夏の夕方


 時間がゆっくり流れているような、そんな気がする。

 神社の境内。賽銭箱の前にだらしなく座り込み、空を仰いで思わずぼそりと呟くと時間の魔女に睨まれた。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。
 そこからは矢継ぎ早に繰り出される皮肉の嵐。
 それは時間を認識できない人間の戯言よ、誰にでも平等に訪れるものが時間と死だということくらい知っているでしょう、今よりほんの少しでもゆっくり流れていたら私は今頃発狂してるわ、云々。
 口を出る文句が尽きた頃に大きなため息をつき、彼女は言った。

「圭一、あなたは本当にもう少しデリカシーというものを知りなさい。何度同じ失敗を繰り返せばいいの?」

 不敬にも賽銭箱の上に座り込んでいた彼女は、ぱたぱたと呆れたように足を振る。今まで見ていた彼女とは百八十度異なる大人びた表情と口調。

「同じ失敗って言われてもなぁ。俺、そんなに言っちゃいけないこと言ってるか?」
「空気が読めないのは魅ぃの方が上だけどね。場合によってはいい勝負よ」
「うわ、それ地味に凹む」
「派手に凹みなさいよ」

 古手梨花、自称時間の魔女。彼女は何度も同じ時間を繰り返してきたという。昭和五十八年の六月で終わるその時を。梨花の話を頭から信じ、想像することは出来ないが、彼女がそうであると言うのだからそうなのだろう。
 繰り返されるその中に、もしかしたら彼女の言う「同じ失敗」があったのかもしれない。
 尋ねてみると、「圭一にしては鋭いわね」と笑われた。いくら鈍感だと馬鹿にされていてもこれくらいは気付ける。頬を膨らませて抗議の意を示すと、ぴょん、と賽銭箱から飛び降りた梨花は圭一の隣にしゃがみこんで「みぃ」と膨らんだ頬をつついた。

「それでもあなたは、いえ、あなただけじゃない、レナも沙都子も魅ぃも詩ぃも、みんなその中で学んでいるの。時には同じ失敗を繰り返したりもしてたけど、少しずつ前に進んでた。それを私は知っている」

 進めなかったのは私くらいね、と梨花は自嘲の笑みを浮かべる。

 小さな失敗が取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうこともあった。目を塞ぎ耳を塞いで何度現実をなかったことにしようと思ったか。それが自分の弱さだろう、と梨花は思う。守り神といえるだろう彼女がいることで、どうしてもすぐに逃げへと走ってしまう。楽な方へ楽な方へ、と。
 けれど圭一たちには彼女が見えていなかった。彼女が分からなかった。だからこそ自力で前へ進もうとする。どれほど見苦しかろうが、必死にもがき、あがいて足を進める。その強さが梨花にはなかった。

「でもさ、梨花ちゃん。それって次の世界で前に進むってことだろ? じゃあ俺はそんな強さ、いらないな」

 おいで、と座り込んだ自分の足の間へ梨花を招く。圭一に背中を預けるように座り込んだ梨花を、後ろからそっと抱きしめた。

「梨花ちゃんには次の世界で前に進むことは難しいかもしれない。そう何度も同じものを繰り返してたら次こそは、なんて意気込めなくなるよな。最後が自分の死だったら尚更だ」

 ようやく呪いから解き放たれた昭和五十八年の八月。今も彼女が恐々と日々を送っていることを圭一は知っていた。
 またいつかあのループに舞い戻るのではないだろうか、と毎日恐る恐る明日を迎えていることを。
 その恐怖は圭一には分からない。
 分かる必要などない、と圭一は思う。梨花がそれを恐れている、ということを知ってさえいればいいのだ。

「なあ、梨花ちゃん。これからは次の世界で前に進む強さじゃなくて、今、この世界で前に進む強さが必要なんじゃないか?」

 今のこの世界は梨花が望んだ、敗者のいない世界。
 ループを乗り越えた昭和五十八年の八月。
 ここで進む強さを見せなければいつ見せるというのだろうか。

「今なら誰も欠けてない。レナも魅音も沙都子も詩音も、俺も。羽入もいる。監督だっているし、鷹野さんも富竹さんもいる。悟史だって起きたんだ。でもこれで満足ってわけじゃないだろ?」
「これ以上望むことはないと思うけど?」
「そうか? 俺なら今よりももっともっと楽しくなれたほうが良いけどな」

 俺たちならもっともっと楽しくなれると思うぞ。

 そう言って覗き込んできた圭一の目は力強く、それでもきらきらと輝いていて。思わず「そうね」と頷いてしまった。
 幸せを掴み取ることがどれほどの苦労を要するのか、知らないわけではないのに。高望みをしすぎると痛い目に合う、など知りすぎるほど知っているのに。
 どれほど前の世界だろうか。もしかしたらこの世界のことだっただろうか。


誰だって幸せになる権利がある。
難しいのはその享受。

誰だって幸せになる権利がある。
難しいのはその履行。

私だって幸せになる権利がある。
難しいのはその妥協。


 口にした言葉に圭一は「その『私』は幸せになることを諦めている」と言われた。
 諦めざるを得ない状況を知らないからそんなことが言えるのだ、と言えたらどれほど楽だっただろうか。もがき続ける苦しさを知らないから、と。『私』だって好きで諦めているのではない、と。

 言えるはずがなかった。

 以前の梨花はおそらく好きで諦めていたのだから。好んでそちらを選んだ、というわけではなく、より自身が楽をする方を選んでいただけだが、どちらにしろ自分で選らんだことに変わりはない。

「俺たちみんなが揃ってたら、もっと幸せになれるよ」

 だから前へ。

 そう言って手を引いてくれる人たちがいたからこそ、梨花は今この場所にいることが出来るのだ。彼らには感謝してもし足りないし、これからもずっと愛すべき存在であるだろう。

 いつか、と梨花は思う。

「いつか、私も、皆の手を引いてあげることができるように、なるかしら」

 導くまではいかずとも、せめて並んで歩くことくらいはできるだろうか。
 呟いた言葉に「もう、なってる、よ」と途切れ途切れの言葉が返ってきた。
 そろそろ日も落ちようかという時間帯、頬を撫でる風が熱気を振り払ってくれるとはいえ。

「よくこの状態で寝れるわね」

 呆れたように呟くも、背後からの寝息は途切れない。少しでも動けば彼を起こしてしまいそうで身動きも取れない。
 どうせならこのまま一緒に寝てしまおうか。夏だし多少外で寝たところで風邪を引くこともないだろう。

 そう思っていた梨花の耳に、「梨ぃ花ぁ?」と愛しい声が聞こえてきた。兄である悟史が目覚めて以来、沙都子は唯一の肉親と一緒に暮らしている。この時間帯に神社に来る用事などないはずだが。
 ぴょこん、と階段の向こうから黄色い頭が二つ。悟史が荷物をもっているところを見ると、買い物帰りだったのかもしれない。
 賽銭箱の前に座り込んで、圭一に抱きしめられている梨花と、梨花を抱きしめたまま眠っている圭一と。
 見つけた瞬間沙都子が指をさして大きく口を開ける。「何をしているのでございますのっ!?」と圭一への詰問が飛び出るだろう。しかしその前に悟史が妹の口を塞いだ。もごもごとまだ何かを叫び続ける沙都子へ、こちらを指差して悟史が何か言う。

「よくやったわ、悟史」

 小さく呟いて、梨花は背後の気配を探る。どうやら北条兄妹の出現で起きることはないらしい。圭一はよく眠ったままだ。
 そっと近寄ってきた沙都子は二人を見下ろして、「こんなところで寝ていると風邪引きますわよ」と呆れたように腰に手を当てる。その声が小声なところを聞くと、やはり彼女も圭一を起こしてしまうことは本意ではなさそうだ。

「こんなところで何してるの?」
「圭一とお話してたですよ」

 しゃがみこんで目を合わせながら悟史が尋ねてくる。そういった行動自体、彼が兄である証拠だ。必ず小さな子供の目線に合わせようとする。

「こんなに暑いのによく眠れるね」
「それは僕も驚いてるのです。圭一は感覚も鈍感なのですよ」

 そう言うと、悟史は「鈍感にもほどがあるよね」と笑った。

「でもこのまま寝かせておくわけにもいきませんわ。もうすぐ日が暮れましてよ?」
「そうだね。よく眠ってるみたいだから起こすのは可哀想だけど」

 眉を寄せて苦笑しながら、悟史が圭一へ手を伸ばす。

「圭一、起きて?」

 沙都子に対する優しさとは違う種類の甘さを含ませた声。悟史など、圭一を知ってまだ一月程度しか経っていないだろうに。
 皆、彼が好きなのだ。
 真っ直ぐで、もろく傷つきやすい、それでも誰よりも優しくて強い圭一が。
 肩を揺さぶっても起きようとしない圭一に、「寝ぎたないですわね」と沙都子が呆れる。これならば多少梨花が動いたところで彼が起きてしまうことはなかったかもしれない。
 そう思い、梨花は圭一の腕の間でくるり、と体を反転させた。膝で立ち、正面から圭一を見つめる。

「圭一、起きるのですよ」

 ぺちぺちと頬を叩くも安らかな寝息は途切れない。

「圭一」

 唇が触れ合うぎりぎりまで顔を近づけてやると、「梨花!」と沙都子からの叱責が飛ぶ。それを無視してさらに顔を寄せ、かぷり、と圭一の鼻の頭に噛み付いた。

「って」

 ようやく目覚めた圭一に「おはようなのです。にぱー」と笑いかけてやる。普段ならあまりの顔の近さに慌ててくれそうなものだが、寝起きだからか彼は「おはよう」とにっこりと笑みを浮かべた。

 その顔があまりにも無邪気で、可愛らしくて、梨花を含めた三人が思わず赤面して固まってしまう。

「……本当、可愛すぎるわ」

 思わずこぼれた梨花の呟きに、自然と他二人も頷きを返していた。

 まだどこかぼぅ、としている圭一の腕の中から抜け出し、うん、と伸びをする。その間にも悟史は圭一の腕を引いて立たせ、ぱたぱたと服の土ぼこりをはたいてやっていた。単なる世話焼きなのか、相手が圭一だからか。
 おそらく両方だろう、と思いながら梨花は悟史へと近づいていった。腕を引いて彼の視線を向けさせると、にたりと笑って言葉を続ける。

「そう簡単に手に入れられると思わないでね?」

 誰が、何を、という語句をわざと端折って言ってみたが、悟史は正確に意味を汲み取ったようで、不敵な笑みを返した。




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2007.10.05
















魔女との対話。
むりやり悟圭で終わらせる。