冊子「インモラル」のサイドストーリィ。


   題名のない観察記録


 兄が馬鹿なことを言い始めた。正直、到底受け入れられない提案で、どんな理由をつけて却下してやろうかと思ったが、すぐに考え直す。
 むしろこれを利用してしまえばいいのだ、と。
 これを使って、兼ねてから企んでいたことを実行してしまえばいいのだ。そうしろ、と兄さんが後押ししてくれている、と都合よく考えることにした。いつも兄さんやシュラさんに「もっとポジティブになれ」と言われているのだ、ポジティブに捕えさせてもらうとしよう。



某月某日
 実験において重要なことは、対象と経過を観察することだ。
 これから僕がすることは決して実験などではないし、失敗も許されない。だからこそ、具に観察し、記しておくことが必要だと思う。
 古典的に手書きなのは、データに残しておきたくないからだ。これなら都合が悪くなれば焼却してしまえばすむ。
 とりあえず今日、僕の引っ越しが終わった。といっても仮住まいだから段ボールを広げる気はない。最低限の生活用品さえ手元にあればいい。兄さんはしきりに僕が本当に片づけるのかを気にしていた。さすが二十年以上兄弟をしてきただけあり、僕の面倒くさがりな性格もよく知っているのだ。
 今度兄さんの引っ越しの手伝いをしにいくけれど、あのひとのことだ、もともと荷物は少ないし、片づけもひとりで終わらせているだろう。少し遅れていくことにする。生まれて初めてのひとりぐらしだ、寂しくてやっぱり無理だった、と泣きついてきてくれたら話は早いが、兄さんがそんなことを言うとは思えない。やはりこの機会にじっくりと教えこんでおくのが良いと思う。
 今後の計画を端的にいえば、兄を精神的に追いつめて疲弊させたのち、優しく保護する、ただそれだけ。計画にしては大ざっぱすぎるが、某小説にも書いてあった、計画はおおざっぱなくらいでいい、と。きっちり積めすぎると予定外のことが起こった際に対処できなくなる。ちなみにその小説は推理小説で、犯罪計画についての一文だった気がする。
 とにかくこの計画でもっとも留意しておかなければならない点は、人間である僕と悪魔である僕が別の存在であると兄に思いこませること。これに尽きる。人間の僕から兄さんを奪い取るための計画なのだから。


某月某日
 僕に彼女ができたらしい、という話を聞いた兄さんは、傍目で見ても分かるくらいにひどく狼狽していた。よくそれで離れて暮らそうだなんて思えたものだ。本当に馬鹿なひとだと思う。僕たち双子が別々に生きていけるはずなんてないのに。やっぱりきっちりと教え込んでおく必要があるようだ。
 だいたいあのひとは、馬鹿なくせに常識人なのだ。そして頑固。
 僕のことが好きでたまらないくせに、兄弟だから結ばれない、結ばれてはいけないと思いこんでいる。人間[ぼく」の幸せに悪魔[じぶん」は必要ないと思いこんでいる。世間一般の常識から考えればそうかもしれない。けれど、そもそも常識外の存在が常識を語ることほど滑稽だと何故気づかないのか。


某月某日
 悪魔として初接触を試みる。
 どこから入ってきたのか、と兄さんは聞いてきたけど、悪魔払いの結界が張ってあることも忘れてしまっているのだろうか。玄関から入ってくる以外にあの部屋に悪魔が侵入できる方法はないと、言ったはずなんだけど。そこから推測してまず僕を疑う、という思考には……ならないだろうな、あのひとは。
 よほど僕という存在に飢えていたのか、顔を見た途端おとなしくなってしまうのはいかがなものか。刀を突きつけてきたところは、格好良かったのにね。そんなことだと悪い悪魔に食べられちゃうよ。(兄さんが眠ったのを確認して少しだけ味見をさせてもらったのは内緒だ。)


某月某日
 室内での抜刀はやめた方がいい、ともう少し強く言っておけば良かった。
 兄さんの部屋の壁に傷がついていないことを祈る。


某月某日
 正直もう少し早く僕にコンタクトを取ってくると思っていた。兄さんの脳味噌じゃあこれくらいが限界か。
 僕を探していた、と同僚祓魔師から聞いた直後に電話があったが、もちろん無視。そうした場合兄のことだ、直接会おう、と僕の家に来るだろう。それも予想通り。買い物を行ってから来るだろうことを考えれば、どの道を通るのかも絞れる。どのタイミングでも良かったのだ、僕と「僕の彼女」の姿を見せつけるのは。
 彼女役が召還した悪魔が化けた姿だったことに兄さんは気づかなかったようだ。注意深く探れば気づけているはずなのだけれど。もう少し冷静に状況を把握できるよう、修行が必要とシュラさんに忠言しておこう。
 家に戻ってきた兄さんはずいぶんと疲弊していて可愛そうだった。僕には甘えてもいいのだ、ということをゆっくりと刷り込んでいく。僕にすがりついて泣く姿があまりにも可愛すぎて、その場で何もできない代わりに脳内で犯しておいた、三回ほど。


某月某日
 兄さんを抱いた。今度は脳内じゃない、ちゃんと現実で。
 何年もずっと妄想してきたことだ。
 妄想のなかよりも兄さんはずっと綺麗で、可愛くて、いやらしくて、可愛そうだった。
 「人間の僕」が口にした結婚という言葉に、顔を真っ青にして震えていた兄さん。悪魔の甘言に飛びついてしまうほど傷ついていた兄さん。
 本当に可愛そう。あまりにも可愛そうだったから、全力で慰めて甘やかして愛してやった。
 あんな男のことなんか忘れて、早く僕のところに落ちてくればいいのに。そうしたらこんなにも泣いたり苦しまなくてすむ。ずっとずっと甘やかして、大事に大事に愛してあげるのに。
 兄さんが早くそのことに気が付きますように。
 ……無理やりでも気づいてもらうけどね?


某月某日
 時々兄さんの様子を見に行って、セックスをする。兄さんが起きるころには姿を消すというのがルール。起きたときにひとりというのは案外ダメージを受けるものだ。兄さんの心はだいぶ悪魔の僕に傾いているとは思うが、まだそこまで甘やかす時期ではない。もっともっと僕に溺れて、僕なしではいられない状態にしないと。人間の奥村雪男にはできないことでも僕はしてあげるんだってことをしっかり教え込んでおく。もちろん身体で、手取り足取り腰取り、ついでにアレも。


某月某日
 兄さんのご飯が食べたい。兄さんのご飯が食べたい兄さんのご飯が食べたい兄さんのご飯が食べたい兄さんのご飯が食べたい兄さんのご飯が食べたい兄さんのご飯が食べたいまだ食べられないから兄さんを食べにいってくる


某月某日
 フェレス卿より忠告。確かに最近兄さんの色気が増してきたと思っていたけれど、惚れた欲目ではなかったようだ。注意を促してあげたいけれどそれは今の僕の役割ではないと思ったため、フェレス卿より伝えてもらいたいと頼んでおいた。僕が悪魔になってしまったことを彼が兄さんに言ってしまうかどうかは賭けだったが、たとえばれてしまっても、もう一度人間の僕に会わせてやればどうとでも丸め込めるだろう。どうせもうすぐしたら人間の僕は用済みになる、もう兄さんが会うこともなくなるのだから。
 明日時間があいているから、兄さんに注意を促しておいてくれるそうだ。ついでに「僕は今この生活を楽しんでいる」と伝えておいてもらいたい、と言っておいた。漠然とした言葉に、兄さんは勝手に傷ついてくれるだろう。


某月某日
 やっと、やっとだ。やっと兄さんが、人間の僕ではなく悪魔の僕を必要としてくれた!
 悪魔同士の魂を結びつける契約のことを知ったのは偶然だったけれど、まさに僕と兄さんのためにあるようなものじゃないか。今すぐでなくてもいい、いつかそのうちにと思っていたはずなのに我慢ができなかった。兄さんが不安そうな、寂しそうな顔をしているのが悪いんだよ。早く縛ってあげないとって思ったんだ。
 きっと兄さんは来てくれる。来てくれると信じてる。来なかったら……どうしてやろうか。


某月某日
 兄さんのすべてを手に入れた。
 身も心も魂も。
 もう離さない、人間の僕になど返してなるものか。
 あれはもう僕のものだ、僕だけのものだ。
 もちろん僕のすべては兄さんのもの。愛してるよ、兄さん。


某月某日
 契約をしてからほぼずっと、兄さんを抱いている。抱けば抱くほど兄さんの身体が僕に馴染んでいくようだ。離れたくない、と兄さんも望んでくれているのだと思う。寂しがって泣いてしまわないように毎日毎時毎分毎秒可愛がってあげないと。
 そろそろこのメモ書きを残す必要もなくなってきた。ペンを取るのも今日で最後になるだろう。
 そういえばふと思ったことがある。
 僕の悪魔への目覚めはひどく緩やかなものだった。僕はもともとどちらにでもなれる存在だったそうだ。それが徐々に悪魔側に傾いてしまったのは、おそらくだけれど、兄さんのせいだと思う。人間である僕を拒み続けた兄さん。だけど僕はどうしても兄さんが欲しくて、欲しくて欲しくて仕方がなかった。人間である限り、絶対に手に入らない兄さんが。
 僕はそのせいで悪魔になったんじゃないだろうか。人の道は外れるけど、それでも兄さんが人間の僕を受け入れてくれていたら、今頃はこんなことにはなっていないかもしれない。
 そう教えてあげたら兄さんはどんな顔をするだろうね。
 自分のせいでと嘆くかな、それとも人のせいにするなと怒るかな、それとも――





***   ***





「雪男、何読んでんだ? ノート? うわ、古いなぁ。いつの?」

 ひょこん、と後ろからのぞきこんできた悪魔の視界に入らぬよう、ぱたむ、とノートを閉じる。もう覚えてないくらい昔のだよ、と答え、雪男はそっと背表紙を指で撫でた。
 色あせた一冊の冊子。自分でも書いたことすら忘れていたものだ。観察記録のつもりで始めたはずなのに、結局はただの日記になり果ててしまっている。綴られているのは若くて青い自分の言葉。もはや恥ずかしさを通りこして怒りを抱きそうになるくらいだったが、それでも当時の必死さがどこか懐かしくもある。
 この時期があるから今もこうして燐と暮らしていられる。最愛の兄を手放さずにいられるのだ。
 ねぇ兄さん、と椅子の背もたれ越しに抱きついている燐を呼ぶ。

「これ、兄さんの力で燃やしてくれないかな」

 書いてある内容にさえ目をつぶれば、これはどこにでもあるただのノートだ。焼失させたいのなら何も燐の炎に頼る必要はない。可燃ごみとして処理することもできるし、シュレッダーで粉砕してもいいだろう。
 けれどこれは彼の青い炎に消してもらいたい、とそう思った。彼の炎に包まれる最後こそ、この観察記録には相応しい。

「え、いいのか? そりゃできるけど……」

 炎の力を完全に操ることのできるようになった彼ならば、高々ノート一冊燃やすなどわけもない。灰すらも残さず燃やし尽くしてくれる。指先にろうそくのように炎を灯してあやしながら言う兄を振り返り、お願い、とキスを一つ。

「……お前、ちゅーすれば俺が言うこときくとか、思ってんじゃねぇだろうな」
「さあ、どうだろうね?」

 最愛の悪魔を手に入れるためにもがいた男の記録が、揺れる青に包まれ音もなく燃えていく。その様を横目に、より深く舌を絡めるため燐の頭をかき抱いた。




 僕はね、兄さん。
 あなたさえ手に入れば、ほかはどうなっても良かったんだ。
 誰を傷つけ、誰を欺き、誰を踏み台にしても。
 あなたとともに生きていく未来を手に入れられたら、ほかはどうでも良かったんだよ。
 たとえこの身が悪魔に成り果てようと。
 たとえ、すべてあなたの手の上で踊らされていようとも。





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2015.02.21
















どっちもどっちだよ、君ら。