無自覚の誘惑



 兄が何か悩んでいるのは知っていた。知ってはいたがそれほど気にしてはいなかった。彼の脳には家族のことと歌のこととアイスのことしか入っていないのだ、悩むとしたらそのどれか。アイスのことで悩んでいるなら欲望が口からだだ漏れて長姉に殴られているだろう。家族のことなら必ず誰かに相談しているはずだ。そのどちらでもないとしたら、あとは歌で何かを考えているということ。
 たとえ歌うために作られた存在であったとしても、よりよく歌おうと努力は惜しまない。歌うことが好きなのだ、良い歌をもっとたくさんの人に聞いてもらいたい、そのためだけに生きているといっても過言ではない。
 だからその点ではとことんまで考えて悩めばいい、とは長姉の言。

「それでも良くならなかったらまた悩めばいいのよ」

 そう彼女は笑っていたが、できれば酒を飲んでいない時に聞きたかった。せっかくのいい言葉なのに、右手に持ったワンカップで台無しだ。

(兄さん、大丈夫かな。)

 弟に心配されるほど頼りなくはないつもりだ、と言うだろうが、こういうときに兄弟順は関係ないだろう。家族だから心配なのだ。
 今日は双子の姉であるリンとは別行動。レンだけの仕事があったため、そのレコーディングに来ていた。カイトも同じように仕事があるらしく、別のスタジオで歌っているはず。本日のオフを合わせて取っていたらしい女性陣は、揃って買い物に出かけると言っていた。
 たった今録ったばかりの歌をマスターとともに確認し、細かな修正をしてまた歌う。それを繰り返し、ようやく納得のいくものが出来上がってくれた。良い歌になった、またよろしく、そう言われて悪い気がするわけがなく、笑顔で今日のマスターと別れた。
 レンたち兄弟はみな同じ事務所に所属し、それぞれ仕事を貰っている。ボーカロイドという存在が注目されるようになり仕事量が増えたため、今では一人一人に専属のマネージャーを付けてもらっているくらいだ。スタジオの扉が並ぶ廊下でレン専属のマネージャーである永広からこれからの予定と次の楽譜、イメージする資料を受け取って帰路につこうとする前に思い出した。

「ねぇ、永広さん。兄さんの仕事、終わったかどうか知ってる?」

 尋ねると彼は小さく「いえ」と首を振った。

「確か、第二スタジオでレコーディングのはずですが」

 言いながらちらり、とスタジオのある方へ視線を向ける。丁度図ったかのように、タイミングよくその扉が開いた。現れたのは兄のマネージャーである川野だ。

「あ、レンくん! お疲れ様、そっちも終わったところですか?」

 にこやかな笑みを浮かべる彼女はいつも朗らかな雰囲気を持っており、兄によく似ている。そんな彼女の後ろにスタジオの中のスタッフへ挨拶をして出てくる兄の姿を見つける。

「丁度いいタイミングみたいだね。兄さん、一緒に帰ろう」

 駆け寄って声をかけると、ふわり、とカイトの視線がこちらを向いた。

(……兄さん?)

 その青い瞳に湛えられた光がいつもと違うような気がしてレンは眉を顰める。しかしそう思ったのはどうやら自分だけらしく、川野も永広も何も言わなかった。

「送り迎えの車、用意しますよ?」

 車で送ろうかと提案する川野に、カイトは笑みを浮かべて口を開く。

「大丈夫ですよ、歩いて十分もかからないんですから」

 それにレンが頷くと、「暗いですからお気をつけて」と永広が眼鏡を押し上げながら言った。
 マネージャー二人に挨拶をして兄と肩を並べて建物を出る。そろそろ秋になろうかという時期、日が暮れると昼間の暑さが嘘のように涼しくなる。

「過ごしやすくなったね」

 頬に当たる風を感じながら言うと、「そうだね」と隣から返ってきた。

(やっぱり、変……)

 どこがどう、とはっきり言えるわけではないが、いつもと微妙に雰囲気が違う。仕事で何かあったのだろうか。そう思うが尋ねるきっかけもつかめず、あまり会話のないまま家へとたどり着いた。
 遊びに出かけた女性陣はまだ戻っていないようで、リビングの電気をつけながら「ご飯、どうするんだろう」とカイトが呟く。ちょうどその時レンの携帯が静かに震えた。

「リンからだ」

 呟いて耳に当てると、いつも元気な姉の声が響く。曰く、「今日は女の子だけで豪遊するから! 男は男で晩御飯なんとかしてねー!」とのこと。後ろでミクとメイコの声もしていた。ずいぶんと楽しんでいるようだ。

「だってさ、晩御飯、どうする?」

 自分たちだけ楽しんで、と思わなくもないが、彼女たちが楽しいならそれはそれで嬉しいものだ。「俺らもどこかに食べに行く?」と見上げて尋ねると、カイトは小さく首を横に振った。

「今日はちょっと、出かける気になれない、かな。家にいたい。ごめんね」

 謝る必要は一切ないと思うのだが、そう言ってしまうのがカイトという兄だ。そんな彼へ「俺もその方がいいと思う」と答え、レンは言葉を続けた。

「兄さん、ちょっと変だよ? 何かあった?」

 冷蔵庫の中身を確認していたカイトは振り返って首を傾げる。彼自身自覚はないのだろう。

「ていうか、今日、何歌ったの?」

 すぐに夕飯の支度にとりかかろうとする彼を無理やりリビングのソファに座らせる。その隣に腰かけながら尋ねると、「レンの歌」と返ってきた。

「俺の? カバーってこと?」

 もともとレンが歌うために作られた歌を、他の兄弟が歌うこともある。その逆もまたしかり。同じ歌でも歌う人間によってさまざまな表情を見せるのが面白く、兄弟の間で歌を取り換えて歌うのはみんな大好きだと言っていた。
 自分の持ち歌で何か妙なものがあっただろうか、とレンは考える。その答えは、あっさりとカイトの口から届けられた。

「『マセ恋歌』、だよ」
「…………ああ、あれか」

 呟いて納得する。
 あの歌はタイトル通り、十四であるレンが歌うにはかなり大人っぽい歌だ。マスターからの要求も「もっと大人っぽく」「もっとエロく」「それでもかわいさを残して」と散々だった。あれはあれで面白かったし、勉強にもなったのだが。

「『エロく』とか『卑猥に』とか、たくさん言われた」

 ふぅ、と普段あまり口にしないだろう単語を呟いて、カイトはため息をついた。もしかしたら、彼がここ最近ずっと悩んでいたように見えたのは、これが原因かもしれない。年長組と言われているカイトではあるが、あの歌のように直球的なエロスを持つものはあまり聞いたことがない。たとえどんな歌であろうと、歌うための存在であるボーカロイドは歌うことに喜びを見出す。自分とは合わないから、と断ることは決してないが、それでも要求通りに歌うことが難しいものだってあるわけで。

「今日は、歌えたの?」

 なんとなく、答えの分かっている問い。
 レンの予想通り、カイトは口元を緩やかに歪め、「なんとか、ね」と笑った。

「だろうね」

 呟いた声が少し掠れてしまうのも仕方がない。今のカイトの顔が壮絶に色気を湛えていたのだから。

 たまにあること、なのだ。
 長姉曰く、「カイトは歌の世界に入り込むことが上手い」と。ただ時折、その歌から帰ってこれなくなることがある。世界に入り込みすぎるのだ。しかも本人にその自覚がない。もちろん歌を歌う人間になら誰にだってあることだと思う。テンポのいい歌を歌ったあとはハイテンションになるし、バラードを歌えばしっとりとした気持ちになれる。しかし、兄の場合それが人よりも深いのだ、とメイコは言っていた。
 いつだっただろうか、『アンインストール』をヤンデレ風味の歌詞に変えた歌を歌った直後は、「アンインストールしてごめんなさい」と泣いて謝る彼を宥めるのが大変だった。困った性質だと思うが、いろいろな顔を見せてくれるので楽しいというのもまた事実。
 『アンインストール』のときのように顕著にでていないだけで、今もまた、歌に入り込んで帰ってこれていないのだろう。無自覚に漂わせている雰囲気がその答えだ。

「ねえ、兄さん」

 身を起こし、カイトの前に立つ。閉じ込めるようにソファの背に両手をついて、カイトを見下ろした。こんな体勢を取ろうものなら、普段の彼は顔を赤くして慌てるはずなのに。
 今はうっすらと笑みを浮かべて見上げてくるだけで。

「兄さんは誰を想像しながらあれを歌ったの?」

 ゆっくりと上体を屈め、触れるだけのキス。青く綺麗な髪の毛をすいて、耳をくすぐり、そのまま頬へ手を添えるとうっとりとした顔をして擦り寄せてくる。グッジョブ、マスター、とレンは心の中だけでシャウトした。恥ずかしがり屋の兄がここまで素直に、積極的になってくれる機会などそれほどない。今すぐめちゃくちゃにしたい衝動を抑えこんで、耳元に唇を寄せた。

「今だから言うけどあの歌、俺は兄さんのことを考えながら歌ったんだよ」

 兄弟としてだけではなく、それ以上の愛情を抱く彼を想いながら歌った。
 そう告げると、長いまつ毛を震わせて目を閉じたカイトは「おれも」と小さく呟く。

「おれも、レンのこと、考えながら、歌った、よ」

 聞いているだけでうっとりするような声を零す唇へ、もう一度触れるだけのキスを落とす。目じりと頬にも音を立てて口づけると、レンはカイトの首筋へ顔をうずめた。

「ね、兄さん」
 言葉だけじゃ足りない、でしょ?

 襟元を緩め、無防備にさらされた首へ舌を這わせる。その感覚に小さく震えるカイトへ、レンはさらに言葉を続けた。

「兄さんが好きなことをいっぱいしてあげる。
 だから、ね?
 見せて。
 兄さんの、イイトコロ。
 誰にも触らせないから」
 いいでしょう?

 つぅ、と舌で首を舐めあげ、耳朶を軽く吸う。歌詞に沿ったセリフを吹き込むように耳元で囁くと、気だるげな動作であげられた腕がレンの頬を撫でた。促されるまま彼の方へ顔を向けると、そのまま口づけられる。体を繋げる爛れた関係になって久しいが、カイトからのキスなど両手で数えられるくらいしか記憶していない。それもほとんどが無理やり、行為の最中にさせたようなものだ。驚きと嬉しさに閉ざされたままだったレンの唇を、ぬるり、と湿った舌が撫でた。

「もっと、聞かせて。レンの、声。
 おれしか聞いたことのない声。
 気を失うくらい、
 気持ちよくしてあげるから」
 いいでしょう?

 その言葉と濡れた唇から覗く赤い舌に煽られ、レンは深くカイトへ口付けた。




「ていうかね、兄さん。ああいう歌歌ったあとは絶対一人で帰っちゃダメだよ?」

 あとでレンがそうカイトへ念を押したのは言うまでもないこと。




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2008.09.23





















誘い受けだと言い張る。
歌のイメージぶち壊してごめんなさい。
ホモじゃなかったとしても堂々と張れないよ。

『マセ恋歌』 ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3151139
KAITOに歌わせた『マセ恋歌』 ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3540628