under「Call me」の続き。


   With you


 声が、聞こえる。

『僕は、――――、――だよ』

 低く鼓膜を擽る声。ずっと聞いていたいと思うほど、何故か心が安らぐ声音。彼は何と言っていたのだろう。名前、そう名前を教えてくれていたはずなのだ。声の主の名前、呼んでやりたい、呼びかけて、「なに?」と返事をもらいたい。けれど呼ぶべき名前が思い出せない。

 ふ、と意識が浮上した。開いた瞼の向こう側には灰色の天井が広がっている。ここはどこだろう、思い出せない。くうるりと、目だけを動かしてあたりを伺う。石造りの天井しか目に入らなかった。頭をこてん、と動かす。それだけなのにひどい重労働をしたように疲れてしまった。自分が横たわっているのが広いベッドだと知る。白い清潔そうなシーツにくるまっているようだ。
 ゆっくりと身体を起こす、血が流れていく感覚にわずかな目眩。目を閉じて収まるのを待ち、再び開いた瞳で今度は室内を見回した。誰もいない、自分ひとりだけで大きなベッドで眠っていたようだった。
 床も壁も石造りだが、柔らかそうな黒い絨毯が敷かれている。ベッドと、そばには腰の高さ程度のテーブルがあった。何かが乗っている。目を細めて見るがよく分からない。尻を上げ、ベッドの上を這うようにそちらへ向かった。きらきらと輝く金色の何か。鎖、だろうか。細いチェーンのようなものに赤い石。とても嫌な感じがある、触れてはいけないと本能が訴えてくるそれは、けれどどこか懐かしさも醸し出しているようだった。

 詰めていた息を吐き出し、もう一度くるりと室内を見回した。
 やはり自分以外にはだれもいない。そのことに大きな違和感を覚えて仕方がない。

 本当にここにはひとりだけだったのだろうか。自分以外の誰かがいなかっただろうか。思いだそうとするが、どうにも頭のなかに靄がかかっているようで記憶が曖昧だった。そもそもどうして自分はこんなところにいるのだろう。部屋に覚えもなければ、ベッドも、着ている服にも見覚えがない。自分はどこの誰で、どうしてここにいるのか。
 もやもやとした脳内でなんとか思考をまとめようと努力していたところで、ベッドのはしにそっと置かれた水色の何かに気がついた。四角いそれ、封筒のようだ。手紙だろうか。這い寄ってそれを手に取る、取り出した紙切れに走った几帳面な文字。書いたものの性格が表れているような気がする。
 そこには端的に今後どうするべきかという指示が書き記されていた。

 気がついたらすぐに城を出て北西に向かうこと。
 古い洋館があるからそこに住むサマエルという悪魔を訪ねること。
 彼ならばきっと力になってくれるだろうから。

 そう書かれているが、正直あまり理解はできなかった。ここは城なのだろうか、北西とはどちらのことで、悪魔というのは物語のなかに出てくるような化け物のことなのだろうか。力になってくれるとは具体的にどのように?
 分からないことだらけでさらに混乱してしまったが、それでも視線は文面の最後に吸いつけられて離せない。血の通っていない、機械のような文章のあとにぐしゃぐしゃと、言葉をペンでつぶして消したあとがあるのだ。続けて何か文句が書いてあるわけでもない。書き間違えたのではなく書こうとして止めた、ということなのか。丁寧な文字の書き方から考えて、こうした書き損じは雰囲気に合わない。
 一体何を書こうとしていたのだろう、どんな言葉を伝えたくて、止めてしまったというのか。
 すぅ、と目を細めて黒い痕をにらみつける。絡まる線の向こう側。うっすらと浮き出てくる言葉は、「ごめん、ね……?」
 謝罪の言葉、そして続けられた、もう一言。


『ごめんね、兄さん』


 理解すると同時に彼、燐はベッドから飛び降りた。
 やはりここには自分以外の誰かがいたのだ、いや誰かではない弟だ、己の双子の弟だ。会いたいとずっと願っていた弟が、一瞬だけその顔を見たような気がする弟が、同じ部屋にいたのだ。
 探しにいかなければ。
 目覚めたときからずっと視界に入っていた、大きな木の扉を押しあけて部屋を飛び出る。
 せっかく会えた、会えていた弟なのだ。
 彼がどうして燐に謝罪をしているのか分からない。相変わらずここがどこかかも分からず、一心に走る燐の姿を物珍しげに見ているものたちが人間とは違う異形のものばかりだという事実も理解できない。けれど悩んでいる暇も驚いている暇も怖がっている暇もないのだ。弟に会わなければいけない、今すぐに会って抱きしめなければならない。そんな焦燥に突き動かされ、とにかく燐はがむしゃらに走った。
 呼ばれている、そんな気がするのだ。
 兄さん、と。弟に呼ばれているのが分かる。頭のなかに、心の中に、魂に響いてくるのだ。
 助けて、と泣いている弟の声が。

 ぎゅう、と燐を抱きしめてくれた腕の強さ、熱さ。おぼろげにしか記憶にないが、それでもおそらくあの部屋では確かにあった出来事なのだと思う。たとえ出来損ないの脳が覚えていなくても、この身体にはしっかりと刻まれていた。触れてくる手のひら、優しさ、温もり、愉悦と、歓喜。燐を呼ぶ声。兄さん、と何度も繰り返される言葉。僕を呼んで、と狂おしく求めてくる。紡がれる名前。弟の名前だ、知りたい、呼びたいと欲してきたそれ、確かに鼓膜を震わせたはずの音。

「っ、ゆ、きおっ!!」

 頭に言葉が浮かぶよりさきに、魂がそう叫んでいた。正面の扉を押し開く。驚いたようにこちらへ向けられた視線は二つ。背中で腕を組んで床に膝をついている男と、その前に立ち金色の光る何かを手にしている異形の男。その金色はだめだ、その鎖は、赤い石はよくないものだ。サイドテーブルの上で見たものとほぼ同じもの。それを使うとおそらく膝をついている男は、弟は消えてしまう。

「や、めろぉおおっ!!」

 怒鳴ると同時に視界が真っ青に染まった。広がる青、揺れる青。それは炎、だ。青い炎。その炎を生み出しているのはほかでもない燐自身。
 自分を包み込んでいるそれに驚く間もなく、ぎゃあああ、という悲鳴が室内に響き渡った。はっと顔を上げ視線を向ける。放たれた炎は部屋を埋め尽くす勢いで、呑みこまれた異形の男がのたうち苦しんでいる。彼が持っていたはずの金色の鎖は跡形もなく消失してしまっているようだった。
 ほっと息を吐き出し、未だ膝をついたままの弟のもとへ駆け寄った。青い炎が燐に危害を加えないのはもちろん、弟に対しても無害だというのは驚くに値しない。当然のことだ、兄の力が弟を傷つけるはずもないのだから。
 行くぞ、と弟の手を掴み、燐はその部屋から飛び出した。



「どうして、あなたが……」

 城を飛び出して走り続け、どれほど来ただろうか。さすがに疲労を覚えたため足を止めれば、まだどこか呆然としている弟がそう口を開いた。ああこの声だ。この声が、ずっと燐を呼んでいたのだ。
 どうしてじゃねぇよばか、と弟に向き合い、その両腕を掴んだ。

「お前が、俺のことを呼んでくれてたんだろ、『兄さん』って! 俺だって、お前にずっと会いたかったんだ……!」

 未だに燐はここがどこであるのかも分からないし、城のなかでみた異形のものたちが恐ろしい。自分が何者であるのか、あの炎はなんだったのか、疑問は次から次に湧いて出てくる。
 けれど一つだけはっきりしていること。これだけは確かだと言い切れる事実を燐は持っている。

「お前は俺の双子の弟だ。そうだろ?」
 ――雪男。

 呼びたくて仕方がなかった名前。
 呼んでもらいたくて仕方がなかった名前。
 メガネの奥の緑色の瞳からほろほろと涙を零し、燐の双子の弟はうん、と頷いた。
 異なる世界に引き離されてしまった双子の兄弟は、失った片割れを求めて手を伸ばす。やっと触れ合えたこの手を、もう二度と離さない。

 その日青焔魔の血を引く双子の兄弟は、城からも、そして虚無界からも姿を消した。
 兄悪魔の助けを借りて父神の力の届かぬ物質界で、仲睦まじく暮らしている、という話である。
 




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2015.02.12
















物質界に行ったあと、燐兄さんを人形にしていたときの罪悪感から、
雪男の態度がちょっと硬くて、そこでまたひと騒動あったりする、ような気がする。