鈴の音


 自室の扉に鈴をつけた。
 「夏になるし風鈴っぽくていいだろ」なんて親をごまかして。
 扉を開けたら鈴が鳴る。
 チリン、リン、と。
 軽やかに鈴が鳴る。


「圭一の部屋、初めて来るね」

 にこっと笑ってそう言ったのは、先日ようやく長期入院(ということになっているがあながち間違いではない)から戻ってきた悟史。沙都子の兄である人物だ。年は魅音、詩音姉妹と同じだから圭一より一つ上ということになる。あの沙都子の血縁者であるにもかかわらず、性格は穏やかで物腰も柔らかい。どうぞ、と言ったのにどこかおずおずと足を踏み入れるあたり、そんな性格がよく表れている。

「だから入っていいってば」

 苦笑してもう一度促すと、「じゃあ、お邪魔します」と先ほども言った言葉を繰り返してようやく部屋の中まで入ってきた。適当に荷物を置いてくつろいで、と言ったところで、彼はまごまごとしてその場に突っ立ったままだろう。

「なんか飲むもん持ってくるから、そこ片付けといてくれるか? それじゃ勉強できねぇだろ」

 漫画やら参考書やらが雑多に折り重なった机を指差すと、悟史は「確かに」と苦笑を浮かべる。仕方がない、彼を家に呼ぶのはつい先ほどその場のノリで決定したのだ。事前に片付けておくなどできるわけがなかった。

「暑いし、ついでに窓も開けといて!」
「指示が多いなぁ。僕、お客さんじゃないの?」

 笑いが重なったその言葉のあとで、ガラガラ、と窓の空く音がする。それを聞きながら圭一は階下へと走って降りていった。
 窓の外の景色は夏の色を帯び、日中の気温もだいぶ高くなってきている。閉め切っていた部屋は生ぬるく蒸していたが、それでも風が入るとだいぶ違う。氷の入ったグラスを持って圭一が自室へ戻ると、悟史は几帳面に机の上を片付けてくれているところだった。

「おー、サンキュー。そんなのざーって下に落としちゃえば良かったのに」

 漫画は漫画、ノートはノート、問題集は問題集、とそれぞれ別々に重ねている悟史に、圭一は苦笑してそう言う。

「それじゃあ、あとでいろいろ探しちゃうでしょ」

 それにしても圭一、と悟史は一冊の問題集をぱらぱらっとめくった。

「本当に頭良いんだね。これ、凄くレベル高いよね」
「うーん、ちょっとできる、ってくらいだぜ? まあ悟史や魅音の勉強はみてやれる、かな」

 昔の自分にはそれしか取り柄がなかった。それが取り柄であったかどうかすらも疑わしいし、今もきっとそれくらいしか自分にできることはない。それでも役に立つというなら、これ以上嬉しいことはない。

「そうだね、僕、一年も眠っちゃってたから、魅音にも置いていかれてるし」

 勉強して追いつかないと、と言う悟史に圭一は「真面目だなぁ」と笑みを浮かべる。

「任せろ、悟史。俺がついてる! この圭一様がしっかり面倒みてやらぁ!」

 どん、と胸を叩いて言うと、悟史は見ているこちらが赤面したくなるほど綺麗に微笑んで頷いた。
 あまりにも優しげなその表情を直視できず、思わず目を背けた圭一の耳に、ちりん、と鈴の音が届く。入り口の扉につけた鈴が風で揺れたのだろう。りんりん、と鈴は揺れ続ける。

「鈴?」

 悟史がドアの方へ目を向けて言う。

「あ、悪い、気になるか? だったら外すけど」

 慌てて立ち上がろうとする圭一を悟史が制す。

「いい音だね。風鈴代わり?」

 夏の風に揺れる鈴の音を聞きながら、机の上にノートと教科書を広げる。悟史のノートは彼らしく几帳面で柔らかな文字が並んでいた。

「うーん、まあ別に風鈴でも良かったんだけどな。音が鳴れば」

 数学から? とごそごそと自分の参考書を漁りながら圭一は言う。

「音?」
「そう、扉を開けて音が鳴ればそれで良かった」
「なんかそれって、人が入ってくるのを警戒してるみたい」

 圭一、部屋で一体何やってるの。
 そう言う悟史に確かにそうだよな、と圭一は苦笑を浮かべた。

「でもどっちかっていうと逆、かな」
「逆?」
「そう、逆」

 あの鈴は人が入ってくるのを警戒しているわけではなく、その逆。
 この部屋から人が出て行くことを警戒しているのだ。

「出て行くって、ここ、圭一の部屋」
「そう、だから俺を警戒してるの」

 どうして、と目だけで問いかけてくる悟史に圭一は一つ息を吐き出す。

 遠い昔、いや案外近い過去のことなのかもしれない。ここではないどこか別の世界の話。
 疑心暗鬼に駆られ、仲間を撲殺してしまった自分。
 夢だと、人は言うかもしれない。妄想だと、言われるかもしれない。
 けれど紛れもなく自分は覚えている。現実にレナも魅音も生きているのだからそれが事実のはずはないのだけれど。
 二人を殴ったあの感触。バットを伝わる生々しい赤。部屋中に篭る匂い。
 忘れられない。あのときの恐怖と、恐ろしいほどの虚脱感。
 思い出したときの、身を裂かれるほどの後悔、罪悪感。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 いくら謝っても謝り足りない。
 いくら泣いても泣き足りない。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 梨花に赦しを得たとはいえ、それでも拭い去れない自身への疑惑。
 あのときの自分は自分ではなかった。そう言って逃げるのは簡単だ。自分ではないから今の自分が罪悪感を感じることもない、と。
 しかし、自分が自分ではないからこそ、逆に怖かった。
 今の自分も、いつかああなってしまうのではないだろうか、と。
 今の自分も、そのうちああなってしまう可能性を秘めているのではないだろうか、と。
 仲間の誰をも疑うことはしない。信じると決めた。だから信じる。けれど自分を信じろ、と言われ分かりました、と頷けない理由が圭一にはあった。 


「俺は俺が怖い」


 悟史が分からなかった、と指差した問題を解きながら、圭一は言う。別のことを喋りながらよく文字が書けるものだ、とまったく違うところで感心していた悟史の耳に、彼の言葉はぱたりぱたりと染み込んでいった。

「俺は人が殺せる人間だから」

 それは自嘲が滲んだものではなく、あるいは逆に愉悦が浮かんでいるわけでもない。どんな感情も込められていない、平坦な、事実だけをそれとして述べる声。無機質なその音を彩るかのように、リン、と鈴が鳴る。

 知らぬ間に誰かを殺しに行ってしまうかもしれない。
 寝ている間に誰かを殺しに行ってしまうかもしれない。
 それがないとは言い切れない自分がいる。

「だから、鈴?」

 悟史の問いかけに、そう、と圭一は頷いた。

「その扉を開けたら絶対に鈴が鳴る」

 その鈴が、自分を眠りから覚ましてくれるだろう。
 意識のないまま、また誰かを殺してしまわぬように。
 また仲間を殺してしまわぬように。
 自室の扉に鈴をつけた。
 扉を開くと鈴が鳴る、チリリンと。


「この音が聞こえなくなったら、きっと俺はまた誰かを殺すだろう」


 独白めいた呟きが数式の踊るノートに落ちる。


「……だったらまず、僕を殺しに来てね」


 透き通った笑みと共に紡がれた言葉にリン、と鈴の音が重なった。 




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2007.10.02
















衝動的に書き上げたもの。
残念なことに悟史も人を殺せる人間だから、行ったら返り討ちにあう可能性が大。