柔らかく甘い」の続き。


   甘く優しい


 兄がお菓子づくりにはまった、らしい。

 いっこ疑問があるんだけどさ、と甘い香りの満ちる食堂のなかで弟がのんびりとした声をあげた。普段の大人っぽいしゃべり方とは違う、十五歳の素が現れている口調と顔だ。

「材料はどうしてるの? あと作り方とか」

 背後から飛んできたその質問に、兄はエプロンを外しながら「ちゃんと自分の小遣いで買ってるぞ」と返した。

「レシピは買うだけの小遣いねぇから立ち読み。気合いで覚えてるつもりなんだけどさ」

 いくら料理に関することとはいえ、さすがに分量から工程まですべてを記憶するのは難しいらしい。まあ失敗するよな、と燐は照れたように笑って己の作品をつまみ上げた。
 まだ熱の残るそれは彼曰く「ドーナツ」らしいけれど。

「これはこれで美味しいよ。僕は好き」

 カフェオレの入ったカップを片手にかじり付くそれは、ドーナツらしからぬ硬さを雪男の歯に伝えてきていた。クッキーほどではないが、ドーナツと聞いてふんわりしたイメージを抱いていれば歯が驚く硬さ。分量を間違えたのか手順を間違えたのか。記憶だけを頼りに作れるほど、菓子類は甘くないということだろう。(できあがったこのドーナツもどきはちゃんと甘いけれど。)
 ドーナツだと思わなければな、と燐もまた笑って硬いそれにかじりついていた。味は悪くないのだ。卵と砂糖と小麦粉の、素朴な甘さがある。雪男の好きな味、燐の作るお菓子の味だ。

「また今度チャレンジしてみる」

 次こそは膨らませるから、と意気込む兄を前に、雪男はごく自然にくすり、と笑みをこぼしていた。楽しいんだね、とそう口を開く。

「ん? なにが?」
「いや、お菓子作り。兄さん、すごい楽しそう」
「あはは、まあなー。料理好きだし、雪男がどんな顔して食ってくれるかなって考えながら作るの、すげぇ楽しい」

 食べやすいように砕いたドーナツをクロにも分けてやりながら、燐は当たり前のようにさらりとそんなことを言ってのける。僕限定なの? と雪男はこてん、と首を傾げた。

「だって俺、お前の飯、作ってんだもん。雪男が食わねぇってんなら作らない。自分のためだけに作っても楽しくねぇし」

 こくり、と兄が口を付けたマグにはブラックのコーヒーが入っている。甘いものを食べるのだから飲み物は甘くないほうがいい、というのが彼の持論。雪男は、どちらも甘ければより一層美味しいと思うタイプだった。
 雪男さぁ、と兄は言葉を続ける。

「こないだのクッキー、すげぇ気に入ってくれたじゃん? 美味い、ってばくばく食ってさ。お前、自分じゃ気づいてねぇだろうけど、あんとき子供みてーな顔してたんだぞ」

 お菓子を与えられて上機嫌ににこにこと笑う。まさに子供そのものの反応だった、と。指摘されたところでそうであった自覚はまるでないけれど、なんとなく否定もできないような気がした。あのクッキーが美味しかったことは事実であるし、また作ってくれないかな、と常に期待しているのも事実だからだ。
 うわぁ、と呻いて顔を覆う。たぶん、耳まで真っ赤に染まっているだろう。
 そんな弟を正面に、兄はおもしろそうにきしし、と歯を見せて笑っていた。
 燐が料理を好きなのは、壊すことしかできない自分にも、作ることのできる何かがあることが嬉しいからだと思っていた。食べることが好きだというのももちろんあるだろう。美味しい何かを自分の手で作ることが楽しいのだろう、と。けれどそんな雪男の認識は少しばかりずれていたようで。

「兄ちゃんはな、雪男の言う『いただきます』と『ごちそうさま』を聞くために料理してんだよ」

 テーブルに並んだ料理を前に、期待に満ちた顔で紡がれる「いただきます」という言葉。
 空になった皿を前に、満ち足りた顔で紡がれる「ごちそうさま」という言葉。
 それを耳にするだけでまた何かを作ろう、という気になるのだそうだ。もっと美味しい何かを、雪男が喜んでくれる料理を作ろう、と思うのだそうだ。
 衒いなく放たれる言葉に顔の火照りが収まらない。くそっ、と小さく悪態をついて、「兄さん僕のこと好きすぎるだろ」と言えば、「今頃気づいたかばーか」と返された。バカはどっちだよ、ばか。
 恥ずかしさと、それを上回るほどの嬉しさに煮え立つ脳を落ち着かせるため、マグに残っていたカフェオレを一気に飲み干した。ふぅ、と息を吐き出して、クロとドーナツを食べている燐を見据える。

「兄さん、ちょっと出かけようか。どうせこのあと暇でしょ?」

 今日は休日で、学校も塾もない。だからこそのんびりとおやつを食べていたのだけれど。
 決めつけるような弟の言葉にむっとしながらも、「まあ暇だけど、どこに?」と燐は首を傾げた。こくこくとコーヒーを飲んでいるところを見ると、つき合ってくれる気はあるらしい。本屋とスーパー、と雪男は端的に答えた。

「お菓子のレシピ本、買いに行こ。あと材料も。材料だったら日持ちもするよね? 買い込んでおけば、兄さんに暇ができて作りたいなって思ったときすぐ作れるでしょ」

 なけなしの小遣いで買った材料に、買うことができず立ち読みで済ませているレシピ。燐の趣味のこととはいえ、それらは雪男のためでもあるわけで、つまりは財布のひもを緩めるには十分すぎる理由があるということだ。
 突然の提案にきょとんとしている燐を見やり、雪男は言葉を続ける。

「それで、いつか膨らんでるドーナツ、僕に食べさせてね」

 ふうわり、と。
 浮かべられた笑顔は甘くて優しい。
 喜びと期待が混ざったその笑みはとても幼くて、やっぱりガキみてぇな顔、と兄が思っていることを雪男は知らないでいる。
 その笑みを作ることができるのも見ることができるのも、双子の兄だけの特権だ。





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2015.02.06
















塾生たちに差し入れするときに、「もうさ、これ食ってる時の雪男の顔が超可愛くってさ!」と
ナチュラルに惚気て、真っ赤になった雪男が止めに入る、というところまでがワンセットです。