているわけでもない。少しどうでも良さそうで、意識の全てをこちらに向けているわけではない。
 その声が好きだ。生真面目なこの男はたとえ仕事中であろうと、話かけられればきちんと相手をしようとするだろう。しかしユーリに対してだけはそれを絶対にしない。かといって蔑ろにされているわけでもない。適度な距離感があるのではなく、むしろ逆に距離をまったく感じさせない、そんな声だ、と思いながらもう一度、「フレン」とその名を舌に乗せた。

「好きだぜ」

 二人の関係性を示す単語のなかに「恋人」が入るようになったのは五、六年前のこと。言葉が一つ増えようが、やることが増えただけで関係自体に変わりはない。しかしそうなる前も、なった後も、捻くれた性格をしているユーリが素直に好意を口にすることは非常に少なかった。ユーリ自身自覚する部分であるし、もちろんフレンの方もそのことをよく理解している。
 驚いたフレンが顔を上げてこちらを見る気配。彼へ視線を向けずともどんな顔をしているのか、なんとなく想像がつく。

「…………どう、したの、いきなり」

 僅かに動揺を滲ませた声を聞きながらくつり、と喉の奥で笑い、ユーリは手にしたグラスへ口をつけた。喉を通る柔らかなアルコールを楽しんだあと、「別にどうもしねぇよ」と言葉を放つ。

「ただそう思ったから言ってみただけ」

 幼馴染で親友で、兄弟であり家族であるこの男のことを嫌いになる余地があるのなら、誰でもいいから示して欲しいくらいだ。誰に何をどう指摘されたところでそれだけはありえないだろう。

「ユーリ、酔ってる?」

 訝しげな声音が面白くて、笑いながら「かもな」と返しておいた。いくら強くないとはいえ、ほとんどジュースのような酒で簡単に酔うはずがない。フレンもそれを分かっているだろうに聞いてしまうほど、告げられた言葉が衝撃的だったのだろう。

「なんかな、別に、いつもなんとも思ってないわけじゃねぇんだけど。ときたますごい、オレこいつのこと好きなんだなー、って思うことがある」

 いつのことだっただろうか。以前誰かに、確かギルドメンバの誰かに、思わず零したことがあった。フレンのことが好きで好きで仕方なくて、そのうちこの男をどうにかしてしまうのではないかと自分が怖い、と。

「好き過ぎてどうしていいか分かんねぇってあるんだなぁ」

 それはもうフレンに向けての言葉ではなく、独白に近い呟き。漆黒の夜空を照らす月を見上げたまま、ほう、とアルコールの混ざった息を吐き出す。手にしたグラスにはあと一口分ほど果実酒が残っていた。次は何を飲もうか、と考えたところで横から伸びてきた手にグラスを取り上げられる。

「……仕事は?」

 くい、とグラスを煽り、一口で残りを飲みきった男に尋ねれば、「終わったよ」と返ってきた。空になったそれを避け、両手を伸ばしてユーリの体を自分の方へと向けさせる。あまりにも綺麗に輝く月から視線を反らすのは惜しかったが、それよりも魅力的な光が目の前にあるのだから惹かれざるをえない。

「そういう言葉は僕を見ながら言ってくれるかな」
「そりゃ無理だ。見てねぇから言えんだろ」

 少し恨めしげな視線を正面に、ユーリはくつくつと笑いながら答える。さすがに今のような熱烈な言葉を顔を合わせたまま口にするのは難しい。少なくともユーリにとっては羞恥の方が勝ってしまう行為だ。しかし、目の前の恋人は違うらしい。

「僕は言えるよ、ユーリ、」
「言わなくていい」

 本当に言葉を発しそうになった口を左手で軽く押さえて留める。どうして、と目だけで尋ねられ、「恥ずい」と端的に答えた。アルコールのせいなのか、それとも今更に羞恥心が込み上げてきたのか、ユーリの頬はうっすらと桜色に染まっている。そんな顔で眉を寄せられたところで、誘っているようにしか見えない、とフレンは思った。誘っているのでなければ煽っているに違いない。
 口を押さえる手首を掴み、舌を伸ばして掌を舐めた。

「言わなくても分かることもあるけど」

 特に自分たちほど共に過ごした間柄ならば、自然と了解してしまうことも多い。

「でもだからといって、言われて嬉しくないわけじゃない」

 そして言わなくても伝わっていることを言葉にしたいときだってある。

「好きだよ、ユーリ」

 正面から視線を合わせ、静かな口調とは裏腹に、熱く滾った感情を張りつかせた言葉を口にした。ぴくりと小さく肩を跳ねさせ、身じろいだユーリを抑えこむように、手首を握る力を強くする。

「本当に、心の底から。君が何よりも大事で、君以外何も要らないくらい、好きだよ」

 本当は言葉などで簡単に表現できる感情ではなかったが、それでも伝える手段として言葉に頼らざるを得ない。人間とは斯くも不便で、不自由な存在だ。渦巻く想いを伝えることができたらいいのに、と思う。そのためならば心も体も全て差し出すだろう、素手で触られようが土足で踏み入られようが構わない。こんなにも愛おしく想っていることが欠片でもユーリに伝わるのならば。

「……愛してる」

 額を擦り合わせ囁けば、ゆっくりと瞼を伏せたユーリは小さく、オレも、と口にする。
 震える唇から告げられたその言葉は、どこか祈りにも似ていた。




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2010.05.09
















静かなのに熱い、ってのをやってみたかった結果。